『あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』
「自分の隣人とはいったいだれか」
隣人というと普通、近くに住む人を思い浮かべます。
しかし,イエスがある人から、「わたしの隣人とはいったいだれでしょうか」と尋ねられて、どう答えたかに注目してください。
イエスは、親切なサマリア人の例えを話されました。
しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います』。さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。
律法の専門家は言った。「その人を助けた人です」。そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい」。
(ルカ10:29~10:37)
あるユダヤ人が強盗に襲われ、殴打され、路上に置き去りにされて死にかけていました。隣人愛を示すべきイスラエル人の祭司とレビ人は、ユダヤ人を見ましたが、助けませんでした。しかし、一人のサマリア人が助けを差し伸べます。当時、ユダヤ人とサマリア人は憎み合っていたのに、そうしたのです。それで,サマリア人の女はこう言った。「ユダヤ人のあなたが,サマリア人の女であるわたしに,水を飲ませてほしいとおっしゃるのはどうしてですか」。(ユダヤ人はサマリア人と交渉を持たないのである)
(ヨハネ4:9)
復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主(神)である。
(レビ記19:18)
あなたの民の子らに対して復しゅうをしたり、恨みを抱いたりしてはならない。あなたの仲間を自分自身のように愛さねばならない。わたしは神(ヤハウェ、エホバ)である。
(レビ記19:18)
第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』。
(マタイ 22:39)
第二もそれと同様であって、こうです。『あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』。
(マタイ 22:39)
「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。
(ローマ 13:9)
「あなたは姦淫を犯してはならない、殺人をしてはならない、盗んではならない、貪ってはならない」、そしてほかにどんなおきてがあるにしても、その法典は、この言葉、すなわち、「あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない」に要約されるからです。
(ローマ 13:9)
律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
(ガラテア 5:14)
律法全体は一つのことば、すなわち、「あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない」の中に全うされているからです。
(ガラテア 5:14)
もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。
(ヤコブ 2:8)
そこで、もしあなた方が、「あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない」という聖句による王たる律法を実践しているのであれば、あなた方はりっぱに行動していることになります。
(ヤコブ 2:8)

