地震から2年経ちました。
あの日も、きょうと同じように
子ども達と一緒にいました。
同じように、作品展に向けた
制作をしていました。
きょうは夢中になって、ランタンを
作っていて、その時間が来たのを
花火の音で知りました。
驚きました。地震の犠牲となった人を
追悼する花火でした。でも、驚きました。
「花火だ!」と興奮する子ども達とは
対照的に、川上自身はあまり嬉しくは
感じませんでした。
というのも、地震を経験してから
こわくなったものがいくつかありました。
その一つが、ゆっくりとした周期で鳴る
低周波の音です。
強く鳴る低周波の音も、不意に来ると
相当驚きます。
例えば、木の扉や柱をドスンと叩く音。
ごごごぉぅって地面が鳴る音に似ています。
最近、近所で道路を掘る工事をしていて、
掘ったところに夜は鉄板が敷いてあります。
その鉄板を車が通るたびに、低い音で
「どどん」と鳴ります。
そんな風な音が、今のところいやな音です。
---
あの時、地震が来たときにはなんの音とも
つかない、低い音がしました。
美佳先生の後ろの食器棚からは、皿が
ジャラジャラと音を立てて落ち、美佳先生の
アタマの後ろでぐらんぐらん揺れている
テレビを押さえ続けました。
ガガガガガガガガと揺れる育英センターの
喫茶室は、今思い出しても列車の中のようでした。
---
あの日のこと~その3~(2004年10月23日のこと)
夢中でバイクに乗って、希望が丘保育園と
育英センター、大島保育園とを行き来しました。
大島保育園の駐車場に避難していた職員と
子どもたち、その保護者とを誘導して、
小学校の体育館に行きました。
驚いたことに、体育館を後にして希望が丘に
戻ろうとすると、近くの家の電気がついています。
「もう復旧したのですか?」と尋ねると、
「いや、ここらは最初から停電しなかったんです」と。
この後、保育園に行くと、体育館にはマットや
布団がたくさん出ていて、その上に職員と
何組かの家族が丸くなって座っています。
隅の方では、毛布にくるまって横になっている
お年寄りの姿も見えます。
川上も、奥さんの実家や自分の実家の家族が心配です。
しかし、とりあえずは全員が雨風を除けられるところに
避難できて、ひと安心でした。
水はまだ出ていました。
しかし、水が止まるのに備えて、すばやく園にある
ありったけのヤカンやポータブルポットに飲料水が
蓄えられていました。
電気はありません。
保育園中、そしてキャンプ道具の中から、懐中電灯が
集められました。
そして、お菓子、パンなどが出てきました。
意外なことですが、保育園というのは、大量に給食を
作っていますが、材料はそれほど在庫していません。
しかも、あったとしても調理をするすべがないので、
非常食というのは、あるようでないのでした。
家に行けば食べ物はあるんだけど、でも自分だけが
取りに戻るのも悪いし、自分の家のものだけで、
体育館にいる人全員に行き渡るのは無理だと判断し、
とどまりました。
「お帰りなさい。先生も、なんか食べて。」
と誰かに言われて、パンをかじりました。
この日食べたのは、このパンとお菓子だけかもです。
これから帰って夕食を食べようかと言うところで
揺れたのです。なにも、材料はありませんでした。
それよりも、時折来る大きな揺れが、食欲を
忘れさせました。
この後、大きな恐怖やショックがあるときは、
食欲は二の次になると言うことがわかりました。
夜、実家の母から携帯に電話が来ました。
保育園の体育館に避難してこないか?と電話をしたら、
はじめのうちは断っていたのが、やっぱりお願いしたいと
言ってきたのでした。
保育園の体育館には、
幸いなことに洋式トイレがあります。
足を痛めてほぼ歩けなくなっていた祖母を
2階の部屋から1階の車の仲間で父がおんぶして下ろし、
車の中で11時過ぎまで避難していました。
が、やはり厳しいと判断したのでした。
その判断は正解でした。
避難所ではその後、足の不自由な方が洋式トイレが
使えず困ったと聞きました。また混雑とトイレまでの
距離もあり、歩けない人にとっては大変なことだらけです。
祖母がもしも公設の指定避難所に行っていたとしたら、
どれだけ大変な思いをしたかと思うと、この時ばかりは
助かったと思いました。
---
夜中に心配になり、父の元へ行くことにしました。
バイクを走らせ、古正寺へ。
古正寺交差点にあるセブンイレブンでは、電気が
ついています。驚きました。ここも停電しなかったようです。
今でもレシートが残っていますが、午前1:11とはっきりと
記録されていて、レジが動いていたのです。
お店は、大勢のお客さんで混んでいました。
食料品の棚は空になりつつありましたが、
みんな争う風もなく、わたしもリポビタンDを
買って、父に届けました。
こういう時って、パニックにならないんだと
不思議に思ったことを覚えています。
食べ物があったからでしょうか。
保育園にはその前だったか後だったかに、
温かい飲み物を30本くらいコンビニで買って
届けました。
それは、三ツ郷屋のセーブオンだったと思います。
「これ、買っちゃっていいですか?」
と、買い占めることを心配しつつ、買ったのを
覚えています。
暖房も何もない体育館では、温かい飲み物が
ほしくなる寒さでした。喜ばれた記憶があります。
ちなみに、この後、嗜好品を買ったり、
飲んだりするのはしばらく憚られる感じがありました。
不思議な感覚ですが、何かをみんなが我慢して
いるのだから、自分が楽しんだり、気分を開放したり
することがいけないことのように思えました。
だから、地震後にアルコールを口にしたのは、
一週間後でした。
それまでも、その後も余震はありましたが、
なんだか、酔って眠っているときに余震が来たら
逃げ損ねて、死んでしまうかもしれないという
恐怖がありました。実際。
夜、なかなか寝付けないで、まわりにいた職員と
喋り続けていたのを覚えています。
今後の地震の推測、これからの動き、
地震が来たときのこと等々。
不思議と、つまらない話をしては、クスクス
笑っていたのを覚えています。
極度の緊張の後は、人間の脳みそはリラックス、
開放を求めるのでしょうかね。
「買ったばかりの空気清浄機を起こしてきたんだよね。
今思えば、なんの意味もないんだけどね。ハハハハハハ」
とか言っては、クスクス。
誰かの話を聞いては、クスクス。
---
夜は、揺れるたびに驚いたけど、大勢の人間が
集まっているという安心感があって、楽しかったのを
覚えています。
いや、その時は楽しいどころではなかったでしょうけど。
その後の夜中に、父が結局保育園に来ました。
トイレと寒さのせいでしょうか。
ラジオをつけたままにしていました。
刻々と流れ続けるFMながおかの情報を聞きました。
○○地区の人に避難勧告・避難指示が出ているとか、
どこでどんな被害が出ているのかが放送されています。
揺れる度に、全身に力が入り、あちこちで悲鳴があがります。
そして、朝が近付いてきました。
---
眠ったか眠らないかのうちに、朝になりました。
薄暗い体育館からは、少しずつ近所の人達が持参した毛布や
布団を持って帰っていく気配がしました。
寒いのでそのまま布団や毛布にくるまって寝ていればいいのに、
「こういう時は火をおこさなくては!」という妙なことを
思いつき、外に出て、園庭で火をおこします。
確かに、いつ地震が来るかわからない状況では、屋内で
火を扱うことがまだためらわれる段階ではありましたが、
今思えば、これもテレビの見過ぎです。
やっぱり間違いでしょう。寒いですから。
寒いうちは室内で体温が逃げるのを防いでいればいいのです。
何を思ったか、外に出て燃やせそうなものを探してきて、
段ボールやら、木の切れ端などを持ってきて、火をつけます。
たき火をしようということですね。
その時、結構良い大きさの木の板が見つかりました。
何かに使うんだけど、まぁこの際だから燃やそう。
そう思って燃やした板は、雪囲いの板でした。
川「主任先生、そこの窓の雪囲いの板ってどこ行ったんでしょうね?」
主「先生が、地震の時、燃やしてしまったんですよ…」
川「あ…す、すみません。
あ、そう…で…したね。(やっちまったぁ)」
---
その後、最もわれわれを驚かせたことがあります。
まだ青い朝の景色の中、周囲を見渡すと、体育館の
すぐ向かいの家の門柱の石が転んで崩れているのが
見えます。石の塀も崩れています。
恐ろしいことになった。これは、尋常ではないぞと
思っていたのでした。
すると、向こうからライトをつけた何かが走ってきます。
青と黄色のジャンパーを着て、バイクに乗った人がこちらに
やって来ます。
「新聞屋さん!?」
驚きました。世界は、完全に歯車が狂っていて、
自分たちは、きょうからはしばらくまともな生活ができないんだろうと
思っていたのでした。
そこへ、いつもの朝となんら変わることなく、
朝刊が配達されてきたのでした。
いや、「なんら変わることなく」するためには、新聞社の
並み外れた努力があったことを後に知るのですが、
その時には、いつもの朝が来ていることに、驚きつつも
とんでもなく大きく安心したことを覚えています。
見放されてはいないことを悟り、ほっとしたのでした。
---
その後、明るくなってから、各々が家やアパートに
帰って様子を見てきたり、家族のことを確認したり
してきました。
川上は、園内の破損状況をカメラで撮影したり
避難所をまわってきたりしました。
お昼近くに、ラーメンを食べました。
先生達が作ってくれたのでした。
その時食べたチキンラーメンは、格別でした。
---
こうして、この日から、2年が経ったのです。
もっと思い出していくと、詳細なことが
思い出されたり、忘れていることもあったりですが、
長いような、短いような2年でした。
今の2年生の子ども達が、当時の年長でした。
当時1歳クラスだった我が娘は、今は年少3歳クラスです。
当時の記録に出てくる3年生達は、今は5年生。
子ども達が、地震について、どんな記憶を胸に
大きくなっていくのかわかりません。
しかし、地震を単なるマイナスの記憶として
背負っていくのではなく、みんなが一致団結して、
助け合って、文字通りに肩を寄せ合って
暮らしたんだということも誇りに、
ぜひ忘れずにいてほしいと思います。
地震を通して学んだことの一つは、
間違いなく助け合うことの大切さです。
そして、家族や仲間の大切さでした。
苦しいときもあったけど、こわいときもあったけど、
どっこい人間はそんなに弱くないってことが
わかっただけでも、良かったねって思えます。
まだまだ厳しい生活を続けている皆さんの
生活と心の一日も早い復興と、犠牲となった方々の
冥福をお祈りしています。
---
Change!! IKUEI!!
by 川上
あの日も、きょうと同じように
子ども達と一緒にいました。
同じように、作品展に向けた
制作をしていました。
きょうは夢中になって、ランタンを
作っていて、その時間が来たのを
花火の音で知りました。
驚きました。地震の犠牲となった人を
追悼する花火でした。でも、驚きました。
「花火だ!」と興奮する子ども達とは
対照的に、川上自身はあまり嬉しくは
感じませんでした。
というのも、地震を経験してから
こわくなったものがいくつかありました。
その一つが、ゆっくりとした周期で鳴る
低周波の音です。
強く鳴る低周波の音も、不意に来ると
相当驚きます。
例えば、木の扉や柱をドスンと叩く音。
ごごごぉぅって地面が鳴る音に似ています。
最近、近所で道路を掘る工事をしていて、
掘ったところに夜は鉄板が敷いてあります。
その鉄板を車が通るたびに、低い音で
「どどん」と鳴ります。
そんな風な音が、今のところいやな音です。
---
あの時、地震が来たときにはなんの音とも
つかない、低い音がしました。
美佳先生の後ろの食器棚からは、皿が
ジャラジャラと音を立てて落ち、美佳先生の
アタマの後ろでぐらんぐらん揺れている
テレビを押さえ続けました。
ガガガガガガガガと揺れる育英センターの
喫茶室は、今思い出しても列車の中のようでした。
---
あの日のこと~その3~(2004年10月23日のこと)
夢中でバイクに乗って、希望が丘保育園と
育英センター、大島保育園とを行き来しました。
大島保育園の駐車場に避難していた職員と
子どもたち、その保護者とを誘導して、
小学校の体育館に行きました。
驚いたことに、体育館を後にして希望が丘に
戻ろうとすると、近くの家の電気がついています。
「もう復旧したのですか?」と尋ねると、
「いや、ここらは最初から停電しなかったんです」と。
この後、保育園に行くと、体育館にはマットや
布団がたくさん出ていて、その上に職員と
何組かの家族が丸くなって座っています。
隅の方では、毛布にくるまって横になっている
お年寄りの姿も見えます。
川上も、奥さんの実家や自分の実家の家族が心配です。
しかし、とりあえずは全員が雨風を除けられるところに
避難できて、ひと安心でした。
水はまだ出ていました。
しかし、水が止まるのに備えて、すばやく園にある
ありったけのヤカンやポータブルポットに飲料水が
蓄えられていました。
電気はありません。
保育園中、そしてキャンプ道具の中から、懐中電灯が
集められました。
そして、お菓子、パンなどが出てきました。
意外なことですが、保育園というのは、大量に給食を
作っていますが、材料はそれほど在庫していません。
しかも、あったとしても調理をするすべがないので、
非常食というのは、あるようでないのでした。
家に行けば食べ物はあるんだけど、でも自分だけが
取りに戻るのも悪いし、自分の家のものだけで、
体育館にいる人全員に行き渡るのは無理だと判断し、
とどまりました。
「お帰りなさい。先生も、なんか食べて。」
と誰かに言われて、パンをかじりました。
この日食べたのは、このパンとお菓子だけかもです。
これから帰って夕食を食べようかと言うところで
揺れたのです。なにも、材料はありませんでした。
それよりも、時折来る大きな揺れが、食欲を
忘れさせました。
この後、大きな恐怖やショックがあるときは、
食欲は二の次になると言うことがわかりました。
夜、実家の母から携帯に電話が来ました。
保育園の体育館に避難してこないか?と電話をしたら、
はじめのうちは断っていたのが、やっぱりお願いしたいと
言ってきたのでした。
保育園の体育館には、
幸いなことに洋式トイレがあります。
足を痛めてほぼ歩けなくなっていた祖母を
2階の部屋から1階の車の仲間で父がおんぶして下ろし、
車の中で11時過ぎまで避難していました。
が、やはり厳しいと判断したのでした。
その判断は正解でした。
避難所ではその後、足の不自由な方が洋式トイレが
使えず困ったと聞きました。また混雑とトイレまでの
距離もあり、歩けない人にとっては大変なことだらけです。
祖母がもしも公設の指定避難所に行っていたとしたら、
どれだけ大変な思いをしたかと思うと、この時ばかりは
助かったと思いました。
---
夜中に心配になり、父の元へ行くことにしました。
バイクを走らせ、古正寺へ。
古正寺交差点にあるセブンイレブンでは、電気が
ついています。驚きました。ここも停電しなかったようです。
今でもレシートが残っていますが、午前1:11とはっきりと
記録されていて、レジが動いていたのです。
お店は、大勢のお客さんで混んでいました。
食料品の棚は空になりつつありましたが、
みんな争う風もなく、わたしもリポビタンDを
買って、父に届けました。
こういう時って、パニックにならないんだと
不思議に思ったことを覚えています。
食べ物があったからでしょうか。
保育園にはその前だったか後だったかに、
温かい飲み物を30本くらいコンビニで買って
届けました。
それは、三ツ郷屋のセーブオンだったと思います。
「これ、買っちゃっていいですか?」
と、買い占めることを心配しつつ、買ったのを
覚えています。
暖房も何もない体育館では、温かい飲み物が
ほしくなる寒さでした。喜ばれた記憶があります。
ちなみに、この後、嗜好品を買ったり、
飲んだりするのはしばらく憚られる感じがありました。
不思議な感覚ですが、何かをみんなが我慢して
いるのだから、自分が楽しんだり、気分を開放したり
することがいけないことのように思えました。
だから、地震後にアルコールを口にしたのは、
一週間後でした。
それまでも、その後も余震はありましたが、
なんだか、酔って眠っているときに余震が来たら
逃げ損ねて、死んでしまうかもしれないという
恐怖がありました。実際。
夜、なかなか寝付けないで、まわりにいた職員と
喋り続けていたのを覚えています。
今後の地震の推測、これからの動き、
地震が来たときのこと等々。
不思議と、つまらない話をしては、クスクス
笑っていたのを覚えています。
極度の緊張の後は、人間の脳みそはリラックス、
開放を求めるのでしょうかね。
「買ったばかりの空気清浄機を起こしてきたんだよね。
今思えば、なんの意味もないんだけどね。ハハハハハハ」
とか言っては、クスクス。
誰かの話を聞いては、クスクス。
---
夜は、揺れるたびに驚いたけど、大勢の人間が
集まっているという安心感があって、楽しかったのを
覚えています。
いや、その時は楽しいどころではなかったでしょうけど。
その後の夜中に、父が結局保育園に来ました。
トイレと寒さのせいでしょうか。
ラジオをつけたままにしていました。
刻々と流れ続けるFMながおかの情報を聞きました。
○○地区の人に避難勧告・避難指示が出ているとか、
どこでどんな被害が出ているのかが放送されています。
揺れる度に、全身に力が入り、あちこちで悲鳴があがります。
そして、朝が近付いてきました。
---
眠ったか眠らないかのうちに、朝になりました。
薄暗い体育館からは、少しずつ近所の人達が持参した毛布や
布団を持って帰っていく気配がしました。
寒いのでそのまま布団や毛布にくるまって寝ていればいいのに、
「こういう時は火をおこさなくては!」という妙なことを
思いつき、外に出て、園庭で火をおこします。
確かに、いつ地震が来るかわからない状況では、屋内で
火を扱うことがまだためらわれる段階ではありましたが、
今思えば、これもテレビの見過ぎです。
やっぱり間違いでしょう。寒いですから。
寒いうちは室内で体温が逃げるのを防いでいればいいのです。
何を思ったか、外に出て燃やせそうなものを探してきて、
段ボールやら、木の切れ端などを持ってきて、火をつけます。
たき火をしようということですね。
その時、結構良い大きさの木の板が見つかりました。
何かに使うんだけど、まぁこの際だから燃やそう。
そう思って燃やした板は、雪囲いの板でした。
川「主任先生、そこの窓の雪囲いの板ってどこ行ったんでしょうね?」
主「先生が、地震の時、燃やしてしまったんですよ…」
川「あ…す、すみません。
あ、そう…で…したね。(やっちまったぁ)」
---
その後、最もわれわれを驚かせたことがあります。
まだ青い朝の景色の中、周囲を見渡すと、体育館の
すぐ向かいの家の門柱の石が転んで崩れているのが
見えます。石の塀も崩れています。
恐ろしいことになった。これは、尋常ではないぞと
思っていたのでした。
すると、向こうからライトをつけた何かが走ってきます。
青と黄色のジャンパーを着て、バイクに乗った人がこちらに
やって来ます。
「新聞屋さん!?」
驚きました。世界は、完全に歯車が狂っていて、
自分たちは、きょうからはしばらくまともな生活ができないんだろうと
思っていたのでした。
そこへ、いつもの朝となんら変わることなく、
朝刊が配達されてきたのでした。
いや、「なんら変わることなく」するためには、新聞社の
並み外れた努力があったことを後に知るのですが、
その時には、いつもの朝が来ていることに、驚きつつも
とんでもなく大きく安心したことを覚えています。
見放されてはいないことを悟り、ほっとしたのでした。
---
その後、明るくなってから、各々が家やアパートに
帰って様子を見てきたり、家族のことを確認したり
してきました。
川上は、園内の破損状況をカメラで撮影したり
避難所をまわってきたりしました。
お昼近くに、ラーメンを食べました。
先生達が作ってくれたのでした。
その時食べたチキンラーメンは、格別でした。
---
こうして、この日から、2年が経ったのです。
もっと思い出していくと、詳細なことが
思い出されたり、忘れていることもあったりですが、
長いような、短いような2年でした。
今の2年生の子ども達が、当時の年長でした。
当時1歳クラスだった我が娘は、今は年少3歳クラスです。
当時の記録に出てくる3年生達は、今は5年生。
子ども達が、地震について、どんな記憶を胸に
大きくなっていくのかわかりません。
しかし、地震を単なるマイナスの記憶として
背負っていくのではなく、みんなが一致団結して、
助け合って、文字通りに肩を寄せ合って
暮らしたんだということも誇りに、
ぜひ忘れずにいてほしいと思います。
地震を通して学んだことの一つは、
間違いなく助け合うことの大切さです。
そして、家族や仲間の大切さでした。
苦しいときもあったけど、こわいときもあったけど、
どっこい人間はそんなに弱くないってことが
わかっただけでも、良かったねって思えます。
まだまだ厳しい生活を続けている皆さんの
生活と心の一日も早い復興と、犠牲となった方々の
冥福をお祈りしています。
---
Change!! IKUEI!!
by 川上