漫画の思い出
花輪和一(15)
『護法童子・巻之(一)』(双葉社)
「旅の弐 鬼娘の巻」
継子いじめが主題だが、一捻りしてある。
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継子いじめ譚は世界的にもみられ、継子が女子である場合が多いことから、成女式という通過儀礼(イニシエーション)を反映するものとも解釈されている。
(『日本歴史大事典』「継子いじめ譚」)
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成女式の後、平凡な話なら、女は夫に出会うことになりそうだ。ところが、この作品では、ヒロインは「実の父」に会う。「実の父」と偽悪者の義父は、隠喩としては同一人物だ。作者は、毒親を美化しようとしているらしい。
Ⅰ 母と息子の和解
Ⅱ 父と娘の和解
Ⅲ 親と子の和解
「鬼娘」では、Ⅱが成り立つ。
〈Ⅲが成り立てば、ⅠもⅡも成り立つ〉というのは真実だ。しかし、〈Ⅱが成り立てばⅢも成り立つ〉というのは虚偽だ。Ⅱが成り立っても、Ⅰが成り立つとは限らない。
作者は、真実の物語と虚偽の物語に二股を掛けているらしい。つまり、〈Ⅰの可能性は小さい〉という主題と〈Ⅰの可能性はありうる〉という主題の両方を同時に成り立たせようと思っているらしい。
「鬼娘」では、護法童子の出番がない。Ⅱの物語に奇蹟は不要だからだ。
「旅之参 鬼神の巻」
護法童子は、「鬼神」と闘うために、暢気な老婆に化ける。その理由は、作品論的には不明。作者は、女性化することによってしか物語を紡ぐことができなかったようだ。
「鬼娘」は〈父と娘の物語〉だったから、和解は実現した。一方、「鬼神」は〈母と息子の物語〉なので、和解は実現しない。そういう大きな縛りがあるのだろう。この縛りは、作品内部の世界の縛り、常識とか風習などではない。作者は自縄自縛に陥っている。護法童子と鬼神たちの大袈裟な闘いは、作者の葛藤の表出だろう。
真の悪役は「鬼神」ではなく、その毒母だった。解放されるのは、息子ではなく、毒母の犠牲となった「神々や精霊たち」だ。意味不明。
隠蔽された教訓は〈毒母に虐待された息子は超人にならねば安らぎを得られない〉などだろうか。
(15終)