2017-01-22の追記
「電流戦争」
電流戦争は、アメリカ合衆国において、1880年代後半の電力事業の黎明期に、送電システムの違いにより、ジョージ・ウェスティングハウス、ニコラ・テスラ陣営とトーマス・エジソンとの間に発生した確執、敵対関係のこと。
1880年代後半、ジョージ・ウェスティングハウスとトーマス・エジソンは敵対関係にあった。これは、エジソンが直流送電(DC)を提案したのに対して、
ウエスティングハウスとニコラ・テスラが交流送電(AC)を主張したためである。この確執にはいくつかの背景がある。エジソンは完全無欠な実験科学者だったが数学者ではなかった。
ウエスティングハウスとニコラ・テスラが交流送電(AC)を主張したためである。この確執にはいくつかの背景がある。エジソンは完全無欠な実験科学者だったが数学者ではなかった。
交流送電は、テスラが持っていたような相当高度な数学的物理学に対する適応力なしでは理解し開発することができない。テスラがエジソンのもとで働いていたことがあるため悪い印象を持たれることがあるが、エジソンは約束されたボーナスをテスラからだまし取ったという調査報告もあった。電力事業の最初の数年間、エジソンの直流送電はアメリカ合衆国における標準方式であった。
直流はモータと同様に当時の主要な電力需要であった白熱灯にも適当な送電方式で、エジソンは直流送電から得られる特許使用料を手放すつもりはなかった。
一方のテスラは自身の回転磁界の研究から交流電力の発電、送電、使用のシステムを考案し、さらにこのシステムを商業化するためにジョージ・ウェスティングハウスと契約を結んだ。
ウエスティングハウスは、以前にテスラの多相システムの特許とルシアン・ゴーラールおよびジョン・ディクソン・ギブズからAC変圧器のための他の特許権を買っていた。
交流の利点は、変圧器を用いた電圧の変換が容易である事である。電線自体の抵抗によって送電する電流の減衰はやむを得ない事であるが、電圧をより高くすれば減衰は抑えられ、効率が良い。
そのため発電所からの送電は高電圧で行われ、家庭に配電する直前に家庭用として使われる電圧にまで下げられる。また直流が必須である電気器具を使用する場合も、
交流から直流への変換は容易だが、逆に直流から交流への変換は困難であった事も挙げられる。
そのため発電所からの送電は高電圧で行われ、家庭に配電する直前に家庭用として使われる電圧にまで下げられる。また直流が必須である電気器具を使用する場合も、
交流から直流への変換は容易だが、逆に直流から交流への変換は困難であった事も挙げられる。
電力変換
競合するシステム
エジソンの直流送電システムは、発電所と重い配電線、そしてそれらから電気を取り出す消費者の家電製品(照明とモーターなど)で構成される。
このシステムは全体を通じて同じ電圧で作動する。例えば100Vの電球が消費者の場所に接続されていたとすると、発電機は発電所から消費地までの送電線の抵抗による電圧降下を考慮して110Vを発電した。この電圧は電球製造の都合で決められ、当時は大きな問題ではないとされていた。
電線の銅を節約するために三線式の配線が採用された。エジソンのシステムでは、三本の線はそれぞれ+110V、0V、-10Vの電圧がかけられていた。
100V電球は+110Vの線と0Vの線の間、または0Vと-110Vの線の間のいずれかに接続された。0Vの線(「中性線」)には、+線と-線の電流差分だけが流れた。
この三線式システムは、使用電圧が低い値に留められたにもかかわらず、比較的高い効率を示した。しかし、この発明をもってしても導体の抵抗による電圧降下は大きいため、発電所と消費地の距離は1.6kmに留めるか、高価な極太の銅線を使用しないかぎり、膨大な電力が失われる。
また直流電流は交流よりも電圧を容易に変えることができず、結果電圧ごとに別々の架線を用意しなければならず、結果として架線や電力網の複雑化とそれに伴うメンテナンス費用の増大といった問題が発生した。特に1888年にアメリカ東海岸の都市が大寒波に見舞われた際、大規模な直流電力網を敷いたニューヨーク市で犠牲となった200人のうちいくらかは、雪の重みなどで電力網が崩壊したことが原因で亡くなった。
送電損失
交流送電の長所は変圧器によって容易に電圧を変えられることである。 電力は電圧と電流の積によってあらわされる(電圧V、電流I、電力Pとして、P=VI)。
高い電圧を送電線で使用することにより、同じ電力を送るときに電流を相対的に低い値で抑えることができる。(超伝導でない)金属電線には電気抵抗があるので、送電時に一部の電力は熱として失われる。変圧器で高い電圧に変えてから送電することで電流を相対的に減らし、この送電損失を減らすことができる(送電線の電気抵抗Rとして、送電損失P'=R・I2、即ち電圧を10倍にすれば電流I=P/Vは10分の1、損失は100分の1)。現在は100万ボルト級の電圧が使用されている。
なお、20世紀後半からのパワーエレクトロニクスの発達に伴い、直流から交流への変換も実用的となったことで、長距離送電の分野では絶縁容量やリアクタンス、表皮効果などで有利な、高電圧による直流送電がふたたび行われるようになっている。
結果
交流は、発電および送電において直流から主役の座を交替させることとなった。これは送電範囲の大幅な拡大と、送電における安全性と効率の向上によるものだった。
エジソンの直流を用いた低電圧送電システムは最終的には他者、主としてテスラの多相システムのほか、GE(ゼネラル・エレクトリックの)チャールズ・プロテウス・スタインメッツが提案した交流用機器に敗北する事となった。
なおニューヨーク市の地下鉄は直流で動き続けている。他にも世界中で直流電化のもと稼動している鉄道は数多く、日本でも大都市圏を中心に人口密集地を走る路線で多用されているが、
これらのほとんどは電力会社から直流の電流を直接供給されているのではなく、交流で供給された電流をいったん変電所で直流に整流してから車両に供給されている。
鉄道の電化については、運転密度が過密であるほど直流送電のほうが低コストとなる事情が絡んでいるため、地磁気観測などを行う施設の周辺を除く都市近郊路線では、現在でも直流送電が主力である。
~Wikipedia~
*イーロン・マスク率いる、EVメーカーのテスラ社、電気技師であり物理学者であるニコラ・テスラにちなんで社名に。
これ以外にもエジソンは敗北しています。
かの有名な蓄音機
かの有名な蓄音機
蓄音機の実用化に向け、録音と再生の針を別にしたり、保存の効かない錫箔をワックス塗りに変えたり、再生にゴム管を使い音声が明瞭に聞こえるようにしたりするなどといった改良を加え、
「グラフォフォン」を誕生させた。
「グラフォフォン」を誕生させた。
エミール・ベルリナー(ベルリーナ)
英語読み エミール・バーリナー(Emil Berliner)
(1851年5月20日 - 1929年8月3日)ドイツ出身のアメリカの発明家。レコード盤蓄音機の発明。
エジソンの蓄音機が、音の振動を針の圧力の強弱として、蝋管を利用したシリンダー(円筒)に刻む縦振動の記録再生方式だったのに対し、ベルリナーは別の方式を取り入れた。
それが、針の振動を90度回転させて、音の振動を横振動に変換してディスク(円盤)に刻む方法だった。さらに原盤から大量、安価に再生専用の円盤を作る方式も考えた。
亜鉛円盤に蝋を塗り、蓄音機で音を刻んだ後に酸を注ぐと、その部分の亜鉛が酸で腐食し、音の溝が亜鉛円盤に刻まれる。この亜鉛円盤からネガを作ると、これが原盤となる。
1887年には後のレコードプレーヤーの原型である、円盤式蓄音機「グラモフォン」を作った。1895年には「グラモフォン」の製造・販売のために「ベルリーナ・グラモフォン」
という会社を設立する。ベルリーナ・グラモフォンは、ビクタートーキングマシンを経てRCAレコードとなり、また、英国支店はグラモフォン・カンパニーを経てEMIへ、さらに、ドイツにおいてはドイツグラモフォンと、音楽業界に大きな影響を与える企業の源流。
トーマス・アルバ・エジソン(エディソン)(1847年2月11日 - 1931年10月18日)
エジソンの功績はたぐいまれなものがあるが、改良発明も多く、盗作疑惑のあるものや、誹謗中傷を受けたものも多い。
エジソンの蓄音機が、音の振動を針の圧力の強弱として、蝋管を利用したシリンダー(円筒)に刻む縦振動の記録再生方式だったのに対し、ベルリナーは別の方式を取り入れた。
それが、針の振動を90度回転させて、音の振動を横振動に変換してディスク(円盤)に刻む方法だった。さらに原盤から大量、安価に再生専用の円盤を作る方式も考えた。
亜鉛円盤に蝋を塗り、蓄音機で音を刻んだ後に酸を注ぐと、その部分の亜鉛が酸で腐食し、音の溝が亜鉛円盤に刻まれる。この亜鉛円盤からネガを作ると、これが原盤となる。
1887年には後のレコードプレーヤーの原型である、円盤式蓄音機「グラモフォン」を作った。1895年には「グラモフォン」の製造・販売のために「ベルリーナ・グラモフォン」
という会社を設立する。ベルリーナ・グラモフォンは、ビクタートーキングマシンを経てRCAレコードとなり、また、英国支店はグラモフォン・カンパニーを経てEMIへ、さらに、ドイツにおいてはドイツグラモフォンと、音楽業界に大きな影響を与える企業の源流。
トーマス・アルバ・エジソン(エディソン)(1847年2月11日 - 1931年10月18日)
エジソンの功績はたぐいまれなものがあるが、改良発明も多く、盗作疑惑のあるものや、誹謗中傷を受けたものも多い。
これは彼自身の性格に起因する面がある一方、エジソンの遺産相続の紛糾に起因する面もある。発明の中には、エジソンがゼロから思い付いたものなのか、他人のアイデアを改良したものであるのかが、すでに分からなくなってしまっているものもある。アメリカの発明家チャールズ・ケタリングの「成功の99パーセントは、いままでの失敗の上に築かれる」という言葉から分かるように、
エジソンの発明の「本当に最初の」発明者を決めるのは困難である。
電話機の発明
電話機の発明はアメリカ大陸における電信事業を独占していたウエスタンユニオンに依頼されて着手。
電話機の発明
電話機の発明はアメリカ大陸における電信事業を独占していたウエスタンユニオンに依頼されて着手。
その結果、電話に関する特許を得たグラハム・ベルとその後援者たちと対立するに至る。送話器(マイクロフォン)において、
ベルの電磁石を利用したダイナミックマイクに代わって炭素粒を用いたカーボンマイクを採用し、また誘導コイルにより送話距離を伸ばしたのはエジソンの功績である。
長距離で利用するためには、リー・ド・フォレストが原型を発明した「三極真空管」製品化まで待たなければならなかったが、
「エジソン効果」がなければ真空管の発明が遅れたであろうことは言うまでもない。エジソンは、ベルが電話機の発明者とされるのは最後まで納得がいかなかったとされる。
無線機の発明
一方で無線機の発明については、あっさりとグリエルモ・マルコーニに手柄を譲っている。この点は輸出も狙っていたエジソンは上流階級出身者でイギリスやヨーロッパの官庁に強いコネクションを持つマルコーニと正面からけんかをしたくなかったとも、元々アマチュアで変調などについても知識の浅いマルコーニを敵とすら見ていなかったともされている。そもそも電波については、
ジェームズ・クラーク・マクスウェルが予言しハインリヒ・ヘルツが実証した時点で世界中で開発ブームとなったことから、順番争いよりも関連特許取得の競争が重要であった。
この点はマルコーニもエジソンもどちらも資本家であることから認識を同じくして、どちら側も買収戦争に参加している。
白熱電球
一般には「白熱電球の発明者はエジソンである」という説が広まっているが、実際に白熱電球を発明したのはジョゼフ・スワンである。
白熱電球
一般には「白熱電球の発明者はエジソンである」という説が広まっているが、実際に白熱電球を発明したのはジョゼフ・スワンである。
エジソンはフィラメントに京都八幡の竹を使った功績だけを主張。竹は後にタングステンに取って代わられる。エジソンは「電球の発明者」ではなく、
電球を改良して「電灯の事業化に成功した人」と言うべきだろう。エジソンは配電システムを構築し、トースターや電気アイロンなどの電気製品を発明した。
このために広く家庭に電気が普及したのである。
失敗と敗北の人
エジソンは成功した人物として知られているが、その一方で、それと同じくらい、あるいはそれ以上に数々の失敗・敗北を経験したことでも知られている。
失敗と敗北の人
エジソンは成功した人物として知られているが、その一方で、それと同じくらい、あるいはそれ以上に数々の失敗・敗北を経験したことでも知られている。
大きな失敗・敗北としては、自分が選択・採用した直流送電にこだわるあまりに交流送電の優位を受け入れられず、交流を採用したニコラ・テスラおよびウェスティングハウスとの間で電流戦争に陥り、結局、敗北してしまったことが知られている。また、飛行機(厳密にはヘリコプター)を作ることを考えながらも安全面の問題から断念せざるを得ず、ライト兄弟に先を越されたという失敗もある。
~Wikipedia~
~Wikipedia~
発売された当時、買って作った表紙です ベルリナー(ベルリーナ)