三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

願証寺城

2020-08-21 22:57:05 | 古城巡り

寺が砦、或は城と化した例として「城」扱いとした。

城名
 願証寺城(願證寺)
読み
 がんしょうじじょう
住所
 桑名市長島町又木434
築造年
 1492年(明応10)ごろ(中郷杉江地区)
 1537年(天文6)現在地へ移転(西外面)
 1574年(天正2)織田軍3回目の一揆討伐
 1596~1615年慶長年間に復興
築造者
 連淳(蓮如の6男)
形式
 平寺
遺構
 石碑
規模
 50m×60m
寺主
 連淳-実恵-証恵-証意-顕忍
宗派 山号 
 浄土真宗本願寺派長島山願証寺
標高 -0.1m
歴史
 信長に敗れた斎藤龍興が逃げ込む。
経緯
 戦乱の世で明日の生活もわからず、頼るもののない民衆や農民の中には、来世に救いを求めて、浄土真宗に帰依するものが多く、願証寺にはたくさんの人々が寄ってきた。尾張や美濃で織田信長に反抗する土豪や戦いに敗れた戦国武将・国侍なども数多く願証寺に寄った。
書籍
 三重の中世城館
環境
 現代では当時の輪中の長島の様子を見ることは出来ないが古図から想像すると、舟でないと近づけない様子だ。川幅や水そのものが防御のアイテムであった。
現地
 現在でも海抜はマイナスである。周辺は田圃が取り巻いている。当時は沼田であったと想像させる。
感想
 織田軍の伊勢侵攻が2回、一向一揆討伐が3回と数年にわたってあり、その渦中にあった長島の中心にあって、人々の心を寄せる大切な場所であったのではないだろうか。
地図


伊勢長島城

2020-08-21 14:51:11 | 古城巡り

城名
 伊勢長島城
読み
 いせながしまじょう
住所
 桑名市長島町西外面2188
築城年
 文明年間
築城者
 伊藤重晴
形式
 平城
遺構
 移築大手門(蓮生寺)、移築奥書院(深行寺)、堀跡
規模
 230m×310m
城主
 伊藤重晴-滝川一益-原-福島-菅沼-増山
標高 1m 
歴史
 1245年(寛元3)藤原道家が居住する。
 1482年(文明14)伊藤重晴が築城。
 1561年(永禄4)服部左京進が伊藤重晴を追放して、願証寺に属した。
 1567年(永禄10)織田軍第1回伊勢攻略
 1568年(永禄11)織田軍第2回伊勢攻略 服部左京進が没して、下間三位頼且が守護した。
 1569年(永禄12)織田軍第3回伊勢攻略
 1571年(元亀2)一向一揆討伐(1回目)で柴田勝家負傷、氏家卜全討死、岐阜へ撤退。
 1573年(天正元)一向一揆討伐(2回目)織田軍は大垣から南下する隊と八風峠超えする隊に分け、北伊勢一帯に入り末寺、土豪、門徒宗を攻撃した。しかし、軍船を調達できなかったことと、畿内で反織田の動きが出たため岐阜へ引き返した。
 1574年(天正2)一向一揆討伐(3回目)九鬼などの水軍で長島を取り囲み孤立させ、3か月にわたる籠城戦の末、9月に落城。その後滝川一益が入城し修築する。 一益は北伊勢一帯を治めていたが、秀吉と争ったため、長島は再び戦乱の舞台となった。
 1583年(天正11)北畠信雄の支配となる。城代として、関弥平次が守護する。
 1590年(天正18)豊臣秀次の支配となり吉田修理亮が守護する。
 1592年(文禄元)天野周防守景俊が、長島2万石の城主となる。
 1593年(文禄2)原隠岐守胤房が城主となる。
 1598年(慶長3)福島正頼が城主となる。

 1601年(慶長6)菅沼織部正定盈が城主となる。

 1702年(元禄15)増山氏が藩主となり明治に至る。

書籍
 三重の中世城館
現地
 長島中学校、長島中部小学校
感想
 織田信長が伊勢平定をする戦いの伊勢方の最前線となり、激しい戦いが数年に及んであった。忘れてはならない歴史だと考える。
注1
 願証寺=長島御坊。
地図

 

堀跡と曲輪跡

長島中部小学校と町指定天然記念物「大松」

堀跡

蓮生寺の門

増山雁金紋の鬼瓦

増山氏の家紋「増山雁金」

 

 


柚井城

2020-08-20 21:30:21 | 日本の城

城名
 柚井城
読み
 ゆいじょう
住所
 桑名市多度町柚井
廃城年
 1571年(元亀2)
築城者
 梶田左馬亮
形式
 山城
遺構
 曲輪(10)、土塁
規模
 130m×190m
城主
 梶田左馬亮 - 梶田刑部丞 - 西松要人
標高 78m 比高 46m
歴史
 長島一向一揆に加勢し織田信長と戦ったが永禄年中に敗れた。
 その後城主になった西松氏も1571年信長に敗れ廃城となった。
書籍
 三重の中世城館 現地掲示板
現地

 独立丘 町内で最大規模 山頂から南へ扇形に多くの曲輪(全部で10)を配している。

 築城時から多人数を意識して、縄張をしている曲輪の数などの状況である。背景に一向一揆の規模の大きさが伺われる。

 一部(南の入り口辺り)は昭和20年に軍部によって改変されている。
地図


長慶天皇の事蹟を追う

2020-08-10 21:15:21 | 中世の歴史

 ナゾの天皇と呼ばれる長慶天皇とは?

 【その所以】

 ● 即位の日が特定されず、式典の史料もない。

 ● 即位後、行在所が転々とし、明らかでない。

 ● 後亀山天皇への譲位の日も推定にとどまる。

 ● 譲位後、院政を敷いていたと考えられるが実態が明らかでない。

 ● 叔父の宗良親王の『新葉和歌集』にも、南朝の皇位は三代であるとの記事があって、後醍醐、後村上、後亀山天皇があてられている。

 

 三重県松阪市嬉野上小川町の花園地区に ”御渡寺趾” らしき遺構が認められる。嬉野町史によると ”御渡寺趾” は「長慶天皇が多気より下られたときの行在所であったと伝えられる」とある。

 この御渡寺跡に長慶天皇はいつごろ来ていたのだろうかという、素朴な疑問もある。

 以下に長慶天皇の生誕から崩御までの52年間に亘って、年ごとの事蹟を整理する。。

一覧表の拡大

 文末の記号は参考資料を表す。

 *1 国史大辞典 *2 日本大百科全書 *3 世界大百科事典 *4 四条畷楠正行の会 通信 *5 熊谷一哉氏ブログ *6 ウィキペディア

上記一覧表より、

 ● 1368年の践祚までの資料はない。

 ● 践祚の年から、天野山金剛寺→吉野→大和栄山寺と行在所を転々とする。

 ● 30才頃は和歌の最盛期、叔父の宗良親王と良好な状態と考えられる。

 ● 践祚以来、強硬派で推し進めてきたが、いよいよ穏和派の後亀山天皇の時代を認めざるを得なくなってきた。

 ● 1387年から崩御までの8年間は行方知らずで、南朝への支援を求めて全国各地の武将のもとを、渡り歩いていたという説もある。嬉野上小川町花園の御渡寺に在所したのもこの頃であろうか。

などが、推察される。

 

地図上で距離感を確認する。

 

 

 


花園城

2020-08-04 09:43:23 | 松阪の城

👆 花園城遠景

👆 曲輪

👆 土塁

👆 土塁

👆 堀切の痕跡か?

 

城名
 花園城
読み
 はなぞのじょう
住所
 松阪市嬉野上小川町(大字花園小字鳥屋尾辺り)
築城年 
 不明
築城者
 大久保佐兵衛督
形式
 平山城
遺構
 土塁 曲輪
規模
 20m×50m
家臣
 北畠家臣(家臣帳に記載あり)
標高 385m 比高 15m
環境
 松阪市嬉野上小川町花園集落のほぼ中央にあって、北、東、南を見下ろす台地の上にある。
現地
 眼下の間道は南に向けて走るがいずれ白猪山系にぶつかり、更に南下することは出来ない。
 南北に延びる丘の上にある。北に登る山側にだけ土塁が施されている。堀切はない。曲輪の削平感は甘い。
考察
 上小川城の西側が白口峠・多気方面であり、大手口である。反して花園側は搦手となる。
 上小川城の背後の間道であり、無防備であれば敵の攻勢に対して弱点になり得る。
仮説
 花園側(搦手)の番人として中峠への入口辺りに門番を配置した。門番は最小限の防御施設を造った。それが花園城といわれる所(曲輪・土塁)であり、又その下に住まいを造って常駐したと考えられる。
地図


御渡寺趾 探訪

2020-08-03 23:34:28 | 古里の歴史

   

👆 御渡寺のある山裾

 

遺構名
 御渡寺跡
読み
 ぎょとじあと
住所
 松阪市嬉野上小川町
築年 築造者 不明
遺構
 削平地3段
規模 50m×50m
標高 380m 比高 23m
参考書籍
 嬉野史・嬉野町史
歴史
 長慶天皇(注1)が在所された時期があるという。御渡寺という名はそのことを現しているのかも知れない。
経緯
 嬉野史文化財考証の項に御渡寺趾という一項がある。短いので全文を記す。
 「上小川、花園垣内にあり山の中腹の平地を云う。           
 長慶天皇が多気より下られたときの御在所であったと伝えられる。」
 以上である。
 この場所を探索するにあたり、花園垣内という場所がキーポイントとなる。
 花園における小字名を確認するが”垣内”という名称を見出すことはできない。
 この記述における”垣内”の意味合いは小字名としてではなく”花園の地区内”という広義の意味で捉える方がふさわしいのではないかと考えるようになった。
 そのようなある時、現地で犬と散歩する婦人に会い、経緯を話すと裏山に平らな所があると貴重な情報を聞くことが出来た。
 婦人のご厚意により、そのご主人の案内で裏山へ登り、平地にたどり着くことが出来た。

現地

 大きくは3つの曲輪から成り立っている。

 上段曲輪;3つの曲輪の中で一番高いところにあり、一番狭い曲輪となる。小さいながらも削平感の質は高いと見受けられる。礎石などは表面上見当たらない。

 中段曲輪;上段曲輪よりやや大きく面形状は自然地形を優先したようでいびつである。削平感の質は高い。礎石などは表面上見当たらない。

 上段、中段の曲輪は狭い敷地でも可能な鐘撞堂や見張台などの建物があったと思われる。

 下段曲輪;南北の長さは40m~50mほどある。東西の幅は15m程でそれほど広いとは感じさせない。石による構造物が何点か散見される。地面に加工された石を並べたもので一つは1m位の正方形、もう一つは1×1.2m位の長方形をしたものである。枯草や雑草に覆われた下には他にも痕跡があるのかも知れないと思わせた。

 ご主人の説明の住宅があったという証拠のタイル貼りのおくどさんやコンクリートでできた洗面場がある。これらは昭和の匂いを嗅がせるがそれ以外は時代を想定させるものはない。

 一つ気になるのは下段曲輪の周辺を施している石垣である。その石垣は14世紀のものとは考えにくいという点である。

 花園地区はほとんどの家が斜面にありその境界を石垣で施し、頑強さを維持し宅地を確保ているようだ。その村内の石垣の様子と、下段曲輪の周辺の石垣の様子と見た目には相違が無いように思える。
 
 もう一つの視点として、上段曲輪と中段曲輪を形造る境界には石垣が無いという点だ。下段曲輪を生活の拠点にするために頑強に施された多量の石垣に対して、上段曲輪と中段曲輪は住民の生活と縁がなかったということで何も施されず、14世紀の姿を残しているのではないだろうか。
 下段曲輪の石垣がもし御渡寺の時代の石垣なら、上段曲輪、中段曲輪の周囲に石垣の片りんでも残っていても良さそうなものである。
 上段曲輪と中段曲輪は14世紀の姿を現し、下段曲輪は14世紀の遺構を再利用した極近世のものではないだろうか。
感想
 改変が多い下段曲輪からは御渡寺の痕跡を探すのは発掘調査をしない限り分からないだろうと思えた。
 逆に、上段曲輪と中段曲輪はひそかに14世紀の様子を物語っているように思える。この遺構を考える場合は上段・中段に注目するべきではないだろうか。
 上段曲輪の更に上には自然地形の尾根が残るが、そこには祠を祀ったような痕跡が2カ所ほどある。恐らく、村人がこの地のいわれを代々引き継ぎ、大切にするために祀ったものと考えた。
環境
 花園の名称が語るように春は桜の谷となるようだ。7月末にヤマユリの群落に彩られるが、聞くところによると維持管理は大変なようだ。
考察
 寺が御渡寺というある種のいわくを考えざるを得ないような名称であることから、長慶天皇を迎えるためにあらかじめ用意されたものではないかと考えることが出来る。
 中世頃の山岳寺院の様子が参考になると考えられる。
注1
 長慶天皇;1343-94 (興国4・康永2-応永元)(52歳没)
 第98代に数えられる天皇。在位1368-83年。南朝第3代。後村上天皇の皇子。
 1368年に践祚(注2)後、南朝不振のころで吉野,河内国天野山,大和国栄山寺等に移った。

 生誕から崩御までの事蹟を整理した” 長慶天皇の事蹟を追う ” 御参照ください。

注2
 践祚(せんそ)天皇の位につくこと。

同行者 松阪山城会 会員2名

地図

👆 上段曲輪 右の大木はカエデ

上 中段曲輪

👆 下段曲輪 奥の石垣は14世紀のものではないのではないか

👆 下段曲輪に散在する石 草にまみれて全体像は把握しきれない

👆 下段曲輪の際を支える石垣

👆 下段曲輪を道路側から見る

👆 尾根にある祀られた杉

👆 その下に祀られていただろう祠の痕跡

👆 祀られたカエデの前の祠の痕跡