萌芽落花ノート
36 アンノン(1)
あのさ、何か、面白い話、ないか? ないよね。あったら、こんなとこで愚図愚図してないし、どっか行く……。そうそう。知ってるかな、アンノン? 萌芽落花の常連なら、誰でも知ってんじゃないの? えっ。安藤さん? はあ、そうか。そうかも知んない。穴太さんかな。じゃなくて、阿野さんか。へへへ。へえっ? 何、何? おいおい、しっかりしてくれよ。起きてるかい?
姓がアンで、名がノンかな。逆に、名がアンで、姓がノンだったりして。ニックネームかな。かもしんね。アンノウン? へへへ。
あの、その、ええっと、アンだが、ノンだかが、座ってんだよね、よく、隅っこの方。いるんだか、いないんだか、よく分かんね。変な雰囲気でさ。
カップと受け皿みたいなもんだよ、アンノンと萌芽落花の関係は。セットなんだな。どっちが受け皿かって、そりゃあ、決まってんじゃん。決まってない? ああ、そうすか。失礼致しましたっと。
壁側が長いソファで、テーブルは一人用だろう? ていうか、二人用だね。三人、四人で来たら、テーブルをくっつけてくれる。だもんだから、逆にさ、離れてると、今にもくっつきそうな気配ってあるじゃん。あれがいいって人もいるけど、いやって人もいるよ。おいら、やだな。どっちかっつうと。
でさ、あるとき、気が付いたら、斜め前に、ふわっといたんだよ。そうそう。ふわあっとね。
人の印象ってさ、大体は着てるもんで決まるよね。違う服でも、何となく似たようなもん着てっじゃん? 髪型は決定的だよね。腕時計は、まず、同じ。変わらない。眼鏡は、印象が強すぎるから、かえって役に立たない。すぐに変えちゃうしね。
アンノンの場合、そういう特徴みたいなもの、皆無なんだよね。年齢、性別、ともに不詳。痩せてるか、太ってるか、よく分かんね。姿勢が悪いんだ。こう、丸まってる。背の高さなんか、もう、てんで……
でさ、語り出したんだよ、あいつね。向かいには誰もいないんだよ。でも、顔は正面、向いたまま、だらだら。ほら、よくあるじゃん、目の前に猫がいてさ、「かわいいね」かなんか言うとき、猫に言ってんだか、傍にいる誰かに言ってんだか、ちょっと分かんないって、そんな感じさ。
いやいや、独り言じゃない。違うって。そんなじゃない。
譬えるなら、アンノンのカップとおいらのカップが繋がったみたい。糸のない糸電話だね。そのありもしない糸を辿って、砂糖壺から発生した仔馬が砂糖の粒を、ぶるぶるっと払って一度だけ嘶いてから、駆けてくんだよ。
(続)