三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

八太城

2017-09-13 11:50:22 | 古城巡り


城名
 八太城
読み
 はたじょう
住所
 津市一志町八太
築城時期
 永禄年間
築城者
 田上讃岐守
形式
 山城
遺構
 郭、堀切、土塁、物見代
城主の系譜
 田上讃岐守 - 子1)右近 - 子2)兵衛尉
規模
 東西125m×南北95m
標高 68m 比高 50m
歴史
 北畠家家臣。滅亡後は秀吉家臣。
 天正4年(1576)北畠氏が滅び羽柴秀吉に仕える。
 文禄元年(1592)兵衛尉は朝鮮の役で戦死し田上家は断絶した。
 その後、織田信雄は日置大膳に居城を与えたが、天正12年(1584)に秀吉は蒲生氏郷の与力生駒弥五左衛門をここに移している。
 その後、廃城となる。
書籍
 三重の中世城館
環境
 この城は南の谷あいが旧初瀬街道で、東へ行けば斑光寺、天花寺城に通じ、西へは多気に通じる関門となって重要な役割を果たしている。
現地
 山は高さ50mで谷は深い。西の尾根に堀切がある。頂上は平坦で行者祠があり、その後方に土塁がある。

地図

 <!-- 八太城 -->

 

 

 

 

 

 

 

 


大仰城

2017-09-13 11:28:27 | 古城巡り


城名
 大仰城
読み
 おおのきじょう
住所
 津市一志町大仰
築城年
 応永年間
築城者
 小泉藤能
形式
 山城
遺構
 郭、井戸
規模
 東西120m×南北70m
標高 80m 比高 43m
城主
 藤能は紀氏の16世の孫にあたる。
 藤能は1495年2月、伊賀の西蓮寺で48日間の念仏途中にわかに発病し53才で死去。
歴史
 藤能の子・宝珠丸(後の真盛上人 注1)は始めから僧侶になるべく育てられた。14才で出家天台律宗を究めのちの真盛宗を大成した。北畠政具、材親に仕えた。
 北畠材親をいさめた話が伝えられている。
書籍
 参考文献:一志町史上下卷 三重の中世城館
一族
 北畠に属し小倭党の一族
現地
 真盛上人の誕生寺が大仰城のある山の麓にある。
 城山の山上には明治初期の宝篋印塔や多数の石仏が祀られている。
地図
 
 
真盛上人のこと
 
 真盛上人は円戒国師・慈摂大師真盛といい、滋賀県にある西教寺の中興開山の祖師である。
 幼名を宝珠丸といい1443年に大仰で生まれた。
 父は小泉左近尉藤能といい紀貫之の17世末で、伊勢の国司北畠教具に仕え大仰城の城主。
 1495年2月、伊賀の西蓮寺で48日間の念仏途中にわかに発病し、53才で亡くなった。
 真盛上人が生まれた大仰には、生まれたときに使ったという「産湯の井戸」が誕生寺にあります。
 真盛上人にまつわる話は各地に伝わり大仰の「傘着き地蔵」さんもその一つ。
 
傘着き地蔵」さん
 
 今からおよそ550年ほど昔の嘉吉3年(1443年)、大仰の上出に一人の子が生まれた。
 この男の子はお母さんのお腹にいる時、お母さんがお地蔵さんから宝の珠をさずけられた夢を見たので、宝珠丸という名前がつけられた。
 宝珠丸は大変かしこい子どもだったので、お父さんは宝珠丸をお坊さんにしようと思っていた。
 そこで、宝珠丸が七才になったある日、宝珠丸に「お寺に行って、お坊さんの勉強をしなさい。りっぱなお坊さんになるまでは家に帰ってはなりません。」ときつく言った。
 宝珠丸はお母さんとわかれるのがつらくてぐずって泣きだした。
 お父さんは怒って半分おどすつもりで、下男に「むずかる子は川にすててこい。」と言った。
 下男はその言葉を本当のことだと思って、宝珠丸を家にあった笠に乗せ権現ぶちへ捨てた。
 すると、ふしぎなことにどこからともなく紫の雲がむくむくとわいてきて、笠ごと宝珠丸を包んだ。
 そして雲出川の上へ上へと押し上げて行き、地蔵ぶちの大きな岩で止まった。
 流れ着いたところがこのお地蔵さんの場所だった。
 そして宝珠丸は川口光明寺から仏門の世界へ・・・・・
 
 さてこの続きは一志町教育委員会編「一志町のむかしの話」文化財シリーズ第三号をお楽しみください。

上出城

2017-09-12 14:25:41 | 古城巡り

👆 上出城遠景

👆 帯郭

👆 帯郭

👆 虎口

👆 虎口内側

👆 主郭

👆 主郭入口・段差

 

👆 主郭

城名
 上出城
住所
 津市一志町波瀬
築城年
 建仁元年(1201)
築城者
 平家盛
形式
 平山城
遺構
 郭、虎口、土塁
規模
 60m×90m
城主
 山羽大監弘平家盛
標高 111m 比高 38m
歴史
 平家一門が没落の時、斎藤重秋は父実盛の命を受け六代の君を守ることになり一行は日川から波瀬に入り、難波六兵衛や安楽寺住職の助勢で建仁元年(1201)ここに城を築いて上出城と名付けた。
 重秋は山羽大監弘平家盛と改め初代城主となった。
 それ以来山羽平氏を名乗りこの地で栄え12代盛安の頃まで続き、江戸初期にこれを廃した。
現地
 山頂は平らで元愛宕神社の境内となっている。土塁はわずかに残りその周囲に堀がめぐらされている。東の空濠は昭和19年に戦時訓練に掘ったものである。
 池ノ谷城との距離は500mに満たない。
考察
 上出城の南800mに出丸城(いでまるじょう)がある。北の岩ノ谷城と一つの防御ラインができることになる。

地図

 <!-- 上出城 -->

 

 


岩ノ谷城

2017-09-12 14:02:39 | 古城巡り

 

👆 主郭切岸

👆 堀切

👆 堀切

👆 主郭

👆 主郭

 

城名
 岩ノ谷城
住所
 津市一志町波瀬
形式
 山城
遺構
 郭、堀切
標高 111m 比高 42m
現地
 上出城との距離は500mに満たない。
考察
 上出城の南800mに出丸城(いでまるじょう)がある。この岩ノ谷城と併せて一本の防御ラインができる。
 岩ノ谷城は上出城の支城と考えられる。

地図


 

 

 

 

 

 

 

 


波瀬城

2017-09-11 21:21:12 | 古城巡り

 

城名
 波瀬城
読み
 はぜじょう
住所
 津市一志町波瀬井之口
築城年
 応永元年(1394)
廃城年
 天正5年(1577) 183年間の波瀬城の歴史を閉じた。
築城者
 波瀬左中将正三位雅俊
形式
 山城
遺構
 郭(1~6)、堀切(a~e)、井戸跡
規模
 190m×110m    兵士数・・・・・・・500人
城主の家系
  木造雅俊①(波瀬氏を名乗る)
  雅俊は木造城奪回を失敗し坂内城へ逃れ、坂内氏を名乗る。
  -②-③-④-
  波瀬具祐⓹(具之)蔵人 天正4年(1576)11月25日田丸で殺害される。
  波瀬具通内膳正(具祐の弟)天正4年(1576)12月4日多気で殺害される。
  波瀬雅通⑥(具祐の子)天正4年(1576)波瀬城で戦死。
  波瀬康親(雅通の子)天正4年(1576)波瀬城で戦死。
 
標高 154m 比高 57m
 
歴史
 応永23年(1416)木造氏が宗家・北畠氏を裏切ったというので木造城を落城させた。
 しかし、京都にいた木造俊康は足利義持将軍の援けを借りて兵5万を率いて居城を奪回したので、雅俊は坂内城へ退いて坂内氏を名乗る。
 
 永禄10年(1567)三竹左京進を討伐した功により六代雅道は北畠氏より2千石を加増されている。
 
 天正5年(1577)には織田信長の軍勢に攻められ多数が討死した。寄せ手は火を放ったため雅道・康親父子は火中へおどり出て奮戦した。雅通は敵将瓜生八郎正景を殺し、東口より脱出して波瀬館へきて自害、波瀬城は落城し廃城となった。
 
経緯
 この波瀬家は北畠一門衆であるが、出自や系譜はかなり不明な点が多い。永禄5年(1562)の赤堀氏との戦いに加勢、出陣して一度敗れている。「赤堀の深きを知らではかなくも あさみをせせる波瀬の御所かな」と嘲笑された。この後、長野軍を援軍として赤堀氏を再度攻めて滅ぼしている。
 
書籍
 三重の中世城館
一族
 木造氏
現地
看板から
 中世、北畠氏の一族波瀬家六代(183年)の居城として、町内の数ある城跡の中でも代表的なものである。
 波瀬の地は、北畠氏の本拠がある美杉村多気に通じる最短の距離にある。
 北畠氏を支える伊勢平野の物資(一志米)を運ぶ上でまた軍事上の拠点といえる位置に波瀬城は築かれている。
 城の跡は、南が断崖となった権現山の頂上にあり、北側は傾斜がゆるやかとなる。
 城の西部は土塁と深い堀切、あるいは空堀をもつ郭が並び、主郭と考えられる南側には元熊野権現の祀がある。
 この主郭を中心にして東西に続く長い尾根は、南の断崖を防御に生かし、頂上と北の内側を整形し、いろいろな施設を設け、東端は細い尾根を掘り切りそれを限りとしている。
1987/4/1 一志町教育委員会
 
 城跡には熊野権現の祠があり、城郭や堀切がそのまま残っている。南は高さ約80mの断崖でこの斜面に竹皮をひいて敵兵が登るのを防いだという。
 
環境
 安濃から多気御所ルートへの入口で砂時計の腰のようにくびれた地形を山上より見下ろしている。

地図



 

 

 

 


波瀬館跡

2017-09-11 21:18:54 | 古城巡り

城名
 波瀬館跡
読み
 はぜやかたあと
住所
 津市一志町波瀬
築城者
 波瀬蔵人具祐
築城年
 永禄年中
形式
 居館
遺構
 無し、石碑
標高 102m 比高 0m
歴史
 天正5年(1577)には織田信長の軍勢に攻められ多数が討死した。寄せ手は火を放ったため雅道は敵将瓜生八郎正景を殺し、東口より脱出して波瀬館へきて自害、波瀬城は落城し廃城となった。
 その後、一族の林忠左衛門が五輪六地蔵を建設し祀ったという。
環境
 波瀬川と小俣川に挟まれて北向きに舌状半島(東西60m×南北120m)となったところに館はあった。
一族
 木造氏
現地
 狭い土地柄、気を付けないと通り過ごしてしまいそうなところに館跡を示す石碑が建っている。
 室ノ口茶屋の地蔵塚に地蔵尊と石灯篭の2基ががあるのみである。

地図


👆 室ノ口の街並み(奥に見えるのが小俣川に掛かるの橋)

 

 

 

 


榊原城

2017-09-10 18:54:34 | 古城巡り

👆 今も土塁は残っている

 

城名
  榊原城
住所
 津市榊原町
築城者
 榊原信濃守氏経
形式
 山城
遺構
 郭、土塁、空堀
標高 92m 比高 22m
歴史
 氏経は永禄年間大和宇陀郡で討死した。
 その子刑部少輔が北畠氏に仕えた
 北畠氏滅亡後は織田信長に属した。
 天正12年(1584)の木造攻めには羽野に陣をしき参加している。
 その後三左衛門は秀吉に仕えたが廃城となった。
 永禄年間の織田氏の攻略により榊原一族は三河に逃亡したようで徳川四天王の榊原康正はその一族である。
 榊原の藤三郎は大坂からの帰途病死し「城から乾の方向20間に葬るべし」の占いでその地に葬り一寺を建立した。現在の林性寺である。
経緯
 仁木義長の子孫
書籍
 三重の中世城館
現地
 城址は戦後開墾され空堀も埋められた。東側には一部が残っている。
感想
 この城が徳川四天王の榊原康政の祖の城である。
 その頃から榊原温泉を楽しんでいたのだろうか。
地図
 
 

 

👆 江戸時代に描かれた縄張図

  本丸・二ノ丸・三ノ曲・西丸・大手・馬場・的場・天守などの文字が見える。

 

 

 

 

 


森城

2017-09-10 18:49:44 | 古城巡り

👆 長野川に沿うように城はあった

👆 城の一部と思われる削平地

城名
 森城
住所
 津市森町
築城者
 堀氏(注1)
形式
 平山城
遺構
 不明
城主
 堀宮内、堀金右衛門
標高 30m 比高 10m
書籍
 勢陽雑記 三重の中世城館
環境
 城の西側は10mの断崖となり土塁は北側から西南にかけてあった。
 北側に8mの堀があり堅固な様子がうかがえた。
 東南にかけて江戸初期に寺院が建立され、その後土取りなどで全体の形状はつかめない。
勢陽五鈴遺響
 森城跡;中堀金左衛門尉居セリ、とある。
現地
 縄張り図と現地の様子が今一合点がいかない。現地の様子がかなり変化したという事か。
考察
 かなり改変されている。現在の形状は森城のどの部分にあたるのか比定するのは困難と判断した。
感想
 近接の七栗一色館とは同じ地域内であり距離も1.2Kmなので有機的な関係があったと思われる。
注1
 堀氏は北畠家臣、家紋に上羽蝶を用いた平氏一族。
 宮内は120町歩を拝領してこの森村に居住したのが始まり。
 代々北畠氏の軍役を務める。
 天正4年(1576)大河内城の戦いで宮内とその子太郎右衛門が討死した。
 孫の金右衛門は木造家の家臣となり戸木篭城戦、刈田の合戦で目覚ましい働きをした。
地図
 <!-- 森城 -->

👇 地区の風景


七栗一色館

2017-09-10 16:20:13 | 古城巡り

👆 館があったと思われる現久居西中学校

 

城名
 七栗一色館
読み
 ななくりいっしきやかた
住所
 津市久居一色町馬屋敷
築城者
 服部民部少輔
形式
 居館
遺構
 消滅
城主
 服部民部少輔(注1)
標高 47m 比高 0m
環境
 榊原川と長野川の間を北から南へせり出した丘陵の先端に館はあった。
一族
 北畠家臣
書籍
 三重の中世城館
現地
 久居西中学校の校庭内が館跡で現在は何一つ残らず地名に馬屋敷、堀の下がある。
考察
 学校の周辺の一部に土塁らしき形状があるが後世のものと判断した。
注1
 服部氏は北畠国司に仕え特に服部民部少輔の頃栄えた。その子の孫三郎はなぎなたの名手で弓の船木三右衛門、剛力の潮田長助らとともに北畠三勇者といわれ大河内城の戦いで武勇をとどろかせたが親子とも討死した。
 子孫には本居宣長の高弟の一人・服部中庸がいる。
地図
 <!-- 七栗一色館 -->
 

 

👆 館跡の縁と思われる辺り

 

 

 

 

 


牧城

2017-09-10 08:20:08 | 古城巡り

👆 西河岸段丘の下からみた牧城があったと思われる辺り

城名
 牧城
住所
 津市牧町
築城年
 文安4年(1447)
築城者
 牧康信
形式
 平城
遺構
 無し
標高 15m 比高 8m
歴史
 文安4年(1447)木造康信が分家して木造城の支城として築城し牧氏と称した。
 天正12年(1584)蒲生軍に攻められ自ら館に火を放って戸木の本城に逃げ帰って落城した。
書籍
 三重の中世城館 
環境
 雲出川の右岸の河岸段丘が南に向けて突出した場所にあった。
一族
 木造氏
現地
 八柱神社に続く西の台地で「御殿山」と呼ばれる場所であったが現在は住宅地となっている。
 比定されている場所より南側にある河岸段丘の突出した辺りは古の面影が残っているような気配がする。
地図
 <!-- 牧城 -->
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