私は,エホバの証人ではありませんが,時々,
エホバの証人より配布いただいてる,「目ざめよ」誌・「ものみの塔」誌,パンフレット等より引用の記事もあります。
(どこの宗教,宗派にも属していません)
*いろんな宗教にも交わりました(立正佼成会,創価学会,キリスト教のカトリック,プロテスタント等)
その中で,聖書に忠実に教えてるのは,エホバの証人と思います。
目ざめよ! より
《テレビに制御される前にテレビを制御しましょう》
テレビは驚くべき可能性を秘めています。アメリカのテレビ業界は,発展途上国にテレビの導入を勧めていたときに,テレビの理想郷を描き出しました。
どんな奥地でも,農業技術,土壌の保全,家族計画など,重要なテーマに関する教育番組にチャンネルを合わせると,国中が教室に変わります。
子供たちは物理や化学を学び,文化交流を広めることから益を得ます。
もちろん,そういうイメージはその後の商業テレビ放送の現実の中にほとんど消えてゆきましたが,跡形もなくなったわけではありません。
米連邦通信委員会の議長を務め,テレビを“大いなる不毛の地”と呼んだニュートン・ミノーでさえ,その同じ1961年の演説の中で,テレビの幾つかの大きな功績と高い娯楽性を認めて称賛しました。
確かにその点は今も変わりません。テレビのニュースは世界の出来事を知らせ続けます。
自然を取り上げるテレビ番組は,ほかでは決して見られないような事柄をかいま見させてくれます。
空中を泳ぐかのようなハチドリの優美な動きをスローモーションで正確に再現したり,色とりどりの花々が土の中から一斉に姿を現わし,奇妙なダンスをする様子を低速度撮影の映像で見せたりするのです。
そればかりか,バレエやクラシック・コンサートやオペラといった文化的な催しもあります。さらには演劇や映画その他の番組に関しても,深みがあって洞察に富む番組や,そうでなくても良い娯楽になる番組があります。
子供向けの教育番組もあります。米国立精神衛生研究所によると,子供たちは暴力的なテレビ番組から攻撃性を学ぶのと同じように,テレビで見る良い手本から,利他的で友好的な態度や自制を学ぶことができます。
非常事態に対処する方法を取り上げた番組のおかげで,子供たちの命が救われたことさえありました。それでバンス・パッカードは,「危険にさらされる私たちの子供たち」という本にこう書いています。
「うんざりするか悩んだ挙げ句にテレビを屋根裏部屋にしまい込む親は,子供たちが手に負えない状態になっているのでない限り,過剰反応を示しているのかもしれない」。
「制御する」
明らかに大人の場合であれ子供の場合であれ,かぎはまさにそのこと ― テレビを制御すること ― です。わたしたちはテレビを制御しているでしょうか。
それともテレビに制御されているでしょうか。パッカード氏が指摘するとおり,ある人にとっては,テレビを制御する唯一の方法は処分することです。
しかしテレビの長所を活用しながら,うまく制御する方法を見つけた人も少なくありません。以下はそのための提案です。
・ 1週間か2週間,家族がどれくらいテレビを見ているかを小まめに記録します。最後にその時間を合計し,それだけの時間をかけてテレビを見る価値があるかどうか自問します。
・ 単にテレビではなく,テレビの番組を見るようにします。見る価値のある番組があるかどうかを知るためにテレビ欄をチェックします。
・ 家族の団らんの時間を取り,その時間を守ります。
・ 専門家の中には,子供や十代の若者の部屋にはテレビを置かないほうがよいと言う人もいます。親は子供が何を見ているかをチェックするのが難しくなるかもしれません。
・ 経済的な余裕があればビデオも役立ちます。良いビデオを借りたり,健全な番組を録画して都合のよい時に見たりすれば,テレビに映るもの ― それに,テレビをつける時間 ― を制御するためにビデオを活用することができます。
ただし注意を一言。ビデオも制御せずに使うなら,画面の前で過ごす時間が増えるだけになるかもしれず,不道徳なビデオを見るきっかけをつくるだけで終わるかもしれません。
「あなたを教えているのはだれ?」
人間は学習する機械のようなものです。わたしたちの感覚はいつも情報を吸収し,毎秒1億ビット以上のデータを脳に送ります。
わたしたちはある程度,自分の感覚に何を送り込むかを決めることによって,押し寄せてくる情報の内容に影響を及ぼすことができます。
テレビ事情がはっきりと示しているように,人間の思考と精神は,見るものによって容易に汚染されてしまいます。それはちょうど,体が食べ物や飲み物で汚染されるのと同じです。
わたしたちは周りの世界のことをどのようにして学びますか。どんな情報源を選んでいますか。わたしたちを教えるのはだれでしょうか。あるいは何でしょうか。
この点でイエス・キリストは,真剣に考えなければならない言葉を残しておられます。
「生徒は教師に勝るものではありませんが,十分に訓練された者は皆,自分の教師のようになるのです」。
(ルカ 6:40)
もしテレビを教師にして沢山の時間を費やすなら,テレビのまねをするようになり,テレビが示す価値観や規準を受け入れるようになるかもしれません。
箴言 13章20節にあるとおり,「賢い者たちと共に歩んでいる者は賢くなり,愚鈍な者たちと交渉を持つ者は苦しい目に遭う」のです。
テレビが愚鈍な人間や不道徳な人間を家庭に入り込ませていない場合でも,極めて大切なことがテレビには欠けています。
すべての人が共通に必要としているもの,つまり,霊的な面で必要としているものに少しでも触れる場面がテレビに登場することはまずありません。
テレビはこの世界がいかに嘆かわしい混乱状態にあるかを見事に描き出すかもしれませんが,人間が自らを治められそうにない理由を説明するために何をしているでしょうか。
テレビは創造物の美しさを上手に描き出すかもしれませんが,わたしたちを創造者に引き寄せるために何をしているでしょうか。
テレビは地球の隅々の出来事を知らせてくれるかもしれませんが,人間がそこでいつまでも平和に暮らせるかどうかを教えてくれるでしょうか。
こうした霊的な面の重要な質問に答えることができなければ,「世界の窓」として完ぺきとは言えません。
聖書はまさに,この点で非常に貴重な本と言えます。聖書は創造者の観点から「世界の窓」を提供します。聖書は,人生の目的を理解し,将来の確かな希望を得るための本です。
一番気になる人生の疑問に対しても,納得のゆく答えを容易に見いだすことができます。それらの答えは無限の魅力を秘めた聖書の中で,あなたの目に触れるときを待っています。
しかし,もしテレビを制御しなければ,そのための時間をどこに見いだせるでしょうか。