夏目漱石を読むという虚栄
5000 一も二もない『三四郎』
5100 「母」と「あの女」
5120 「現実世界だとすると」
5121 「大変な動き方」
『三四郎』の語り手は、三四郎の〈自分の物語〉を隠蔽するために無駄話をする。
<三四郎が東京で驚いたものは沢山ある。第一電車のちんちん鳴るので驚いた。それからそのちんちん鳴る間に、非常に多くの人間が乗ったり降りたりするので驚いた。次に丸の内で驚いた。尤も驚いたのは、何処まで行っても東京が無くならないと云(ママ)う事であった。しかも何処をどう歩いても、材木が放り出してある、石が積んである、新しい家が往来から二三間引込んでいる、古い蔵が半分取崩されて心細く前の方に残っている。凡(すべ)ての物が破壊されつつある様に見える。そうして凡ての物がまた同時に建設されつつある様に見える。大変な動き方である。
(夏目漱石『三四郎』二)>
三四郎は都会というものをまったく知らないらしい。以下、「東京」らしい事物は一つも出てこない。しかも、「沢山」ではない。東京について三四郎が知っている二、三の事柄について、語り手は戯画的に語る。作者は何をしているのだろう。
「第一」は意味不明。三四郎の故郷である熊本の「電車」は「ちんちん」と鳴らないのか。あるいは、「電車」がないのか。ええい、どっちだ? いらつく。
「非常に多くの人間」には驚かないのか。熊本の「電車」が満員になることはないのか。
「次に」は意味不明。「次」の次は、あるのか、ないのか。
「丸の内」を「何処まで行っても」「東京」から、出られるわけがない。くだらねえ! 「東京」は〈繁華街〉などの換喩だろうが、無理。
「何処をどう歩いても」は嘘だろう。裏通りに入らなかったらしい。貧民の暮らしぶりを見なかった。器用にも、道に迷わなかった。「ある」は〈あったり〉が適当だが、語り手はわざと拙く語っている。三四郎の浮かれた感じを表現しているつもりらしい。「引込んでいる」は〈「引込んでいる」ように見える〉が適当だろう。「家」が移動したかどうか、彼が知るわけはない。三四郎は先入観をもって「東京」を見ている。では、そういう文芸的表現になっているのか。てんでなっていない。「材木」や「石」や「家」や「蔵」が動く様子は語られていない。勿論、勝手に動いたら、「大変な」ことだ。驚くどころの騒ぎではない。人間が動かしているわけだが、労働者の姿がない。「心細く」は〈心細そうに〉などが適当だが、建物の擬人化はウザい。
〈「凡(すべ)ての物が破壊されつつ」あり、「すべての物が同時に建設されつつある」〉というのは無意味。だから、そんな情景が「見える」ということは考えられない。もしかして、二種の情景が三四郎の脳裏でオーバーラップしてしまうのか。どういう病気?
「動き方」は唐突。〈「非常に多くの人間が乗ったり降りたりする」その「動き方」に「驚いた」〉という話ではなかろう。語り手は、三四郎の心の「動き方」を、外界の「動き方」によって表現したかったらしい。企画倒れ。外界の動きは彼の想像でしかないからだ。
三四郎が元気なら、驚きは喜びに変るはずだ。ところが、彼は喜ばない。逆に、めげる。三四郎は溌剌としていない。その理由について、語り手は明瞭に語りたくないらしい。
5000 一も二もない『三四郎』
5100 「母」と「あの女」
5120 「現実世界だとすると」
5122 「三四郎の自信」
『三四郎』の語り手は、三四郎自身の〈自分の物語〉の語り手と区別できない。『三四郎』という作品は、作中の〈三四郎の独白〉と区別できない。作中の三四郎は頭の中のDに語っている。三四郎のDと、『三四郎』の語り手に対応する聞き手を区別することはできない。また、複数の聞き手と『三四郎』の読者を区別することもできない。言うまでもなく、作者が三四郎という人物を拵えたわけだが、その三四郎と、三四郎が拵えた〈もう一人の自分〉を区別することは、『三四郎』の読者にはできない。
<三四郎は全く驚いた。要するに普通の田舎者が始(ママ)めて都の真中に立って驚くと同じ程度に、また同じ性質に於(おい)て大いに驚いてしまった。今までの学問はこの驚きを予防する上に於て、売薬程の効能もなかった。三四郎の自信はこの驚きと共に四割方滅却した。不愉快でたまらない。
(夏目漱石『三四郎』二)>
「要するに」は不適当。「同じ」ではないはずだ。
「学問」の中身は不明。「売薬」は意味不明。『広辞苑』の「売薬」ではこの文が引用されているが、辞書の「効能」はない。〈「売薬程の効能」しかなかった〉が適当だろうが、その場合、「全く」が意味不明になる。「我が生れし邦をば、売薬をするものの様に、我計りをよしと云て自慢することに候ば」(『日本国語大辞典』「売薬」)を踏まえた表現か。
「学問」の中身は不明。「予防する」は〈治癒する〉などでないと、理屈に合わない。
何の「自信」か。近頃の〈自分に自信がない〉も舌足らず。「四割方」の中身は不明。「四割方滅却し」は無意味。
〈僕はまったく驚いた〉と、日記には書いておこう。「この驚き」という言葉によって、「自信」は六割方保てそうな気がする。少し愉快だ。
『三四郎』の読者は、三四郎の嘘の〈日記〉を読まされているようなものだ。
<この劇烈な活動そのものが取りも直さず現実世界だとすると、自分が今日(こんにち)までの生活は現実世界に毫(ごう)も接触していない事になる。
(夏目漱石『三四郎』二)>
「この劇烈な活動そのもの」は語られていない。「現実世界だとすると」あるから、「この劇烈な活動そのもの」は彼の幻覚かもしれない。〈「生活は」~「接触し」〉は意味不明。「今日(こんにち)まで」に呼応するには、「接触していない」を〈「接触して」いなかった〉とやるのが適当。ただし、真相は違うのだろう。三四郎は、郷里の「現実世界」にも「接触して」いなかったはずだ。そうした真相を露呈しているのが「事になる」という言葉だろう。
常識的には、〈東京と熊本が「接触していない事」に気づいた〉などが適当だろう。
5000 一も二もない『三四郎』
5100 「母」と「あの女」
5120 「現実世界だとすると」
5123 「自分の世界」
「世界」という言葉の意味が次第に朦朧となる。
<世界はかように動揺する。自分はこの動揺を見ている。けれどもそれに加わる事は出来ない。自分の世界と、現実の世界は一つの平面に並んでおりながら、どこも接触していない。そうして現実の世界は、かように動揺して、自分を置き去りにして行ってしまう。甚だ不安である。
(夏目漱石『三四郎』二)>
「世界」は「都」が妥当。「かように」の指す言葉は不明。「動揺する」は変。地震ではあるまい。「転じて、気持などが不安定になること。不安」(『広辞苑』「動揺」)というのを元に「転じて」いるわけだ。下手な冗談。動いているのは、「世界」そのものではなく、その内部の人や乗り物だ。街並みの変化を、上京したばかりの彼が見ているはずはない。三四郎は「自分」の心の「動揺」を外界に投影して「見ている」のだろう。だが、そうした文芸的表現になっているのではない。作者が浮ついているのだ。
「けれども」は機能していない。「それ」の指すのが「動揺」なら、無意味。
「自分の世界」は意味不明。「現実の世界」は先の「現実世界」と同じか。「平面」は意味不明。「物体を真上から垂直に見た形」(『広辞苑』「平面」)という意味ではなかろう。「並んで」も「接触」も意味不明。『日本国語大事典』は「接触」の項でこの文を引くが、無益。
「そうして」は機能していない。「現実の世界」と「並んで」いたのは「自分の世界」だから、「置き去りに」されるのは「自分の世界」でないと理屈に合わない。
「不安」は唐突。
<三四郎は東京の真中に立って電車と、汽車と、白い着物を着た人と、黒い着物を着た人との活動を見て、こう感じた。けれども学生生活の裏面に横たわる思想界の活動には毫も気が付かなかった。――明治の思想は西洋の歴史にあらわれた三百年の活動を四十年で繰返している。
(夏目漱石『三四郎』二)>
「東京の真中」は意味不明。「白い着物」と「黒い着物」は何の比喩だろう。
「けれども」は機能していない。「学生生活の裏面」は意味不明。「裏面に横たわる」は意味不明。「思想界」について、『三四郎』のどこにも明示されていない。
「明治の思想」は意味不明。「歴史にあらわれた」は意味不明。「三百年」は、いつからいつまでか。「三百年」プラス「四十年」を「四十年で繰返して」いるのではないのか。どちらにせよ、追いついたわけか。「思想」と「活動」の関係が不明。
「現実の世界」と「自分の世界」という意味不明の比較が、いつの間にか、「日本」の何かと「西洋」の何かの不合理な比較になっている。三四郎がおかしいのか。作者だろう。
「――」は姑息。作者は語り手に奇妙な特権を与えている。「あらわれた」は意味不明。
(5120終)