三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

川方城

2017-09-10 08:18:28 | 古城巡り

👆 南から遠望した川方城

城名
 川方城
住所
 津市川方町
築城年
 明応5年(1496)
築城者
 木造政宗(兄)
形式
 平城
遺構
 土塁
城主
 川方康親(弟)
標高 15m 比高 7m
歴史
 明応5年(1496)に兄・木造政宗が木造城の支城として築城し弟・川方康親に守らせた。
 天正12年(1584)5月4日、隣の牧城を攻め落とした蒲生軍は翌5日も続けて川方城の攻略に掛かった。川方城は戸木城から援軍を得ていたため蒲生軍は一度は引き下がった。
 ある雨の夜、城中も油断があったのか蒲生軍が北に廻り柵を破って夜討ちをかけたのを防ぎきれず、川方与左衛門等15人が討ち死にし城主川方隼人佐も戸木城に退いて落城した。
書籍
 三重の中世城館
環境
 台地の一角にあり南は断崖。方形に土塁が築かれていた。西側は二重の堀となり、東に侍屋敷があった。
一族
 北畠氏の分家である木造氏の支城
現地
 南側土塁は高さ3mにおよび、土塁の背後は河岸段丘特有の急斜面で、西側は二重土塁で防御意識が高い。
 現在は畑地や住宅地となっているが雑木林の中に古井戸が4か所に渡り点在している。
地図
 
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小森上野城

2017-09-09 13:28:28 | 古城巡り
城名
 小森上野城
住所
 津市城山2丁目
築城年
 天文年間
築城者
 奥山左馬允
遺構
 無し
標高 15m 比高8m
歴史
 天文年間(1532~55)の末頃、長野工藤氏との争いの北上戦の前線にあった。
 具教は迎撃態勢の一環として小森上野城には藤方御所一族と北畠小原具就を置いて長野工藤氏と戦った。
 永禄年間(1558~70)のはじめ長野氏は北畠氏と和議を結び北畠具教の次男具藤を養子に迎えたことで長野氏、雲林院氏ら工藤一族は北畠氏の幕下に属した。
 永禄12年(1569)秋、織田軍伊勢侵攻の時滝川一益・関氏軍を以ってこの城を攻めるが、城を守る藤方刑部少輔が守った。
書籍
 三重の中世城館
一族
 北畠家臣、重臣であったという。
現地
 城跡は昭和18年頃までは土塁なども残されていたが第2次大戦中、海軍工廠に整地され遺構は壊滅した。現在は宅地、畑地となっている。地主のご老人にお聞きすると竹藪の中に古の様子が隠されているとのことで少し案内された。
 段郭と思われるものと切岸と思われるものがそこにあった。その裾は寺の境内となっている。
 30年程前まではここにあった井戸の水を利用して農作業をしていた。農作業中に土器の破片がよく出た。
 農作業の手を止めて案内してくださったご老人、ありがとうございました。
感想
 伊勢湾に向かって迫る段丘は南北に4Kmほど続き城を築くには敵地である。北から垂水城、北畠満雅陣地、池ノ谷砦、小森上野城、小森城と並んでいる。

👆 段丘の北東端の様子

👆 竹林の中の切岸かもしれない様子

👆 一部、削平地が見られる

👆 井戸があった辺り

 

地図


 

 

 
 

 

 

 

 

 

 


小森城

2017-09-09 13:22:19 | 古城巡り
城名
 小森城
住所
 津市高茶屋4丁目
築城者
 土肥長光
遺構
 無し
標高 15m 比高10m
現地
 伊勢湾を見渡す東向きの段丘の南東隅にある。段丘の落差は今でも残っている。
 昭和18年頃土塁を取り壊した。現在は住宅地となっている。東向きの段丘の崖が残っている。

👆 団地の隅に一段と高い区画がある。

👆 用途の分からない空き地となっている。竹林は東向きの段丘の縁で崖になっている。

地図


 
 

 

 

 

 

 


半田城

2017-09-09 10:11:15 | 古城巡り
城名
 半田城
住所
 津市半田
築城者
 中尾内蔵允
形式
 平山城
遺構
 無し
書籍
 日本城郭体系第10巻・その他の城郭一覧
 北畠家家臣帳に「中尾茂平次」の名があり「長野家与力弓組属神戸」とある。
一族
 長野工藤氏の一族と言われる。
現地
 岩田川に向かって北に突出した丘陵の先端部。現在はほとんどが畑地となっているこの場所が半田城と推定した。
 畑でお会いした方と話した中では「発掘調査をしたときに埋蔵物がたくさん出た。」とか「ここに水がわいて羽釜や土器が出た。」という内容だった。
 北側の斜面に切岸や段郭を思わせる場所が点在する。
 西側から北側へ廻る水路はおそらく当時はもっと大きく堀の機能があった場所では無いかと想像される。

👆 周囲を巡る水路

 

 👆 埋蔵物がたくさん出たと聞いた辺り

👆 城域の中心部辺り

👆 西側は低い谷になっている

👆 水は沸いたと聞いた

👆 北側の様子 

               崖が北側を取り巻いている 👇

👆 幾つかの段と削平地が見られる

👆 北、岩田川方面から

 

地図

<!-- 半田城 -->

 

 
 

  

 

 

 

 

 

 

 


神戸城(津)

2017-09-09 09:58:24 | 古城巡り

 

城名
 神戸城
住所
 津市神戸
築城者
 中尾金助
遺構
 無し
城主
 中尾駿河守
 長野方重臣と言われる。
歴史
 半田城の支城。 
書籍
 日本城郭体系第10巻・その他の城郭一覧
一族
 長野工藤氏の一族 半田城主・中尾内蔵允の子が支城として神戸城を築いたらしい。
現地
 土取りで消滅したという記述がある。神戸公園辺り、あるいはその東側一帯が候補地の一つかもしれない。

👆 候補地の周辺を探索する

センターの北東隅の落差

センターの南東隅の落差

南の様子

南の前方は田圃

公園内部

はたして神戸城はここだったのだろうか?

 

 

 地図

<!-- 神戸城(津) -->

 

 

 

 

 

 

 

 

 


殿村城

2017-09-09 09:39:24 | 古城巡り

 

城名
 殿村城
住所
 津市殿村井尻
築城年
 応永年間に築城。
築城者
 伊藤大膳満高
遺構
 無し
標高 30m 比高22m
書籍
 日本城郭体系第10巻・その他の城郭一覧
現地
 老人ホームとなっている。
 唯一、台地の西側の谷に山城の痕跡が感じられる。
感想
 津の平野部を監視するならここが一番と言っていいような場所にある。

👆 切岸を想像させる殿村の台地

👆 台地と平野部の標高差は20m程

👆 見晴らしの効く好適地

👆 施設の場所としても好適地!

 地図

<!-- 殿村城 -->

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


上津部田城

2017-09-06 22:28:27 | 古城巡り


主郭南西隅の土塁に備えられたつぶて石。(戦いの武器として備えられた)

城名
  上津部田城
読み
 こうづべたじょう
別名
 御城屋敷
住所
 津市上津部田町
築城年
 不明、戦国時代
築城者
 不明
形式
 平山城
遺構
 郭、土塁、空堀、井戸跡
規模
 東西100m×南北180m
城主
 不明(注1)。あるいは新氏・太田氏・○○氏ということか。
標高 20m 比高 15m
歴史
 不明
書籍
 伊勢一国旧城跡附
環境
 東方500mに峯冶城あり。
 伊勢別街道が伊勢街道に直交する近くにある。津の山を背にして北からの守りについた位置にある。
 志登茂川の流れを北に見下ろす標高20mの丘陵北端部にある。
 城は四方を巾10~15m、高さ2m程度の土塁で囲み北東隅に入口がある。
 南東に巾10m、深さ2mの堀切があり比較的よく残っている。
勢陽五鈴遺響
 記述なし
現地
 平成元年から3回にわたり発掘調査された。
 四方を土塁で囲んだ主郭を中心にⅡ郭、Ⅲ郭、Ⅳ郭と配置されている。主郭南東側の谷にも土塁などを伴った幾つかの平坦地があった。
 主郭の虎口には門の跡がある。郭内には建物跡、井戸跡がある。土器や古銭なども出土している。
 空堀は幅10m、深さ4mで断面が逆台形をしていた。
 調査結果から数十年使われていたことが分かった。
 
 津市指定史跡(平成5年2月7日)で城の中心部分を史跡公園としている。
考察
 この付近に城屋敷が三ヶ所有るとのことだが峯冶城は城主が判明しているので上津部田城以外にあと二ヶ所有るわけだが今のところ記録がない。
 三重県博物館の裏にもそれらしきところがあるがその一つかもしれない。
 
感想
 城の造りや築城位置などから、東500mにある峯治城と同じような時代にあったと考えられる。恐らくその距離感から峯治城とは有機的な関係があったと思う。
 よって、廃城の訳や時期も同じようだと考える。
 
注1
 「伊勢一国旧城附」には「この付近に御城屋敷三ヶ所有り」と記されている。
 その中に新左衛門(250石)、太田重郎右衛門の名前が見られるがいずれの城か定かではない。
地図
 
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峯治城

2017-09-06 19:40:51 | 古城巡り

 上写真にある崖の位置が峯治城の位置を比定するために手掛かりとなった。

 

 以下の縄張図は埋文ニュースに掲載されたものである。はたしてこの縄張りの実際はどこにあったの

であろうか。外形線に沿ってはさみで切ってみた。

 

 グーグルの航空写真とサイズを合わせて地形が一致するところは無いか探してみた。すると、

一か所明確に合う場所があった。最初の写真の崖のラインが縄張図の地形に一致した。このライ

ンはコンクリートの壁で残されていた。高さも通常よりひときわ高い。東側はこれに沿わせる

ことにする。

 西側は何か決め手になるものは無いだろうか。端的な場所は無い。土取り跡の崖のライン、

南西先端の池と縄張図の最下部のラインがなんとか合いそうなくらいである。

 しかし、沿わせてみた違和感はなく間違いなさそうである。

 峯治城はこのようにあったのであろう。位置の比定にはもう一枚の写真が参考になった。前出のニュ

ースに載せられていた発掘当時の写真である。

 第1次調査が済んで写真の左側には既に道路が完成している。又、第2次調査も終りこの様子は土の

中に戻されることになった。又別の報告書には珍しくカラー写真が掲載されていた。

南西から続く尾根を遮断する堀切の写真だ。当時を知る貴重な写真である。

 

城名
  峯冶城
読み
 みねじじょう
住所
 津市上津部田町ヲノ坪
築城年
 応永年間(1394~1428)
築城者
 佐脇勝久
形式
 平山城
遺構
 丘陵頂部の西に土塁を持った郭を主郭とし、その北側に土橋を介してⅡ郭を持っていた。
 郭・土塁・深い二重空堀があった。
 外側の堀は深さ4m、幅3m以上であった。
 主郭の東側には腰郭が備わっていた。
 主郭の北、西、東を巡る堀は土塁までの高低差が5mあった。構造から北側の防御に意識した城造りがうかがわれる。
 主郭へ入るにはⅢ郭から北へ回り込んで折り返し南へ登り、Ⅱ郭(桝形)を経て土橋を渡り虎口(四脚門)をくぐって至る。主郭には掘立柱建物や井戸があった。
 井戸郭と考えられるところには井戸が4基備わり、井戸の周りには多種多数の土器が埋まっていた。
 北側には階段状に平坦な郭が3段丘陵突端部に続いていた。伊勢別街道と志登茂川を見下ろす。
規模
 東西200m×南北120m
城主
 佐脇勝久(注1)
標高 20m 比高 14m
歴史
 永禄11年(1586)信長の伊勢侵攻の際に滅んだという。
書籍
 伊勢名勝志
環境
 西方500mに上津部田城あり。
 伊勢別街道が伊勢街道に直交する近くにある。津の山を背にして北からの守りについた位置にある。
 志登茂川の流れを見下ろす標高20mの丘陵北端部にある。
一族
 佐脇一族
勢陽五鈴遺響
 記述なし
現地
 昭和26年頃、城域の南部は土取りによって破壊されている。この時、主郭の大半が無くなった。
 縄張図に一番近い光景が残っていると思われるロケーションを探すが厳しい現地の様子である。
考察
 西方500mの上津部田城を含む三ヶ所の城が近辺にあったといわれるが峯治城はその一群とは別に存在した城と考える。
感想
 築城は応永年間(1394~1428)とあるが城の完成度はかなり高い。時代を追うごとに最新式の城に多数の改善が加えられたと想像される。
注1
 佐脇氏は畠山氏に仕える国人の家柄である。朝明郡柿村に佐脇三河守が守備したが三河国から伊勢に来往した佐脇久隆の一族ではないだろうか。
 佐脇勝久は更に南下し一身田を守備したと思われる。
 付近には佐脇性が数多く残るという。
その他
 平成元年から3年に渡って埋蔵文化財センターや津市教育委員会が発掘調査した。
 井戸、かまども発掘された。土師器皿、茶釜、煮炊き用羽釜など日用雑貨も多く発掘されたことから、この城が生活の場として機能していたと考えられる。
地図
 
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長野城/長野氏城

2017-09-05 20:42:59 | 古城巡り

 


スライドデジブック

城名
 長野城
住所
 津市美里町桂畑・北長野城の台
築城年
 文永11年(1274)
築城者
 工藤祐藤
形式
 山城
遺構
 郭、土塁、堀切
規模
 東西100m×南北100m
城主
工藤祐藤
標高 540m  比高 360m
 
略歴
 工藤祐経-祐長①-長野祐政②-祐藤③-祐房④-豊藤⑤-経藤⑥-⑦- - - -藤定⑮-具藤⑯
 祐長①の時、伊勢平家残党追討のため安濃・奄芸2郡を給わった。
 祐政②の時、長野に住み長野氏を名乗った。
 祐藤③の時、長野城を築城した。祐藤の子、雲林院氏を名乗る。
 祐房④の時、子が家所氏を名乗る。
 豊藤⑤の時、分部氏、細野氏、草生家が分家。
 経藤⑥の時、川北氏、中尾家が分家。
 藤定⑮の時、次第に力を失う。
 
歴史
 工藤祐藤によって文永11年(1274年)に築城され、長野工藤氏の拠点とす。
 貞和2年(1346年)に北畠氏に攻められて落城したが、文和元年(1352年)に再び工藤氏が入る。
 延文5年(1360年)には室町幕府に反乱した仁木義長が逃げこみ、追討軍に対して2年以上籠城を続けた。
 この時、伊勢川北城は高師秋、土岐頼義らに攻められて落城した。
 応永21年(1414)、仁木氏(足利幕府方)と長野氏が阿坂城(北畠氏)を攻める。翌年、白米城伝説の阿坂城落城。
 正長元年(1428)、北畠氏と長野氏が組して岩田川で幕府軍と合戦。北畠満雅討死。
 
 天文年間(1532~1555)、長野氏は南は国司家と西は甲賀と中勢では関氏と争いが続いた。
 天文16年(1547)から18年にかけて北畠具晴は長野氏を攻撃、戸木と七栗の間の葉野で合戦が展開された。戦いは激戦となり長野方の大将分部与三右衛門が戦死するなど、一志郡内で両軍の攻防が続いた
 永禄元年(1558), 北畠晴具の孫・北畠具藤を養子とし長野氏16代の家督を継がせた.
 弘治年間(1555~1557)に細野氏は長野から安濃城に移った。その後長野氏が長野城から長野氏城へ移った。
 永禄2年(1559)北畠・長野両氏が一体となり、具藤をはじめ細野・分部・雲林院・草生ら長野一族・与力五千が、北勢の赤堀氏と塩浜で戦った。また、関氏の神戸西城を攻めたが敗れた。
 
 織田信長が長野氏攻略を始める。信長はまず長野工藤氏を討とうとして、有力一族である安濃城の細野藤敦を攻めた。この事態に対して長野一族は、和戦両論に分かれ、藤敦は抗戦固守を主張し安濃城で抵抗を続けた。
 一方、弟の分部光嘉・川北藤元らは和睦を主張し、光嘉らは信長の弟信包を長野工藤氏の嗣とすることを申し入れた。ところが、長野具藤が藤敦は信長についたとの流言に惑わされ、藤敦を討とうとした。対する藤敦は逆に具藤を攻め、具藤は実家北畠氏の本拠地多気に逃亡した。
 これにより長野氏は和睦派が主導権を掌握し、永禄12年(1569年)には信長に降伏した。
 具藤は天正4年(1576年)11月25日の三瀬の変で田丸城において他の北畠一族もろとも殺害された。享年25。国人領主としての長野氏は滅亡した。
 織田家から養子で入った信包は元亀元年(1570年)に上野城を居城とし、長野城を廃している。
 
 天正8年(1580)、細野氏は蒲生家の配下に入った。藤敦は、のちに秀吉に仕えて、慶長三年に伏見城松の丸の守将となった。さらに、秀吉側室松の丸殿の家司となり、慶長8年(1603)2月26日、波乱の生涯を閉じた。 
 長野氏一族としてはひとり分部氏のみ、光嘉が信包の城代として上野城に入り、のち豊臣氏に仕えて上野一万石の大名となった。光嘉は関ヶ原の戦いでは徳川方の東軍に属し、戦後、加増を受け近江高島郡のうちで二万石を領する大名として生き残った。
 
書籍より
 津市美里町桂畑の標高約520メートルの山頂にある長野城跡で、『太平記』には守護仁木義長が篭城したと伝えられてる。山頂の城郭中心部はコの字型の土塁が三方を囲み、周囲は急竣でいかにも篭城には適した地形となっている。
 この城が文献記録に始めて登場するのは、南北朝時代の争乱を伝える「太平記」延文5年(1360)の記事。畠山国清らとの抗争に敗れ、京都を脱出した伊勢守護仁木義長は、この長野城で幕府追討軍の六角氏頼・土岐頼康らに対し、2年以上も籠城戦を続けた。「太平記」には、要害堅固なため、寄手がなかなか近寄れなかった、と記してる。

 

 

城名

 長野氏城
別名
 細野城
住所
 津市美里町北長野
築城年
 不明
築城者
 細野氏
形式
 東の城・中の城・西の城から成る山城
遺構
 郭、土塁、空堀
規模
 東西150m~南北630m
城主
 細野氏-長野氏
標高 195m~230m 比高 55m~90m
経緯
 1982(S57)年1月16日 国指定史跡に指定
一族
 長野工藤氏-長野氏-細野氏
 
現地案内板
 国指定史跡
 長野氏城跡(東の城・中の城・西の城)
昭和57年1月16日 指定
 標高520mの「城の台」に築かれた長野城跡より長野川を挟んだ東方の標高200~230mの丘陵上を占地し谷を利用した「東の城」「中の城」「西の城」の三つの城から成る山城です。
 長野氏がこの地で国人領主として地歩を固める根拠地となった場と考えられ、丘陵全体を大きく三分した半独立的城を配置しています。
 現在も残る土塁、堀切や連続する階段状の郭は、南北朝時代の特徴をよく表しています。ここからは、主城である長野城跡を望むことができ、また、長野氏の居館もこの地と考えられ、北長野地内には「しろやしき」の地名が残されています。
 津市教育委員会
長野氏城跡案内図
 
 東の城・中の城・西の城は長野城跡の東方約2.5kmにある標高200~230mの一連の丘陵上を占地し、谷を利用して築かれている。
 南北朝時代から室町時代の城の特徴をよく残す山城で、西、中、東の各城跡は居館の性格も具備している。長野氏は守護代あるいは室町幕府の奉公衆として中世後期、伊勢において活躍した国人領主である。
 「太平記」「梅松論」「大乗院寺雑事記」等多くの記録によって、その歴史がわかる城跡として、また、国人領主の発展過程を示す城跡として貴重である
三重県教育委員会事務局 社会教育・文化財保護課
 
 北長野の伊賀街道沿いの標高200メートル前後の三つの連なる丘陵頂部に築かれたもので、土塁や堀切り等の遺構が見られ、国人長野氏の発展過程が知れる遺跡。
 東の城・中の城・西の城の名称は江戸時代に書かれた「伊勢一国旧城跡附」によるもので、「じょうやま・経塚」と地元では呼んでいます。それぞれ階段状の台状地・堀切・土塁などがよく残っている。
 
現地
 長野宿を説明する石柱より
 津と伊賀上野を結ぶ藤堂藩の官道であった伊賀街道の中間の宿場で藩士や旅人で賑わった。長野峠の傍らには氷田があり藩に氷を納めた。
 
地図 長野城/長野氏城
 
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