日本で4番目に誕生(※)した職業野球(プロ野球)球団である「大日本東京野球倶楽部」。
※ちなみに大日本東京野球倶楽部以前に存在した職業野球球団は「日本運動協会(1920年〜1923年)」→「宝塚運動協会(1924年〜1929年)」及び「天勝野球団(1921年〜1923年)」
改めてそのユニフォームを見ても、そのデザインは非常に秀作であった。(1935年5月バンクーバー・アスレチックパークにて撮影された下写真の出典はこちら)
後列左から#8 水原茂(三塁手)/#17 沢村栄治(投手)/#15 畑福俊英(投手)/三宅大輔(総監督≒現在のGMに近い地位。但し写真には「コーチ」記載のため監督の役割も担った可能性あり。登録上の監督は写真には写っていないが浅沼誉夫)/#11 倉信雄(捕手)/市岡忠男(総監督≒現在のGMに近い地位。監督は写真には写っていないが浅沼誉夫)/鈴木惣太郎(写真には「GM」と表記されているが実質はケアテイカー。余談だが私の地元・群馬県伊勢崎市出身!)/#3 田部武雄(二塁手)/#9 青柴憲一(投手)/#5 苅田久徳(遊撃手)/#6 永沢富士雄(一塁手)/#4 ジェームズ・フミオ・ホリオ 通称:ジミー堀尾(外野手 日本名は「堀尾文人(ほりおふみと)」日本初の両打、日本初の外国籍選手でもあった)
前列左から#18 ヴィクトル・スタルヒン(投手)/#14 江口行男(内野手控え)/#12 新富卯三郎(外野手)/#13 津田四郎(三塁手)/#2 矢島粂安(外野手)/#20 内堀保(捕手)/#19 中山武(捕手)/#10 山本栄一郎(外野手控え)
◆監督の浅沼誉夫、外野手の#1 二出川延明は上記集合写真に写っていない
【原文】 Group portrait: standing (L-R) Shigeru Mizuhara 3B, Eiji Sawamura RHP, Toshihide Hatafuku RHP, Daiske Miyake COACH, Nobuo Kura C, Tadao Ichioka MGR, Sotaro Suzuki General Manager, Takeo Tabe 2B, Kenichi Aoshiba RHP, Hisanori Karita SS, Fujio Nagasawa 1B, Jimmy Horio CF. Kneeling (L-R) Victor Starffin RHP, Yukio Eguchi UT, Usaburo Shintomi OF, Shiro Tsuda 3B, Kumeyasu Yajima OF, Tamotsu Uchibori C, Takeshi Nakayama C, Eiichiro Yamamoto UT.
選手詳細はこちら
左:#1 二出川延明/右:#2 矢島粂安
二出川さんといえば「俺がルールブックだ」「気持ちが入ってないからボールだ」「写真が間違っている」等の名語録で有名だった審判のイメージが強い
総監督:三宅大輔
1935年当時、日本で唯一の職業野球球団であった「大日本東京野球倶楽部」はMLBマイナーリーグとの対戦のためアメリカ・カナダ遠征を実施。その際に使用されたユニフォームは遠征=敵地(ビジター)であることからグレーの生地を採用。当時MLBでも多くの球団が採用していたラケットラインを織り込み、左胸には「TOKYO」の文字と日の丸を配した王冠のようなデザインのロゴ。
左胸にワンポイントでロゴを配置するのも当時のMLBの流行を取り込んでいると推測できる。当時としては、かなりファッショナブルなデザインではなかっただろうか。
左袖には漢字の縦書きで「日本」、左袖にはアラビア数字で袖番号
1924年に年間を通じて初めて袖番号を導入したセントルイス・カージナルスを意識したデザインか?ここでも上手くMLBの流行を取り入れている。
日本と球団ということをアピールするためか?背番号は漢数字で描かれていた。非常にユニークではあるが、非常に奇妙でもある。
背番号の漢数字表記は、恐らくこの1935年の大日本東京野球倶楽部以外は存在しないであろう。よって背番号はかなり奇異に感じるが、それ以外は説妙なバランスで球団ロゴ等が配置され、現在の感覚でも非常に洗練されたデザインのように感じる。
キャップは趣味じゃないけど(苦笑)
2016年にアンダーアーマーから大日本東京野球倶楽部Tシャツが販売されたが、左胸の球団ロゴが実際よりもかなり小さく、お値段も高価だったので購入はしなかったが、う~ん、やっぱ入手しとくべきだったか…
球団ロゴさえネットで見つけられれば、自作できるのだが…今現在では見付からなくそこまで至ってない。やっぱアンダーアーマー製Tシャツ買っとけばよかった…後悔先に立たず…
ちなみに大日本東京野球倶楽部の集合写真が撮影された「アスレチックパーク/Athletic Park」の所在地は「north-east corner of Hemlock Street and West Fifth Avenue」と記載されていたので、現在の「グランビル・ループ・パーク/Granville Loop Park」辺りか? だとしたら、バンクーバーに住んでいる時、近くは通ったはずだ。う~ん、その時知っていたのなら、じっくり見たのに…残念なことをした。
【1923年当時の地図。ほぼ中央に「ATHLETIC PARK」がある】
余談だが、現在は陸続きになっているグランビル・アイランドが当時は島になっていたことが分かる
ちなみにアスレチックパークは1951年に解体され、以後バンクーバーの主要球場は現在も使用されているNat Bailey Stadium/ナットベイリー・スタジアム(1951年開場当時はCapilano Stadium/キャピラノ・スタジアム)になる。
※他にもユニフォームのこと、球場のこと、ゴチャゴチャ言ってます(笑)
※ちなみに大日本東京野球倶楽部以前に存在した職業野球球団は「日本運動協会(1920年〜1923年)」→「宝塚運動協会(1924年〜1929年)」及び「天勝野球団(1921年〜1923年)」
改めてそのユニフォームを見ても、そのデザインは非常に秀作であった。(1935年5月バンクーバー・アスレチックパークにて撮影された下写真の出典はこちら)
後列左から#8 水原茂(三塁手)/#17 沢村栄治(投手)/#15 畑福俊英(投手)/三宅大輔(総監督≒現在のGMに近い地位。但し写真には「コーチ」記載のため監督の役割も担った可能性あり。登録上の監督は写真には写っていないが浅沼誉夫)/#11 倉信雄(捕手)/市岡忠男(総監督≒現在のGMに近い地位。監督は写真には写っていないが浅沼誉夫)/鈴木惣太郎(写真には「GM」と表記されているが実質はケアテイカー。余談だが私の地元・群馬県伊勢崎市出身!)/#3 田部武雄(二塁手)/#9 青柴憲一(投手)/#5 苅田久徳(遊撃手)/#6 永沢富士雄(一塁手)/#4 ジェームズ・フミオ・ホリオ 通称:ジミー堀尾(外野手 日本名は「堀尾文人(ほりおふみと)」日本初の両打、日本初の外国籍選手でもあった)
前列左から#18 ヴィクトル・スタルヒン(投手)/#14 江口行男(内野手控え)/#12 新富卯三郎(外野手)/#13 津田四郎(三塁手)/#2 矢島粂安(外野手)/#20 内堀保(捕手)/#19 中山武(捕手)/#10 山本栄一郎(外野手控え)
◆監督の浅沼誉夫、外野手の#1 二出川延明は上記集合写真に写っていない
【原文】 Group portrait: standing (L-R) Shigeru Mizuhara 3B, Eiji Sawamura RHP, Toshihide Hatafuku RHP, Daiske Miyake COACH, Nobuo Kura C, Tadao Ichioka MGR, Sotaro Suzuki General Manager, Takeo Tabe 2B, Kenichi Aoshiba RHP, Hisanori Karita SS, Fujio Nagasawa 1B, Jimmy Horio CF. Kneeling (L-R) Victor Starffin RHP, Yukio Eguchi UT, Usaburo Shintomi OF, Shiro Tsuda 3B, Kumeyasu Yajima OF, Tamotsu Uchibori C, Takeshi Nakayama C, Eiichiro Yamamoto UT.
選手詳細はこちら
左:#1 二出川延明/右:#2 矢島粂安
二出川さんといえば「俺がルールブックだ」「気持ちが入ってないからボールだ」「写真が間違っている」等の名語録で有名だった審判のイメージが強い
総監督:三宅大輔
1935年当時、日本で唯一の職業野球球団であった「大日本東京野球倶楽部」はMLBマイナーリーグとの対戦のためアメリカ・カナダ遠征を実施。その際に使用されたユニフォームは遠征=敵地(ビジター)であることからグレーの生地を採用。当時MLBでも多くの球団が採用していたラケットラインを織り込み、左胸には「TOKYO」の文字と日の丸を配した王冠のようなデザインのロゴ。
左胸にワンポイントでロゴを配置するのも当時のMLBの流行を取り込んでいると推測できる。当時としては、かなりファッショナブルなデザインではなかっただろうか。
左袖には漢字の縦書きで「日本」、左袖にはアラビア数字で袖番号
1924年に年間を通じて初めて袖番号を導入したセントルイス・カージナルスを意識したデザインか?ここでも上手くMLBの流行を取り入れている。
日本と球団ということをアピールするためか?背番号は漢数字で描かれていた。非常にユニークではあるが、非常に奇妙でもある。
背番号の漢数字表記は、恐らくこの1935年の大日本東京野球倶楽部以外は存在しないであろう。よって背番号はかなり奇異に感じるが、それ以外は説妙なバランスで球団ロゴ等が配置され、現在の感覚でも非常に洗練されたデザインのように感じる。
キャップは趣味じゃないけど(苦笑)
2016年にアンダーアーマーから大日本東京野球倶楽部Tシャツが販売されたが、左胸の球団ロゴが実際よりもかなり小さく、お値段も高価だったので購入はしなかったが、う~ん、やっぱ入手しとくべきだったか…
球団ロゴさえネットで見つけられれば、自作できるのだが…今現在では見付からなくそこまで至ってない。やっぱアンダーアーマー製Tシャツ買っとけばよかった…後悔先に立たず…
ちなみに大日本東京野球倶楽部の集合写真が撮影された「アスレチックパーク/Athletic Park」の所在地は「north-east corner of Hemlock Street and West Fifth Avenue」と記載されていたので、現在の「グランビル・ループ・パーク/Granville Loop Park」辺りか? だとしたら、バンクーバーに住んでいる時、近くは通ったはずだ。う~ん、その時知っていたのなら、じっくり見たのに…残念なことをした。
【1923年当時の地図。ほぼ中央に「ATHLETIC PARK」がある】
余談だが、現在は陸続きになっているグランビル・アイランドが当時は島になっていたことが分かる
ちなみにアスレチックパークは1951年に解体され、以後バンクーバーの主要球場は現在も使用されているNat Bailey Stadium/ナットベイリー・スタジアム(1951年開場当時はCapilano Stadium/キャピラノ・スタジアム)になる。
※他にもユニフォームのこと、球場のこと、ゴチャゴチャ言ってます(笑)