夏目漱石を読むという虚栄
第五章 一も二もない『三四郎』
王さまのお話を、まだまだつづけますから、かくごして読んでください。
(寺村輝夫『王さまびっくり』「まほうのレンズ」)
5000 一も二もない『三四郎』
5100 「母」と「あの女」
5110 「新しい女」
5111 あこがれの近代的自我
『三四郎』も誤読されてきた。
<熊本から上京した東大生小川三四郎は東京に驚き、不安を感じるが、先輩の野々宮(ののみや)や広田(ひろた)先生、同級生の与次郎(よじろう)らと出会い、啓発されてゆく。また、勝気で美しい里見美禰子(さとみみねこ)に恋をするが、実らない。
(『近現代文学事典』「三四郎」)>
三四郎と美禰子の「恋」は、なぜ、「実らない」のか。Nが美禰子を嫌いだからだ。
<美禰子は同じ作者の『虞美人草』の藤尾と同タイプの自我に目ざめた「新しい女」として描かれている。
(『ブリタニカ国際大百科事典』「三四郎」)>
「自我」は意味不明。「これは幼児期に自覚されはじめるが、確立するのは青年期とされている」(『日本国語大辞典』「自我」)というのが常識だろう。
<《文芸用語》 自立した個人・市民としての自覚に基づいて形成されてゆく自我。
(『近現代文学事典』「近代的自我」)>
「近代的自我」の「近代的」には、「〈近代化〉という観念がかつて有していた〈あこがれ〉のニュアンス」(『百科事典マイペディア』「近代化」)が含まれているようだ。「封建的遺制など、前時代的なものの束縛から解放され、個人主義・自由主義を背景に覚醒した自我。日本では、前提となる近代市民社会の確立を欠いたため、未成熟に終わった」(『三訂 常用国語便覧』「近代的自我」)という。この「自我」も意味不明。「日本では」いつごろ「近代市民社会の確立」ができたのだろう。まだか? そうかもしれない。
<因習を打破し、婦人の新しい地位を獲得しようとする女。1911年(明治44)女流文学者の集団「青鞜(せいとう)」派の人々が婦人解放運動を起こした頃からいう。
(『広辞苑』「新しい女」)>
藤尾や美禰子は「女流文学者」ではないし、「婦人解放運動」をやってもいない。
<女性解放運動の宣言とみられた問題作で、ノーラは〈新しい女〉の代名詞となったが、イプセン自身はこれを人間描写の劇とした。
(『百科事典マイペディア』「人形の家」)>
「ノーラ」は〈ノラ〉が普通。平野ノラはバブリーなノラ。
5000 一も二もない『三四郎』
5100 「母」と「あの女」
5110 「新しい女」
5112 塩原事件
「新しい女」には、ブラスの価値とマイナスの価値があった。
<ジャーナリズムが『青鞜』のスキャンダルを煽(あお)るにつれて、対象が『青鞜』の女性へと収斂(しゅうれん)してゆき、毒々しい罵詈(ばり)に変わっていった。
(『日本歴史事典』「新しい女」堀場清子)>
「ジャーナリズム」は、「新しい女」という言葉をマイナスの価値で用いた。
美禰子のモデルは平塚らいてうとされる。どこが似ているのか、私にはわからない。
<卒業後文学講座での教え子平塚らいてうと心中事件を起こし物議をかもしたが、漱石の庇護に救われ、長編『煤煙』(1909)を発表。
(『ブリタニカ国際大百科事典』「森田草平」)>
「心中事件」の後、『三四郎』が出て、その後に『煤煙』が出て、その『煤煙』を『それから』の代助が冷評している。しかし、『三四郎』や『それから』より『煤煙』の方が面白い。ただし、『煤煙』のヒロインの思惑などは、私には推量できない。
<卒業後、生田長江(いくたちょうこう)の閨秀(けいしゅう)文学会に参加して森田草平(そうへい)を知り、1908年「心中未遂」と騒がれた「塩原事件(煤煙事件(ばいえんじけん)」を起こすが、これも遺書によれば「わが生涯の体系を貫徹」するためとされる。
(『日本歴史大事典』「平塚らいてう」)>
「心中未遂」について、彼女は自伝で、きっぱりと否定している。森田は恋愛妄想を抱いていたらしい。この妄想に、Nもマスごみも巻き込まれてしまったようだ。
<夏目先生の小説は、本当の意味の小説ではない、ホトトギス派の写生と理屈で書いた学者の小説で、ああいう彽徊趣味の文学は、自分の趣味ではないなどといい、夏目先生という人は、女のひとをまったく知らず、それも奥さん一人しか女を知らないで小説を書くのだから、作中の女はみんな頭で作られ、生きている女になっていない。いつも弟子たちの、とくに女性についての話を注意深く聞いていて、そのまま翌々日あたりの新聞小説に書いたりする。女の使う言葉もまったく知らないから、わたくしが教えているのだ、などともいい、夏目先生の家庭のこと、奥さんの人柄などについても、森田先生はよく噂話をしてもいました。
(平塚らいてう『平塚らいてう自伝 元始、女性は太陽であった』「塩原事件」)>
Nは、『三四郎』で、『草枕』的混迷から脱しようともがいている。恋愛未経験のおっさんが青春小説を書こうとしてかなり無理をしている。
5000 一も二もない『三四郎』
5100 「母」と「あの女」
5110 「新しい女」
5113 陰険な専横
「塩原事件」はフェイク・ニュースだったらしい。だが、今でも訂正されていない。
<この事件をニュースとして知らせた新聞は、「決死の原因」というところで、こんなふうにかいている。
「むかしから情死はそんなにめずらしいものではないが、この事件のように最高の教育をうけた紳士(しんし)淑女(しゅくじょ)が、おろかな男女のまねをしたのは、今までになかったことだ。自然主義、性欲満足主義の最高を代表する、めずらしいニュースといっていい。しかもふたりが尾花峠の山上で、逮捕にきた警官にたいし『私たちの行動は恋(ラブ)の神聖を発揮するもので、だれにも恥ずかしいとは思わない』といばったのは、けしからんではないか」
(松田道雄『恋愛なんかやめておけ』「女の反抗」)>
注目すべきなのは、「性欲満足主義」と「恋(ラブ)の神聖」の対立だ。対立しているのは、新聞記者の見方と森田草平の見方だ。この対立は、〈「恋は罪悪」あるいは「神聖」〉というSの意味不明の発言に似ている。だが、『こころ』の場合、人によって恋愛観が異なるのではない。Sの恋愛観が自己矛盾めいているのだ。
辻潤の妻だった伊藤野枝は「青鞜」を受け継ぐが、既婚者の大杉栄や神近市子などと絡む。日蔭茶屋事件だ。『エロス+虐殺』(吉田喜重監督)参照。
<このごろ坪内博士の『いわゆる新シイ女』を読んだ。
老人は馬鹿で利口で利口で馬鹿であるとは、フランスの皮肉家ロシュフォコールの言葉である。
(大杉栄『本能と創造』)>
「坪内博士」は坪内逍遥。彼は、ノラをあまり非難せず、彼女の夫をやや非難し、中立公正な評価をしたつもりらしい。その煮え切らない態度に大杉が噛みつく。
<これほどの明快な解釈に対しては、僕もまた一言の加うべき文字を持たない。しかしこういうのが宜しくない夫ともなるとか、これがイプセンの皮肉な見解だなどというのは、おそらくは博士の例の馬鹿が災(わざわい)した言葉で、実はこういうのがほんとうに恐るべき宜しくない夫であり、またこれがイプセンの真面目な見解なのじゃあるまいか。
僕らはことさらに温和なる専横を憎む。砂糖(スイート)水(ウォーター)を嫌う。
(大杉栄『本能と創造』)>
「こういうのが」から「見解だ」までは、『いわゆる新シイ女』の要約らしい。「夫」は〈ノラの「夫」〉のこと。彼は、妻の犠牲的不貞を知った後、仮面夫婦を続けようと提案する。
「温和なる専横」の本質は〈陰険な専横〉だ。それはやがて〈苛烈な専横〉に変わる。大逆事件には捲き込まれなかった大杉と伊藤だが、後に虐殺される。甘粕事件。その後の甘粕正彦が『ラスト・エンペラー』(ベルトリッチ監督)に出てくる。
(追記)大杉と伊藤野枝について、『風よあらしよ』(NHK)参照。
(5110終)