いのりむし文庫

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明治・大正・昭和 露西亜とともに 太田覚眠師顕徳碑 (四日市市京町 法泉寺)

2015-10-21 | よっかいち 人権の礎を訪ねて
太田覚眠は、法泉寺住職諦念と母けいの次男として1866(慶応2)年に生まれました。幼名は猛麿といいます。東京外国語大学でロシア語を学んだ後、1901(明治34)年、36歳で法泉寺の住職となりました。
1903(明治36)年、西本願寺の命でシベリア開教師としてウラジオストクに渡り、日露戦争、第一次世界大戦、ロシア革命という激動の時代をロシアで過ごしました。

覚眠を一躍有名にしたのは、日露戦争時の日本人居留民救出でした。
1904年日露戦争勃発により、ロシア各地の日本人居留民に対して帰国命令が下りましたが、ウラジオストク、ハバロフスクの居留民は帰国できたものの、ブラゴヴェシチェンスクなどの奥地の居留民が取り残されてしまいます。覚眠は、2月13日単身で奥地に向かい、現地のロシア人の支援を得ながら居留民800人を連れてウラル山脈を越え、ドイツを経て、12月6日長崎に寄港しました。この出来事は、全国の新聞で報じられたため、多くの人の知るところとなりました。

覚眠は、こうしたロシアでの体験を、国内の講演会や執筆活動を通して日本人に伝えました。戦争と革命の時代に、ロシアで、宗教者であった覚眠は、どのような考えに基づいて行動したのでしょうか。

日露戦争後、ロシアでの慰霊碑(忠魂碑)建立に際し、日本とロシアの戦死者を同様に供養すべきと主張したことが、自著『露西亜物語』(1925年刊行)に記されています。かつて薩摩の島津弘義父子が、高野山に建立した朝鮮人の供養塔に感銘を受けたこと、親鸞や日蓮が敵対する者のためにも祈ったことに触れながら、次のように述べています。

  私は朝鮮役の碑の例を以て、宜しく敵味方双方の為めの忠魂碑として建立すべしと云ふ事を主張した。さすれば此碑が日露親善の一媒介と成るだらうと云つたが、軍事費の中には敵の為めに忠魂碑を立てる金は無いと云ふ事で、薩摩守の真似は出来ないのである。外交と云ひ軍事と云ひ随分窮屈千萬なものだと私は思つた。(『露西亜物語』)

日露戦争後、四日市でも忠魂碑が次々と建立されますが、日本人の死者を賛美し「征清」「征露」「敵愾」などの言葉で、憎しみを増幅し戦意を高揚させていきます。戦争と「慰霊」を考えるにあたって、覚眠の意図したことを心に留めておきたいと思います。

法泉寺の太田覚眠師顕徳碑は1955(昭和30)年に建立され、1993(平成5)年に境内の現在の場所に移設されました。

 (2015年10月20日 中島久恵 記)




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(撮影2015年9月)
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