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軍需工場にあった戦争捕虜収容所 (石原町)

2013-08-29 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

それぞれの戦争

   軍需工場にあった戦争捕虜収容所 (石原町)

 
 石原産業(株)には、戦争中、石原産業で亡くなった外国人兵士の慰霊碑があります。建立時期や経緯については、はっきりしませんが、碑には次のように刻まれています。


人がその仲間達のために命を捨てるほど崇高な愛はない。
平和と自由のために第二次世界大戦で戦い、かつ死んだ人々に捧ぐ。

Nothing is more sublime than to sacrifice
ones own life for the sake of others.
This is dedicated to those who fought
and died bravely in the name of peace
and freedom during World War II.

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 管理者によると思われる看板には、「これは第二次大戦中に、不幸にもこの地で死去した占領軍兵士の墓碑である。私達は平和への熱望の花束でもって彼等の霊魂が永遠に安らかに眠れるようにしましょう」と説明されていますが、「第二次大戦中」に日本で亡くなった「占領軍兵士」とは、石原産業で働いていたアメリカ人などの戦争捕虜のことと思われます。

 石原産業(株)社史編纂委員会『創業三十五年を回顧して』(1956年)によると、軍需工場に指定された石原産業には、労働力不足を補うため、特別に「捕虜」が配置されており、それは次のようなものであったと説明されています。

  
フィリピンのコレヒドールや、シンガポールの戦線などで捕虜となった米、英、蘭、豪の兵士約600名が、19年12月に割り当てられ、石原町住宅地の北部に収容所を設け、軍の監督下に作業に従事させたが、翌年4、5月から米機の空襲が頻繁となって、軍はここに捕虜を置くことを不適として、6月にその半数を北陸地方へ転住させたので、終戦時には300名が残っていた。(『創業三十五年を回顧して』)

 
 四日市の石原産業は、名古屋第5捕虜収容所(5-B)と呼ばれました。ウェブサイト“捕虜 日米の対話(US-JAPAN DIALOGUE ON POWS)”によると、2009年より、元捕虜とその家族の訪問がおこなわれているということです。POWは、Prisoner of War(戦争捕虜)の略です。

 このUS-JAPAN DIALOGUE ON POWSには、元米捕虜レイモンド・C・ハイムバック氏の経験が紹介されています。

 ハイムバック氏は、1941年からはじまったミンダナオ島の戦闘で捕虜となりました。
 まずダヴァオ厚生園収容所(ダペコル)で労働に従事し、1944年日本に移送されました。9月5日、四日市に到着したのは450人でした。四日市では、名古屋捕虜収容所第5分所であった石原産業四日市工場で働きました。
 1944年から45年にかけての冬はたいへん寒く、また12月7日にはM7.9の東南海大地震に遭遇、工場も深刻な損傷を受け、19名の死者の多くはこの冬に亡くなったということです。   
   
 1945年6月1日、150人が富山へ移送され、名古屋捕虜収容所第11分所であった日本曹達岩瀬鉄鋼所で働き、同年9月5日に解放されました。

US-JAPAN DIALOGUE ON POWS
http://www.us-japandialogueonpows.org/index.htm

石原産業訪問についての記事(日本語)
http://www.us-japandialogueonpows.org/IshiharaSangyo-J.htm

元米捕虜 レイモンド・C・ハイムバック氏の日本再訪(日本語)   
http://www.us-japandialogueonpows.org/Heimbuch-J.htm

(2013年8月 記)

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