答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

飲んだら飲まれる

2023年01月06日 | 食う(もしくは)呑む

 

「酒は飲んでも飲まれるな」

という格言(?)については何度か書いた。

飲酒に際しては「飲まれる=自分を見失う」ことを避けるように心がける。飲み始めた若い時分から五十年近く経った今に至るまで、多くの場面でそう戒めてきた。

といっても、いつもいつでもそれが実現できたかというと、そのようなことがあるはずもなく、それはもう、数多くの失敗を積み重ねてきたことは言うまでもない。

であるからこその「酒は飲んでも飲まれるな」だが、そもそもそう意識しなければならないということは、すなわち「飲んだら飲まれる」の裏返しに他ならない。

そんな至極当たり前のことに、あらためて気づかされたのは昨年末。桂浜水族館の公式Twitterアカウントによってである。

そこにアップロードされていたのは、次のような投稿だった。

 

 

 

 

 

 

「酒は飲んだら飲まれんねん」

食後、飲んでいた茶を思わず吹きかけた。

いやあ~、そうなのである。

酒を飲む「と」酒に飲まれる。

これは極々ふつうのことであって、特段めずらしいことではない。

なんならば、

酒は飲む「が」酒には飲まれない。

こっちの方がめずらしいということを実証するのは、さほど難しいことではない。そこらへんの酒場へ行けば、老若男女にかかわらず、いつもいつでも「飲まれた」人間を目にすることができる。

であれば、「酒は飲んでも飲まれるな」という格言(?)は、それ単体で用いるべきではなく、「酒は飲んだら飲まれんねん」とセットで使われるのが効果的だ。

いやいや、もっと根源的にはこうだろう。

「酒は飲んだら飲まれんねん」 → ∴「酒を飲まなきゃ飲まれない」

これがベストソリューションである。

しかし・・・それではあまりに味気ない。

だからわたしはコッチを採用する。

「酒は飲んだら飲まれんねん」 → ∴「酒は飲んでも飲まれるな」

いやこれでは、言葉が東西ごちゃまぜだ。

どちらかに統一しよう。

関東的には

「酒を飲んだら飲まれるよ」 → ∴「酒は飲んでも飲まれるな」

関西的には

「酒を飲んだら飲まれんねん」 → ∴「酒は飲んでも飲まれたらあかんで」

 

よし、これでイイ。

 

 

 

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酉の刻前から亥の刻過ぎまで

2022年12月31日 | 食う(もしくは)呑む

 

瀧川鯉昇を聴いている。

憑かれたように聴いている。

こういうのを今風には「はまった」というのだろうな、と思いながら聴いている。

きのう今日は、柚子の剪定作業をしながら聴いていた。

そんななかのひとつが「時そば」だった。

言わずと知れた古典落語を代表する演目だ。

噺を理解するには江戸時代の「時」についての知識がなければならない。

いや正しくは、「なければならない」ことはなく、算数、しかも一桁の足し算がわかれば理解できる。

だがそこはそれ、江戸の世の時刻というものがどのような成り立ちであったかを知っているのと知らぬのでは、そのおもしろみがちがってくるだろう。

ということで、鯉昇師匠は江戸時代の「時」についてのレクチャー(らしきもの)をまくらとしている(たぶん)。

以下、そのまくらである。

******

十二支というのが、これがまあ人生の営みもちゃんと表現しているんだそうでございます。

夜中の12時がネズミ、そっから2時間おきにウシ(丑)、トラ(寅)、ウー(卯)、タツ(辰)、ミー(巳)、ウマ(午)。

まあ午(ウマ)ってえのが午前午後を分けますんで、この午という字でございます。

ウマ(午)、ヒツジ(未)、サル(申)、トリ(酉)、イヌ(戌)、イー(亥)という、トリという字がこういう字を書きましてね。これが夕方の6時でございます。

この酉の刻という、つまり暮六つでございますが、この酉の刻の酉の字にサンズイをうつと酒という字になるわけでございます。

つまり、ま、昔は明るいあいだは人間は働いてございまして、暗くなる少し前に仕事を切りあげて片づけをして、暗くなると仕事にはならないんで、それからオマンマを食べて寝ましょうという、お酒の飲めるものはこの酉の刻から飲みなさいという、これがお酒という字の由来なんだそうでございます。

ですからま、お好きな方は飲んでもいいんですが、一時(いっとき)は2時間でございますからね。酉(トリ)から戌(イヌ)になるまでは切り上げなさいということをあらわしていたんだそうでございます。

これがまた懲りないで延々と飲みつづけておりますと、酉の刻から次の戌の刻となってギャンギャン吠えたがるわけでございましてね、それも経過をしてまだ飲みつづけておりますと周りにつっかかっていく、これがつまり亥(イ)の刻限なのでございます。

それでも懲りずに延々と飲みつづけておりますと、まあ家族があきれかえってアタシャ寝るよ、なんてみんなが寝静まって、なんかどっかにツマミはないかと台所をひとりでガサゴサあさり始めるのが夜中の12時、つまり子(ネズミ)の刻限でございましてね、それでも懲りずにずっと飲みつづけておりますと、やがて眠気とともにヨダレが垂れてくるのが夜中の2時、丑(ウシ)の刻でございます。

で、それでも懲りずにずっと飲みつづけておりますと立派なトラ(寅)になるという、これを十二支が表現していた。

ま、こんな歴史もだんだんわからなくなって来ているわけでございましてね・・・

******

てなふうに、ビール片手に昼間聴いたYouTubeの文字起こしをしていたら、酉の刻前から飲みはじた今宵も、いつのまにか亥の刻を過ぎていた。

このまま行くと、どっかにツマミはないかとあさり始めるのは必定、ヨダレが垂れないうちに、そろそろおひらきにするとしよう。

 

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酒はのんでも

2022年12月16日 | 食う(もしくは)呑む

 

あれはたしか、わたしが故郷を離れる直前だったか、いやいやそれとも一年目の帰省だったか、いずれにしても頃は春。それが十八か十九かという歳のちがいは、今となってはどうということもない。

誰の、かは皆目覚えていないが法事の席だった。

「おんしゃあ(おまえ)けっこう呑めるなあ」

とその時わたしに言ったのは祖母の兄。大伯父である。

「けんどにゃあ(けどなあ)」

という逆接を挟んでそのあとにつづいた彼の言葉、顔と口調は、それから四捨五入すれば50年が過ぎようとする今でもはっきりくっきりと覚えている。

「酒はなんぼのんでもえいけんど、酒にのまれたらいかんぞ」

「へーうまいこと言うもんやなあ」

と尊敬の眼差しを向けたであろうわたしは、広く世間一般に流布されたその言葉を、その時までまったく耳にしたことがなかった。

「酒はのんでものまれるな」

爾来それは、酒呑みとしてのわたしが自らを戒める言葉となり、ほとんどわたしの座右の銘のようなものだった。

その時なぜ、その言葉がわたしの心を打ったのか。とりもなおさずそれは、酒というものの魔性と危険性を経験則として肌で感じていたからに他ならない。

もちろん当時も今も、法的に酒を呑んでもよくなるのは満二十歳からである。しかしそれはあくまで日本国の法律であり、酒国土佐の昭和の慣例はそうではない。当時のわたしはすでにはっきりしっかりと、酒の魔性を体感していた。

慣例が法律を上回る。今となってはあり得ない、よいかどうかはわからないが古き昭和のあるあるである。

だからといって、それからのわたしが「のんでものまれるな」を忠実に実践できたかといえば、まことに残念ながらそれはない。

♪のんでのんでのまれてのんで♪

の繰り返しの果てに今がある。

だがあのときの大伯父の忠告は、いつもアタマの片隅にあった。

「酒はなんぼのんでもえいけんど、酒にのまれたらいかんぞ」

と書いてたった今、ひとつの疑念が生まれた。

「のむのはよいがのまれてはならない」という本来の意味を、「のまれない」を実現しさえすれば「なんぼのんでもえい」と曲解したゆえにその後の悪戦苦闘があったのではないか、ということである。

「なんぼでものむ」と「のまれない」は、そもそも両立するはずがないという当たり前に長いあいだ気づかず酒を呑んできた。

とはいえ気づいてからも・・・

まこと酒というやつは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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うどん

2022年12月15日 | 食う(もしくは)呑む

 

先日高松へ行った。彼の地へ行けば、ほぼ10割の確率でうどんを食っている。といってもそれは珍しくもないことだ。香川県外で暮らすものが香川へ行けば、ほとんどの人がそうするだろうと思われるぐらいに当たり前のことである。

だが、ひねくれ者かつ食べ物に対しては無精なところがあるわたしは、いわゆる有名店というやつを追いかけてまでうどんを食うことはない。そこらにある何の変哲もない店に飛び込んで食うのが常だ。なにもそれは、うどんに限ったことではない。どこで何を食うにしても呑むにしても、おおむねそうである。

といってもあくまでそれは単独行動のときに限っている。複数で動くときは、その他のメンバーに付き合って有名な店に行くこともある。事前にリサーチすることも茶飯事だ。意外かもしれないが、こう見えて協調性には富んでいる方だ。そこまで自己主張は強くない。

で、その先日である。あとで落ち合うことにはなっていたが、ちょうど昼どきは単独行動だったので、いつものようにふらふらと歩いて見つけた店にふらりと入ってうどんを食った。

これが残念なことに、さして美味くなかったのである。いや不味くて食べられないというほどのことはないが、けっして美味いというほどの味ではなかった。とはいえ、それぐらいのことで失望することはない。なんとなれば、その手のことはこれまでにも幾度か体験しているからである。

あれはいつどこでだったろうか。そこらあたりの記憶はあいまいなのだが、酒席で高松市出身の人といっしょになったことがあった。酔いも手伝っていたのだろう。ざっくばらんな男性だったので、ついつい言わなくてもよいことを言ってしまった。

「高松のうどん屋って全部が美味しいって言いますけど、美味くないところもけっこうありますよね?」

「そんなことないですよ」

と気色ばんだ彼を見て、しまったと思ったがあとの祭り。なんとか話題を変えて事なきを得たが、あえてその場で言わなければならなかったことでもなんでもなく、ついつい本音を口に出したために、その場に居合わせた人たちには要らぬ気苦労をさせてしまったと反省した。だが・・・

「ホントにそうなんだがなぁ」

思い出すたびに首をひねってしまうのである。

とはいえ、なかなか美味いうどんに巡り合えない理由がわたし自身にもあることはまちがいない。

よい店には客が多い。並んでいるほどならばなおさらだ。まず当たりの確率は高い。それを承知でいながら、そういう店は意識的に外すのだから、ハズレを引くのも当然と言えば当然だ。

香川といえばうどん。では隣りの高知といえば・・・そう訊けば、多くの人がカツオを挙げるだろう。

高知でカツオのタタキを食ったらカツオの概念そのものが変わる。そのような感じで高知のカツオを褒めてくれた人は、わたしの知人だけでも、これまで数え切れないほどいる。

だが、こう言ってはなんだが、こちらも連れて行く店の吟味はしている。だから、それをもって高知県内すべてがそうであるとその人が判断するような言葉を口に出したとたん、言下にそれを否定する。

「そうとばかりも言えんね。たしかに全体のレベルがかなり高いことにまちがいはないけど、大したことがない店もある」

ということで、至極ありふれた結論。ハズレを引きたくなければ調査をしてからか、それとも土地にくわしい誰かにたずねるかして行くべし。それによってアタリに出会う確率がぐんと高くなることマチガイなし。

だが・・・こと香川のうどんに限ったことではなく、単独行動で飲食する場合のわたしは、たぶんこれからもふらふらと歩いて行ける範囲でふらりと入ることを止めることはないだろう。外見と、ちょいとのぞいた店内の雰囲気で見当をつけ入る店を決める。アタリかハズレか。博打のようなものだ。アタレばよし。ハズレても、おのれの見る目のなさと勘のわるさを笑えばよいだけのこと。すべてをひとりで背負うのだからなんの問題もない。

ああ、無性にうどんが食いたくなった。

もちろん高松のうどんが、である。

 

 

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もうかの星

2022年12月05日 | 食う(もしくは)呑む

 

悪食(あくじき)である、とまでは思わないがどんなものでも食う。食したことがないものを前にすると、まず口に入れてみたいという欲望がわきあがってくるのである。

ちいさいころはその逆だった。かなりの偏食であり、その外見だけで自らの嗜好から外れているにちがいないと判断すれば、けっして手をだすことがなかった。それを思うと、今の自分に隔世の感があるが、もちろんわるいことではない。

だからといって、なんでもかんでも手当たり次第に食うわけではない。現実問題として立ちはだかるのが、かなりの少食であるというおのれの胃袋事情であるからだ。したがって、メニューを見て、あるいはテーブルにならんだ実物を見て、慎重に狙いを定め、ある程度の計画を立てて食う。そうでなければ、せっかくの馳走を口に入れることなく終わってしまうということもよくあるからだ。

そんなわたしが、先日「もうかの星」を食った。

と言っても、なんじゃそりゃ、と訝しがる人も多いのではないか。

わたしもまた、その文字は初見だった。

その居酒屋の「本日のおすすめ」メニューにある「もうかの星」の文字と、その横にちいさく書かれた「気仙沼産」、その下にこれもおなじく小さく書かれた「サメの心臓」という言葉を見てココロが踊らないはずはない。しかしすぐには注文せず、いくつかの安定筋を食ってその店の実力をたしかめ、やおら頼んだ。

結果はどうだったか。

わたしのなかでは、2022年に出会った酒肴のなかで文句なしのベストワンだった。

店員さんの説明では、レバ刺しが法規制で食べられなくなって以降その代替食品として人気が出たのだという。だが、わたしに言わせれば両者は似て非なるもの。といっても、どちらがよくてどちらがわるいというものでもなく、どちらがどちらの補完となるというものでもない。その出自がまったく異なるようにその味も、似ているようでちがうもの。だから個人的な好みから優劣を判断すると、単にたたずまいが似ているというだけで、今は亡き生レバの代わりという不当な扱いを受けてはいるが、味は「もうかの星」の圧勝である。

となるともちろん、合わせるのは宮城の酒。石巻の日高見をチョイスし、おもむろにやる。

まずサメの心臓を一片つまんで口に入れる。してその味は・・・残念ながらそれをここで表現する筆力がわたしにはないので、とにかく旨かったとだけ記しておく。次に、口の中に残るその味の名残りを冷たい酒で洗い流すように酒を呑む。

サメ(の心臓)

(サメの)心臓

サメ(の心臓)

肴を食うべし酒あり呑むべし。肴が酒を活かし酒が肴を際立たせるという、酒呑みにとってはこの上ない好循環に、やめられない止まらない。

とはいえ希少な食べ物だ。気がついたときにはすでに、皿のなかの赤い身はあと一片に。名残り惜しげに口に入れ、酒で流し込んだ。

「もうかの星」、いつかまた再開できる日がくるのであろうか。

 

 

 

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千鳥足

2022年12月01日 | 食う(もしくは)呑む

 

先日、気づいてみれば千鳥足になっている自分に面食らった。

千歳足、といっても右に左にふらりふらり、という類のそれではなく、ほぼまっすぐに歩けないほどのそれである。

面食らったのは、めったなことではそうならないからだ。

若いころならいざ知らず、この十年ほどの記憶では2度あるか3度あるか。がんばって思い起こそうとしても、それ以上は記憶の在庫として残っていない。さらに五年ほど遡っても、はっきりと覚えているのは2回ほどである。たぶん忘れたのではないはずだ。事実、ないのである。

とはいえそれは、酒に強いからそうならないのではなく、そこまで至るような呑み方をしないから、といった方が正確である。

それがだ。

気づいてみれば千鳥足になるまで酔っていた。

翌日思い起こせば、そうなった原因がすぐわかった。

といってもそれは、いくつかの事象や心持ちが複合して起こったことであり、その原因を引き起こしたのが、酒に対する油断であったのはまちがいない。

酒。別名を気狂水と呼ぶ。

ゆえに、くれぐれも用心してかかるべし。

けっしてその酔いに身と心とを委ねきってはならない。

常に飲酒者としての自分を俯瞰する別の自分の存在をキープしておくことが肝要だ。

ゆめゆめ油断するべからず。

肝に銘じた。

(つもり)

 

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郷愁の味

2022年05月20日 | 食う(もしくは)呑む

 

NHKBS1に『コウケンテツの日本100年ゴハン紀行』という番組がある。

といって訳知り顔に書いてはみたが、何度かしか見たことがない。

それを昨夜見たのは、どういう風の吹き回しか。

覚えてないが、とにかく見たのは、「実は食材の宝庫!東京」という回だった。

さほど熱心に見ていたわけではないわたしが、思わず身を乗り出したのは、東京清澄白河町にある老舗ソース屋の秘伝のウスターソースを紹介したくだりだ。冷やしトマトが出たとたん、わたしにはそのあとの展開が容易に想像できた。大仰な前置きのあとに登場しようとするそれは、たぶん、トマト・プラス・ウスターソースなどという単純な組み合わせではない。もうひとつ、視聴者があっと驚くような仕掛けがあるはずだ。

それが、その味と匂いとともに鮮明にイメージできた。よみがえった、といった方が適切だろうか。

その期待を裏切ることなく、冷やしトマトにかけられたのは、砂糖とウスターソースだった。

とお疑いの方のため、再度繰り返す。まず冷やしトマトがあり、オン・砂糖・プラス・ウスターソースである。

なぜそのような妙ちきりんな食べ方をイメージできたか。それは、わたしの親父殿が、晩酌の宝焼酎(たしか35度だったはずだ)の肴に好んで食していたものだったからだ。そして当然、その子であるわたしたちも、ある時期まで当たり前のように食べていたがゆえの、「よみがえった」である。

あれがふつうではないと気づいたのはいつ頃だったろうか。まったく記憶はない。しかし、どうも特別らしいぞと判明したあたりから、どんどんと遠ざかっていったことは確実だ。

甘酸っぱいその味と匂いが、今そこに存在するものであるかのように、味覚と嗅覚をくすぐった。

と同時に、久しぶりに思い浮かべた動く親父の顔は、厳格で、いつも怒っているかのようなそれではなく、なぜかニコニコした顔。思わず、冷蔵庫からトマトを取り出し、砂糖とウスターソースを混ぜたドレッシングをかけ(親父の食し方はあらかじめドレッシングをつくっておくやり方だった)、食ってみようかという衝動にかられたが、すんでのところで止めた。

記憶のなかに閉じ込めておいた方がよいものがある。

あれもまた、そういう類のものではないか。

なんとなくそんな気がしたからだ。

ふるさとは遠きにありて思うもの、である。

 

 

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ハイボールが似合う男

2022年05月17日 | 食う(もしくは)呑む

 

「ハイボールが似合いますよね」

その人はたしかにそう言った。

「そう?」

とだけ答えたのは、その言葉で示そうとした意味がよくわからなかったからである。

わからなければ問えばよい。かんたんなことだ。だが、問い返すのもなんだか野暮なような気がして、ふ~んとばかりに顎を少し上向き加減にするという曖昧きわまりない対応をしただけで、別の話題に切り替えた。

といっても、まったくわるい気はせず、むしろ少しばかりよい気分になったのは、たぶん、それを言った彼の口調とニュアンスが、そう感じさせたからだろう。

翌日の朝、たしかにそう言ったよなと思い起こし、「はて?」と考えた。

「ハイボールが似合う」というのは、いったいどういう人間なのだろうか?

どう考えても、ハイボールというアルコール飲料を飲む姿だけに特徴的な何かがイメージできない。

なんとなれば、第一次ハイボールブームとされる昭和中期ならいざ知らず、令和の御代に居酒屋で呑むハイボールは、そのほとんどがジョッキで出てくる。

ジョッキという容器は、それ自体が自己主張をしており、その中にあるアルコール飲料の呑み方をさえ強制するものがある。それは決して「独り酒場の片隅で」といった呑み方が似合うものではなく、どちらかといえば、ワイワイガヤガヤという酒場の雰囲気こそが相応しいものだ。極論すれば、ジョッキという姿かたちが大事なもので、その中に入っている飲み物はどうでもよろしい。器が主で中身が従。そんな気さえすることがある。呑んでいるのが生ビールかハイボールか、そんなことには大した意味はなく、当然、そこに記されているメーカー名が、NIKKAかSUNTORYかKIRINかSAPPOROか、そこにも大した差異がない。

事程左様に、飲み物と容器と、どちらがその人の雰囲気をあらわすのに、より重要な役割を果たすかといえば、わたしは迷うことなく器だと答える。

たとえばそれが、日本酒が似合うならどうだろう。さらに細分化して、冷や酒なら熱燗なら。

またたとえばそれが、ウィスキーが似合うならどうだろう。さらに細分化して、ロックなら水割りなら、ハイボールなら。

その想像には、それぞれ固有のグラスや陶器の形があり、それがイメージを決めるのに重要な役割を果たしているはずだ。

ん?今、ハイボールと言ったよな?

そうだ。ジョッキで呑むからハイボールがハイボールたり得ないのだ。ハイボールをハイボールとして呑むには、グラスでなければならない。ちょっと大きめでなければいけないが、グラスの縁が厚いのはまたダメだ。グラスの縁はできるだけ薄く。唇が硝子に触れているような感覚を覚えなければ失格だ。

場所は・・・当然カウンターだろう。しかも、入り口から遠いほうの隅っこなら申し分ない。

それらの環境が整って、はじめてハイボールがハイボールとして成り立つのだし、「ハイボールが似合う男」が「ハイボールが似合う男」たり得るのではないか。

 

「ハイボールが似合いますよね」

その言葉の意味を推察するだけで、次の夜、ハイボールが何杯もいけたのは言うまでもない。

 

 

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新型コロナワクチン接種後のアルコール飲料摂取についての一考察

2022年04月21日 | 食う(もしくは)呑む

 

1回目2回目と同様に、今回もほとんど影響がなく迎えた新型コロナウイルスワクチン接種の翌朝。これで都合3度目である。

「ほとんど」というのがどれぐらいなのか、その判断基準は、慢性的にある首の痛みよりマシという程度なのだが、ではその比較対象たる首の痛みがいつもと比べてどのくらいで、そもそもそれと比較することが正当かどうかという問題も残しつつ、まことにグレーな表現ではあるが、本人的には「ほとんど」な朝であったことはまちがいない。

きのう、わたしの数分前に接種した会社の若者は、その2時間後ぐらいには「肩が痛くてたまらない」といい、おなじく同日同会場で接種したわが妻も、夕餉の最中に、肩が痛くなってきたからと居間へ向かったというのに、わたしはといえばさしたる自覚症状もなく、「ホントに効いてるのかね」などと若干の疑念を抱きつつも、当然のように晩酌をした。

コロナワクチン接種のあとの飲酒に関しては、さまざまな説がある。そして、どうやらその担当者によって見解が異なっており、聞きもせぬのに「控えてください」と告げられたもの、質問をして「少々なら」と返されたもの、また「常識の範囲なら問題ない」と言われたもの、これもまたさまざまだ。

わたしはと言えば、そこにいた係のものが顔見知りだったのをよいことに、なにも言わずなにも聞かずだった過去2回とはちがい、今回は少しおどけてたずねてみた。

「呑んでかまん?」

答えは「ほどほどなら」。

「よっしゃ」とココロの内で快哉を叫んだ。何より「ほどほど」というその言い回しがわたしの気分に絶妙にマッチしており、ココロのなかで反芻したほどである。

「ほどほど」。「少々」でも「ちょっと」でもなく「ほどほど」。度を越さない程度。適度。これをして「ほどほど」と呼ぶ。いったいこれ以上の言葉があろうか。

帰社後、その気分を数名がいる部屋で披瀝すると、ある若者が笑いながらこう言った。

「そもそも、薬を飲んだらアルコールはダメなんじゃないんですか?」

あまりにも常識的かつストレートな発言に苦笑しつつも、そこは年の功だ。おじさん少しもあわてない。

「オレは今まで注射や薬で酒をやめたことないよ」

平然と言い放つと、今度は彼の方が苦笑いをして黙った。

そう、さすがのわたしとて「まったくない」ことはなく、若干誇張した表現ではある。だが、基本的にはそのとおりだ。

典型的なのは、妻といっしょになったころから2~3年のあいだ、年に数回わたしを苦しめた「親知らず」の痛みに苦しんでいた時のことだ。痛くて食えないときも、「栄養」だとうそぶいて呑んでいた。冷奴と固く焼かない玉子焼きを肴に呑んでいた。アルコールが効いてくると痛みがやわらいでくる。そうなるまで呑んでいた。すると、その翌日、いやその夜中になるとどうなるか。ご想像のとおりである。しかし、いつもいつも、性懲りもなく呑んでいた。

今になってあらためて考えれば、単なるバカである。バカ以外のなにものでもない。いや、あらためて考えなくともバカである。バカ以外のなにものでもない。

そんな昔話を思い起こしつつ、「ほどほど」に酒を呑む新型コロナウイルスワクチン接種後の夜。

ワクチン注射を打ったあとのアルコール飲料摂取は、くれぐれも「ほどほど」に。

 

 

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とりあえず生

2022年03月30日 | 食う(もしくは)呑む

 

最近よくあるのだが、ビールを飲んでいると、おととし鬼籍に入った知人が何気なく言ったことばを思い出すのだ。

あれは、そのひとと知り合って数年してからだったろうか。東京在住の彼が、わが村を訪れるのは年中行事で、皆があつまる宴の前夜、ごく数名で夕餉を共にするのもまた、いつものことだった。その夜もまた、例によって例のごとくだ。

そして、「とりあえず生(ビール)」というのが、おじさんたちにとって習い性。よいもわるいもない。家飲みでないかぎり、とりあえずは「生」なのだ。

その場もまた、誰もなんの疑いもなく、「とりあえず」をオーダーした。

すると、彼が首を傾げてこう言うのだ。

「縁が厚いグラスが好きじゃないんですよね」

「できるんだったら薄いグラスで飲みたい」

めんどくさいことを言う人だな。そう思ったが、仮にも彼は客人格だ。もちろん、その本音を口に出すことはなかった。

あれから何年が経っただろう。どこか物憂げに、そう言った彼のことばを、最近よく思い出すのだ。

そして、あのとき感じた思いとは裏腹に、今のわたしは、そのときの彼に全面的に同意するひととなった。わたしもまた、縁が厚いグラスでビールを飲むことが好きではなくなったのだ。ビールはできるなことならば薄いグラスで飲みたい。ジョッキに代表される縁が厚いグラスで飲むよりも、薄いグラスで飲む方が圧倒的に好ましい。しかも、ちいさいやつだ。もしも生ビールの味がジョッキでしか味わえないなら、「とりあえず生」を飲む必要はないと言っていい。

とはいえ、宴席でそれを主張したことはない。ごくごく内輪の飲み会ですら口に出したことはない。つまり、その好みは、未だ誰にも伝えたことがなく、ずっと胸にしまっておいたものなのである。

なぜか。

それを聞いた多くの人は、かつてのわたしと同様に、「めんどくさいやつだな」と思うのがわかっているからだ。

ビールは薄いグラスで。しかもちいさいグラスで。少しずつ、だがちびちびではなく、少量ではあるけれどグイッと飲む。

とはいえ、「とりあえず生」。よほどのことがなければ、たぶん、そう言うんだろうな。

 

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