孤独感をどう克服するか
多くの場合それは見方の問題
当然にあなたはご自分の温かい家庭を渇望し,独身をかこつかもしれません。
ところが,最近,様々の人を対象に調査を行ない,もしできることなら自分の生活を他の人の生活と交換したいと思うか,
もしそうであればだれと交換したいかを尋ねたところ,驚くべきことに,既婚者と独身者の両方が互いをうらやんでいるのです。
独身の女友達と生活を交換することを望んだ一人の主婦はこう書いています。
「彼女の時間は自分の時間です。好きな時にいつでも旅行し,行きたい所に行けます。結婚して子供を持つと,もう自分だけの生活はありません。
いつでも相手をしなければならない夫と子供がいます。……誤解しないでください。わたしは家族を深く愛しており,家族が生活の中心です。
しかしやり直すことができるものなら,結婚はしないと思います」―「今日の心理学」誌,1976年8月号。
すき好んでというよりも独身を強いられている人もいるでしょう。そのような場合でも独身であることの利点に目を向けましょう。
この見方は人を無力にする自己憐憫を防ぐのに役立ちます。
独身の一女性は次のように警告しました。「夫を見つけなかったとしても,世の中にはそれよりも悪いことがいくらもある。ほんとうの自分を見つけることのできない人がいる」。
しかし自分のことだけを考えて時間を過ごしていても,それを成し遂げることはできません。
すすんで他の人と近付きになる
「自分の益をはかって自分の事だけに目をとめず,人の益をはかって他の人の事にも目をとめなさい」と聖書は勧めています。
(フィリピ・ピリピ 2:4)
他の人に関心を示すのです。他の人と近付きになるために求められる,感情面での代価を払うことを惜しんではなりません。
わたしたちが努力して築く関係は,かみそりの刃のように薄いものであってはなりません。
「それは口で言うほど易しくない」と,幾百万もの孤独な人は答えます。確かにその通りです。
それには聖書の言う「思いやり」を培う必要があるのです。
「終わりに申します。皆が心をひとつにし,同情し,兄弟愛にみち,あわれみをほどこし,へりくだってください」。
(ペテロ第一 3:8)
この語の原語のギリシャ語は字義通りには「共に苦しむ」ことを意味します。
それには他の人の経験にあずかることがかかわってきます。
ですから,会話をしている時,次に何を言おうかと考えるのではなく,相手の話に誠実に耳を傾けてください。人の話している事柄に注意を集中するのです。
その人の情緒を感じ取ることに努めてください。相手の見方から物事を見るように努めることです。
二,三の意味深い,しかし思いやりのある,例えば次のような質問ほど,良い会話がはずむのを助けるものはありません。
「どちらからお越しですか」。「この辺りはいかがですか」。「気晴らしにどんなことをされていますか」。「趣味をお持ちですか」。
その人がクリスチャンの仲間であれば,次の問いで大抵,話が軌道に乗ります。
「クリスチャンになることに関心を持たれたのは,どのようにしてですか」。
むろんのこと,相手がくつろげないほど立ち入ったり,無理に話をするのは避けねばなりません。
今度はあなたも同じことを尋ねられ,あなたが話す番になるでしょう。
単におしゃべりをするだけでなく,気の合う仲になるための一歩を進めることになります。
次に会う時,何か共通のものがあり,その人はもはや群衆の中の無意味な顔ではありません。
あなたもその人にとって同様です。考えや経験を共にすることが始まったのです。
気まずい一瞬が時にあることは予期しなければなりません。聖書にも次のように書かれています。
「わたしたちはだれでも,あらゆる仕方で間違いをする。しかし,自分は間違ったことを決して言わないと主張できる人は,自分を完全であるとみなすことができる」。
(ヤコブ 3:2)
「私たちは皆,何度も過ちを犯します。言葉で過ちを犯さない人がいれば,それは完全な人で,体全体を制御できます」。
(ヤコブ 3:2)
ですから自分にも他の人にも完全さを期待することはできません。多くの場合,自然の気恥ずかしさがあります。
純粋の友情を培うには時間および分かち合うことが必要です。それゆえ,二,三回軽い会話をしたからといって,このような関係が生まれることは期待できません。
要点はこうです。他の人に関心を示してください。そうすればいつも付きまとっていた孤独感が次第に消えていくことに気づくでしょう。
しかし知り合う人すべてが良い友達であると言えますか。
どのように友達を選ぶかに注意が必要へ続く>>>