三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

筒野砦

2017-08-07 23:21:26 | 松阪の城

筒野砦

つつのとりで

城主、築城時期;不明

住所;松阪市嬉野天花寺町

遺構;土塁

位置づけ;天花寺城の南西1Kmの東に突出した標高35m、比高20mの丘陵にある。

  東の砦は46×80mの大きさで土塁が見られる。そこから西に100~200mの所に

  西砦があり土塁らしきものが見られる。天花寺城の付属施設か?

感想;平成28年現在付近は太陽光発電所が建設されて風景が変わった。遺構がどうなったのかは確認していない。

地図;



天保館

2017-08-07 23:20:51 | 松阪の城

天保館

てんぽうやかた

城名 天保館
読み てんぽうやかた
住所 三重県松阪市島田町
築城年 不明
築城者 不明
形式 居館
遺構 土塁(天保1号墳のものか?)
城主 不明
標高 25m
比高 10m
環境 対岸ではあるが南400mの所に堀之内城がる。
  北900mに筒野砦、北北東1.7Kmに天花寺城がる。
  中村川を警護する役目が主な目的ではないだろうか。
  堀之内城と関係を持ちながら、
   または所在が不明であるがあったとされる嶋田城(注1)の関係の館かもしれない。
遺構考察  天保1号墳と重複していると考えられ土塁の形状があるが素人では判別が困難である。
注1 勢陽五鈴遺響P67
  嶋田城跡;長野被官佐竹川北内匠助所居と云(所在地不明)
現地  伊勢自動車道で分断される位置にあるが現況は畑地である。
  古屋敷という地名が残る。
   松阪市遺跡地図での範囲外ではあるが竹藪の中に土塁の跡が数か所見受けられる。定かではないが中村川の際まで作為的な構造物があるのではないかと想像した。川との関係が濃厚だと思った。
地図  


堀之内城

2017-08-07 23:20:23 | 松阪の城

堀之内城

ほりのうちじょう

別名;堀之内御所

住所;松阪市堀之内町

築城期;天正18年

城主;舟木正尚、正頼、光俊、、、三右衛門

遺構;土塁、堀跡

由来;舟木正尚は父舟木頼尚の監督のもと堀之内城を築いた。正尚の子

  正頼は応永21年(1414)雲出川の戦いで手柄をたて北畠満雅に小

  倭谷の地を賜る。

   その子光俊の時、国司家といざこざをおこし国司家の夜討ちを受け

  たが、その後美濃の一族を率いて堀之内城を取り返し園の御所と称した。

   大河内城の戦いで手柄のあった舟木三右衛門は四代後の城主である。

  三右衛門の弟、中村仁右衛門光長は久米城主となる。

   天正四年(1576)北畠家没落と共に蒲生氏郷の家臣となり会津へ移る。

現地;嬉野史によると「城は土塁、堀に囲まれた方形の居館と思われる」と

   ある。グーグルの写真を見ていて気になる地形があったので再び現地

   へ行くと、それは堀跡と思わせる曲線ではないだろうか。田んぼの畔の

   線が堀を埋めて残った曲線と考えた。はたしてどうだろうか。そうすると 

   その延長線上には、はたして何があるのだろうかと探索すると藪の中に

   土塁を発見したのである。

 地図;


 


釜生田城

2017-08-07 23:18:42 | 松阪の城

釜生田城

かもだじょう

住所;松阪市嬉野釜生田町

築城年、築城者;不明

形式;山城

遺構;郭・土塁・空堀

規模;110m×60m

城主;不明

標高;53m 比高30m

位置づけ;伊勢平野から宇気郷を経て白口峠を超えて多気を結ぶ間道

  (注1)の、又中村川を使った多気御所への食糧輸送上大切な経路を

  監理する上で重要な場所にある。

   滝之川城まで2Km、森本城まで1.3Kmの距離にあり両城との関

  連を推定させ興味深い。

現地;メトロポリタン倶楽部のゴルフコース境界線と接し、歩き回っている

  とゴルフコースに出てしまいビックリする。

感想;城主や築城時期不明など資料が残っていないことや滝之川城

  森本城が近くにあること、縄張の特徴から支城であるように思われる。

   釜生田城の縄張の特徴は眼下に沿って長辺側を配し郭も単郭(注2)

  で見張りに適した構造である。居城というよりは駐屯ないしは見張り

  というほうが適切である。

注1;間道で白口峠まで18Kmほど、更に5Kmほどで多気に着く。

注2;主郭の東に一回り小さい郭(屋敷の雰囲気)があるので正確には

  連郭式である。

 

地図;



森本城

2017-08-07 23:18:04 | 松阪の城

森本城

もりもとじょう

城主;森本氏、

   森本飛騨守

築城時期;不明

住所;松阪市森本町向山

遺構;山門の北西に幅6m~10m、高さ1m~2mの土塁状 細い空堀、

  祠跡、泉

経緯;伊勢平野の中央部から北畠氏の居住する多気までの道は3本あるが

  米を運ぶ主要な道は森本城を経由する白口峠越えコースと言われてい

  る。森本城は伊勢米輸送路線の監視、防衛のために築かれていると言

  われる。木造顕俊の次男俊重が多気城(霧山城)の支城として築城し代

  々飛騨守を名乗った。

   森本氏は士15人、兵50人の大将で永禄12年(1569)大河内城籠城

  にも参加した。天正12年(1584)の松ヶ島城の戦いで木造勢として助勢

  したが討死した。その子俊貞彦一郎は三瀬入道滅亡後栃川村に引き籠り

  称念寺を建立国司一族を弔った後寛永7年(1630)正月に死去した。

  子孫は土着し川俣谷(かばただに)に住んだと言われる。

感想;城は東西130m、南北280mと大規模な方形居館であり北畠氏が中

  村川流域を支配するための拠点としたことが想像される。対岸の滝之川城

  が近辺で最も複雑な構造を持つ城であり森本城とセットで考えるのが

  わかりやすい。

地図;



滝之川城

2017-08-07 23:17:37 | 松阪の城

滝之川城

たきのがわじょう

城主;明光院殿

築城時期;不明

住所;松阪市嬉野滝之川町小甚吾

遺構;郭、堀切、空堀、のろし穴跡

規模;東西160m、南北90m

経緯;北畠氏中村谷ルートの支城の一つ。

  応永22年(1415)北畠満雅の挙兵時には室町幕府が「中村口」から多気近

  くまで攻め込んでいるので中村川流域を支えることは重要課題であったと

  考えられる。

感想;滝之川城は規模、構造共に近辺にはない防御機能が高い遺構であり、

  南麓の寺院跡と一体の可能性もある。又対岸の森本城との関係も考えら

  れる。更に尾根の南西500m端には出城と思われる宮野城がある。この

  辺りは中村口を押える重要拠点だったと想像される。寺院跡は五輪塔の

  一部が散在し経筒も出土したとされる。妙光院殿とは一体どんな人物だ

  ったのだろうか。

地図;



宮野城

2017-08-07 23:17:04 | 松阪の城

宮野城

みやのじょう

 

城名
 宮野城 
住所
 松阪市嬉野宮野町
築城年 築城者 城主
 不明
形式
 山城
遺構
 曲輪
規模
 17m×17m
標高 120m 峠から比高 14m
経緯
 最初に存在を知ったのは道路わきの観光看板であった。持ち帰って調べても観光看板の城名の他には確証を得る資料が見つからない。今回は当たって砕けろ精神で挑戦した。地図の下調べでは道路から距離が近いと考えられたので挑戦の決心も早かった。
書籍
 平成28年3月23日制覇
環境
 滝之城のすぐ近く(直線距離で500m)であり出城の位置づけであると思う。
現地
 ここも地面は猪か鹿の足跡から始まった。しかし、獣道がついていると案外登山は楽である。左右に切り返してジグザグに道を探すと案外続けて行けるものである。 5分もしないうちにこれはと思うところに着いた。
 頂部に削平地があり北側に小さい郭が一段低く連なっている。大きさは17m平方程度である。
 地図では北にもう一つの頂部があるので城はそちらかもしれないので一応当たってみる。尾根伝いに少し歩くともう一方の頂部に行きつくがどうも削平地ではなさそうである。自然な景観であり人の手が入った様子ではない。 少し光量不足で確認しにくいが自然な緩やかな傾斜を持つ頂部であり城の削平地とは考えにくい。この尾根を北に向かうと滝之城に続くのだと思う。
考察
 郭が主郭と副郭の二つからなる簡素な城で脇の峠道を監督する滝之城の出城であったと考える。資料や史料が無いのはそのせいかもしれない。一般街道として多くの人が通るところではないので関銭を取るような関所ではないと考えられる。
再考察
 平成30年春、所属する松阪山城会の評価は「山城と断定するには根拠が足らない」という内容で評価を出された。これを尊重し今回山城リストから外すことにした。
 削平地は地元集落の祭事の場所かも知れない。
反省
 山城の評価及び判定はこれといった基準があるわけではなく経験値に支えられた主観の総合評価であると思う。資料や史料がないとこういうことが起きる可能性が今後もあると思われるのでよくよく注意したい。
地図

 


小原城

2017-08-07 23:16:17 | 松阪の城

小原城

おはらじょう

城名 小原城
住所 松阪市嬉野小原町
築城年 天文10~元亀(1541~1572)
  嬉野史~寺伝
築城者 近衛(小原)冷泉(伊勢名勝志) 又は 北畠房雄
形式 山城
遺構 主郭、出郭、土塁、空堀
規模 主郭は20m×10mの平坦地
城主 小原冷泉(多気御所公家)か
標高 330m
比高 70m
書籍  松阪市の遺跡地図では小原狼煙台跡とされているが本丸となるのはこちらである。斜面に切岸、三方向の尾根に段状の平坦地、南伊勢中伊勢へのルート確保の意味。
 遺跡地図では小原城跡とされる削平地は堀切状の遺構があるがこれは神社造成に関わるものである可能性が高い。
 以上、嬉野史より抜粋。
主な家臣 武井左衛門尉
現地  堂坂峠の岩を掘った様子は一見に値する。後世の完成かも知れない。
感想・考察  小原城については松阪市の遺跡登録と異なる感想を持った。遺跡登録では西側の郭を「城」とし東側の郭を「狼煙台」とされている。現場で二つを比べると位置関係・標高の比較から西側を出郭の機能、東側を本城の機能にした方が納得がいく。東側の最も高い部分、削平地に狼煙台の遺構らしきものも見当たらない。峠から遠い、高い位置にある東側が本城・主郭であると推定する。ここでは西側を「出郭」東側を「主郭」とする。                      
 嬉野史では「出郭」を「神社造成に関わるものである可能性が高い」とある。現地で出郭を見ると城という緊迫感は無く神社と言われる雰囲気の方がしっくりくる。しかしその神社の造成以前には「出郭」であったかもしれない。それはその西側に峠と出郭の間にある、主郭とは相当離れた堀切が物語っているように思う。
PS(H28)  平成28年8月22日 小原城の遠景を撮影しようと現地に赴いた。広い路肩に車を止め三脚とカメラをセットしていると電動車いすのご老人が傍を通りかかった。会釈をすると声を掛けられた。「小原城の写真を撮らせてください」というと、「ここは出城じゃ、城は向こうにある」と明言されてビックリした。
   色々お話をお聞きするにほぼ半時間位、炎天下のもと二人で汗をかきながら過ごすに至った。なんと90歳とのこと。これ以上引き留めては問題あり。
   小原の在所に近衛冷泉の城跡があると聞いて行かない訳にはいかない。宝徳寺がそうらしい。小原城の遠景写真を撮って早速向かった。
地図


柚原城

2017-08-07 23:15:38 | 松阪の城

柚原城

ゆのはらじょう

城名 柚原城
住所 松阪市柚原町
築城年 不明
築城者 不明
形式 山城
遺構 郭、堀切
規模 南北40×東西15、
城主 不明
標高 428m
比高 78m
書籍  巾20m程の堀切をはさんで南北に二つの台状地がある。南側のものは長辺20m、北側のものは長辺13mで、いずれも2m程の高さのものである。 三重の中世城館より
主な家臣 神戸治部少輔(旗本目付)が柚原に住んでいたが関係は?
現地  松阪の軽井沢と称される宇気郷村は里山の景色がいっぱいである。東からの村の入口にある売店に寄って城への道を聞いた。
感想  宇気郷村の背後の山に城はある。地区市民センターに駐車させてもらい西端の登城口らしき様子の所から登る。300mもしないうちにプリン型主郭が見えてくる。頂部から西の尾根にある大堀切が目につく。上小川城の景色とよく似ている。双子のように似ている。
 三重の中世城館では堀切をはさんで南北二つの台状地がある、と記述されているが北側(西側)は自然地形と思われ郭では無いと推察した。
 尾根は主郭を中心に東西南北四方向にあるが段差がキツイ北尾根以外は堀切があった様子が伺える。西尾根の大堀切以外は形が崩れて分かりにくい。帯郭は幅は狭いが東西にあった。おそらく南にもあったと思われる。
地図  


黒米城

2017-08-07 23:14:53 | 松阪の城

黒米城

城名 黒米城(こくまいじょう)
住所 松阪市後山町
築城年 不明
築城者 不明
形式 山城(狼煙場)
遺構 郭、堀切、土塁
規模 郭幅15m×長さ60m(二つの郭)
城主 不明
標高 540m
比高 190m
現地  長さ40~60m、巾10m~15m程の細長い郭が直列に二つ連なっている。切岸は高くその傾斜を維持して立派である。
   南郭の南西側(幅広で浅い)と南側(深い)に堀切がある。 南郭と北郭の間にも明確な堀切があり郭を分断している。北郭の北にも浅いが明瞭な堀切がある。
   二つの郭にはそれぞれ北西側に土塁が見受けらる。特に南側の郭の土塁は浅いが明瞭に残る。
   細長い郭のため土塁がその郭幅寸法の半分を占めるほどである。なぜ郭を狭めてまで北西側に土塁が必要だったのか。北西側は切岸の勾配もきつく守りの為なら南東側に構築するはず。外敵からの守りの土塁ではなく北西からの季節風を避けるための土塁ではないのだろうか。兵は土塁に隠れて冷たい風から逃れたのではないか。または強風から狼煙の火種を守ったのではないか。
考察  郭の面積が小さいので多人数が立てこもって守る場所では無いようである。
   麓に館があったという形跡もなく詰城ではない。
感想  狼煙台を思わせる構造などは何もないがやはり狼煙台の機能を持った情報中継点のような城ではなかっただろうか。
   どこかとどこかの狼煙の中継のための砦と言った考えが一番ふさわしい気がする。
   多気御所と大河内城間の連絡ルートの一部で髯山狼煙台の次の黒米城狼煙台ではなかろうか。(注1)
注1  髯山の記録(髯山の説明板
地図


 多気~髯山~黒米城~堀坂山~南西平坦部

同行  松阪山城会
   大家氏(80歳、黒米山所有)の案内
関連 2016/10/20付け
   「狼煙台を求めて黒米山に登る」加藤 進 社会連携特任教授
 

http://www.iga.mie-u.ac.jp/161020norosidaieomotomete.html