漫画の思い出
はるき悦巳『じゃりン子チエ』
読みだすと、止まらない。続きを買うために、一日に二度、同じ本屋に行った。本屋の店員も、もっともだというようなことを言った。
ところが、やがて飽きた。チエが何度目かの五年生をやっていることに、自分でも気づいた、そのしばらく後だろう。
小学校五年生の教室には、異様な気怠さが漂っている。テツが更生しないのは、大人になってもそうした気怠さから抜けられないからかもしれない。
出来過ぎた妻、そして、出来過ぎた母。一方、不出来な父、ご近所の不出来な人々、そして、人間どもの写しのような猫ども。こうした生物が、チエの周囲を温かく包むとき、気怠さの牢獄が出来上る。
最初の構想では、〈チエの母は悪人ではない〉ということが明らかになった時点で終わりになるはずだったろう。そこで終わらないのなら、別の展開が必要になる。しかし、アイデアが出ない。作者の力量不足ではない。愛読者が新たな展開を望まないからだ。
連載漫画の愛読者は、登場人物や設定の変化を望まない。今日は昨日と同じ。今年も、そして、来年も、去年と同じ。そうでなければ、安心できない。ちょうど、猫の世界で起きることと人間の世界で起きることが、微妙に関連しているように、作者の皮肉と読者の保身が、やはり微妙につながることを、読者は望む。
その望みが叶えられて、読者もまた気怠さに囚われるとしても、それでいいのだ。それがいいのだ。
「のびのび」を強制されて苦しむマモルのように、作者も、読者も、退屈を楽しむ。
作品そのものがノスタルジックなので、現在、私の感じている思い出の、あれとこれとが区別できない
(終)