答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

味噌汁の詩

2022年03月15日 | 食う(もしくは)呑む

 

近ごろ味噌汁のある朝がしみるのだ。

もちろんそれは、わが家の味噌汁であって、つまり妻がつくる味噌汁がしみるのである。

わが家のそれが薄味になったのは、それほど前からのことではないが数年は経つ。発案者はわたしだ。高血圧他もろもろの対策として、食すもの全体を薄味とするようにお願いした。味噌汁はその代表的なものだ。

しかし、習い性とはやっかいなもので、幼少のころより数十年、味噌汁とはしょっぱいものだという思い込みにとらわれている妻もわたしも、どちらがつくるにしてもどちらが食べるにしても、はじめのころはなかなか上手くいかなかった。しばらく思ようにならなかった。それが近ごろでは、わたしはともかく、妻がつくるそれは、なかなかによい塩梅となった。

薄味で具沢山の味噌汁、それがしみるのだ。

「味噌汁を湯に溶けば、味噌汁です」

という、一聴すると常識はずれのことを言ったのは土井善晴で、氏によると、それは例えばこういうようなことだそうだ。

******

このごろは、ブロッコリーとか冬瓜とか湯がきますでしょ。冬瓜を茹でたら、茹で汁にちょっととろみがついてたり。ブロッコリーの茹で汁はちょっと緑色になってたりするんです。そこにそのまま味噌を溶いたら、ブロッコリーの香りがある味噌汁で、ブロッコリーがかたまりで入っている。茹で汁にそのまま味噌を溶くことで、冬瓜の味噌汁ができる。

(『料理と利他』土井善晴、中島岳志、P.33)

******

同書で氏は、さらに「過激」なことを述べている。

いわく、

「元気がないときは、お湯に味噌を溶いて飲む、またはお茶に味噌を溶いた味噌茶を飲む」

数年前なら、眉に唾つけそんなことはあれへんやろと思っだろうわたしが、すんなりとその意見を聞き入れ、実行し、なおかつそれに得心したのは、なんといっても薄味の味噌汁に慣れたというベースがあったからだろう。そうでなければたぶん、興味本位で試したはよかったが、こんなもん食えたもんじゃあないわいなとなったにちがいない。いやホント、特に少しばかり飲り過ぎた翌朝などは、お湯に溶いただけの味噌汁が、じつにやさしく五臓六腑にしみわたる。

考えてみれば、茶にしてもコーヒーにしても、別にその他のダシを加えるわけではない。だったら他になんにも入れない味噌だけを湯に溶いた飲み物があってもいい。どころか、そもそも味噌自体が長い工程を経てつくられた複雑な味をもっている食べ物なのだ。その味が、わるかろうはずはない。もし、不味いと感じるとしたら、それはたぶん思い込みであり、また、濃い味に慣れたしまったがゆえの舌の鈍化ではないだろうか。

そんなわたしの味噌汁に対しての基礎をつくったのは、もちろん母のつくるそれである。それを食する主である父ときたら、これがまたひどかった。やれ今日は辛い、やれ今日は薄い、オマエというものは、なぜ毎日日にち同じ塩梅でつくれないのかと、ずっと文句を言いつづけていたような記憶しか残っていない。

ところが、この歳になり、自分もまた料理をするようになって数十年が経ってわかるのは、味噌汁というものの塩梅が、至極むずかしいということだ。たとえば同じ分量の湯に対して、同じ分量の味噌を溶く、これは誰でもできることだ。しかし、味噌汁には具材が入る。その具材が含有する水分は、それぞれに異なっている。また、同一の具材でもそのカットの仕方によってもそれは変わってくる。複数の具材が入ると、そこにはそれぞれの相互関係というものが出てきて、互いが影響し合うので一筋縄にはいかない。水分だけではない。甘味や旨味などもそうだ。

一口に薄いだの濃いだのと言うが、その感覚はそれほど単純なものではなく、甘味や旨味がそれに与える影響も少なからずあるはずだ。

 

あらあら、美食家でもあるまいに、そして、それほど上等な舌を持ち合わせているわけでもないのに、つまり、「食」に対して語ることができる資格はほとんどないにもかかわらず、ついついエラそうなことを書いてしまった。

それもこれも、妻がつくる味噌汁が薄味で具沢山になったからだ。

ほ〜、こうきたらこうなるのか。

そんなことなどを考えながら食すものだから、なおさらなのかもしれない。

そんなこんなで、近ごろ味噌汁のある朝がしみるのである。

 

 

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令和四年壬寅二月五日に立春朝搾り司牡丹純米吟醸生原酒を呑んだこと

2022年02月07日 | 食う(もしくは)呑む

 

「立春朝搾り」という酒がある。

 

******

節分の夜から一晩中、もろみを搾り続け、立春の早朝に絞りあがったばかりの生原酒を、その日の夜に皆さまのお手元にお届けします。

朝できたばかりのお酒をその夜に飲めるのだから、このうえなく新鮮。もちろんいっさいの火入れをしない生酒で、原酒のままお届けします。生まれたてのお酒そのままの、酒蔵でしか味わえないフルーティな香気と、躍動感あふれる味わいを居ながらにしてお楽しみいただけます。

立春の日の朝に産声をあがたばかりのお酒で、生まれたての春を祝いませんか。

(『日本名門酒会』より)

******

 

つくっているのは全国43蔵。わが高知県では司牡丹酒造ただひとつだ。まして、「立春朝搾り参加加盟店」の酒屋が立春の早朝、自ら蔵に運んで予約注文した分だけを持ち帰って売るという限定品。左党なら一度は飲ってみたいその酒をわたしがはじめて呑んだのは、できあがった翌日。5日の夜である。

立春が4日、節分がその前日3日。立春は冬と春を分ける節目の日。つまり春がはじまる日。その前日である節分は冬が終わる日。どちらにしてもめでたい日であることに変わりはなく、近ごろでは、「恵方を向いて願い事を思い浮かべながら太巻き寿司を無言で丸かじりすれば願いが叶う」なんて、かつては関西地方のある地域限定の風習であったものが、全国的な広がりを見せているという、つまり、なんだかんだ言ってもめでたい日。

一日ぐらいのちがいでその効果に変わりがあろうはずもなかろうと、願掛けをしながら呑んでみた。

TV画面のなかの女性の8年越しの「願」が成就せよと願いを込めて。

もちろん無言だ。

結果は・・・

 

 

沙羅ちゃん

残念でした。

でも

立派でした。

これからも応援します。

 

がんばれ!

 

 

 

 

その夜、この酒がとまらなかったのは言うまでもない。

 

 

 

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悪魔の誘惑

2022年01月04日 | 食う(もしくは)呑む

 

スーパーや量販店のレジ近くに陳列されている商品がなぜそこにあるか。そこには、他のスペースに陳列される商品よりいっそうあきらかな売る側の意図がある。その意図とはどういったものか。小売レジ横スペースは「ついで買いの宝庫」』というWeb記事から引用してみよう。

******

このレジ横の陳列棚、買ってしまうポイントは、
(1)ちょうどサイフを開けるタイミングだということ
(2)レジ待ちで、お客さまがちょっと手持ち無沙汰になっていること
にあります。

お客さまがサイフを開けているときは、購買意欲が高まっている瞬間。いつもは固いサイフの紐(お客さまにとってはココロの紐)もゆるんでいます。だから、本当は買う予定がなかったガムやお菓子も、それ自体は値段も高くないことから「あとでおやつに食べよう」と言い訳(?)をするには都合よく、つい買ってしまうのです。

しかも、レジは待たされることも多い。それがどんなに短い時間でも、待つことが好きな人などいませんから、皆、ちょっとした時間でも暇つぶしをしようとします。そこで、POPや商品をレジ横に目に入るように置いておくと、つい読んで(見て)しまい、「あっ、ゴミ袋がなくなりそうだったかも...」と思い出してしまったり、ちょうどココロの紐がゆるんでいるときなので、「買っておくか...」とその商品をカゴに入れてしまったりするのです。

******

昨年末、アルコール類の買い出しにと出向いたある酒量販店もその例外ではなかった。

「どうして日本人というものは、正月ともいうと酒を呑まなければ気が済まないのだろうか」

などと、自分のことはすっかり棚に上げ、うんざりした気分でレジに並ぶわたしの目に止まったのは、レジ横の棚に陳列されている缶ビール。そこには真っ赤な胴体に白く、「悪魔のビール」という文字が踊っていた。

一瞬横目で確認し、前を向き直したそのすぐあと、ふたたびそれに目をやると、猛烈な購買意欲がわいてきた。

「いやいや別にいらんし」

という別のわたしが諌める言葉に

「そうやな。そのとおり」

と素直にしたがいレジ待ちをつづけることしばし。

実際にはそれほどの時間でもなかったのだろうが、そもそもが、たとえわずかの人数でもレジで並ぶという行為自体に耐性がないわたしのことだ、イラレてキョロキョロあたりを見渡すと、どうしてもその赤い物体が目に入る。

「正月だしな」

脳内にわいて出たまったく意味をなさない言葉に納得し、「赤い悪魔」の誘いに乗ることにした。

「あぁあ、ひっかかった」

いっしょに並んでいた妻が揶揄する声に

「ぜんぶ承知でひっかかってやったんだよ」

そう嘯いてみたが、心のうちは敗北感でいっぱいだ。

 

さてその夜、満を持して口にしたくだんの「悪魔」の味はどうだったか。

もとより、味なぞというものは千差万別人それぞれ、口に合う合わないは、好みが分かれるところではあるが、少なくともわたしにとっては、「普段は怖い悪魔でも美味しすぎてついつい飲み過ぎてしまう」というキャッチコピーとは正反対のものだった。

考えてみれば、黙っていても売れるようなものであれば、なにも手練手管を使う必要はない。

 

そんなわたしの心の内を見透かすように

「どう?」

妻がたずねた。

「うん、まあまあ」

そう言って、「悪魔」をぐびぐびと飲み干したあと、プハーとやったのはご愛嬌である。

 

 

 

 

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「豊の梅試験醸造純米おり酒」を呑む

2021年12月18日 | 食う(もしくは)呑む

 

先日、わが家を訪れた年少の知人と一杯やった。

翌朝起きてみるとアタマが痛い。結局、昼過ぎまでそれはつづいたのだが、ふたりで500ミリリットルの缶ビールをきっかり1ダースしか空けてないのだから、一人あたりにすると6本、つまり3リットルの酒量にしか過ぎない。

いやはや弱くなったものだと、少しばかり情けないがそれが現実だ。嘆いてみても仕方がない。

と、そんなわたしが晩餉で呑む量は、焼酎ならソーダ割りで1合、日本酒なら1合半というのが近ごろの相場である。種類はその時々の酒肴によって変わる。酒肴、といってもわたしの場合、いかにも酒の肴というものではなく「おかず」、惣菜、いわゆる副食の類だ。わたしの場合、夜は原則として他人さまが主食とする米を食わず、それに代わってあるのがアルコールなのだから、それがごくごく当たり前の晩餉の風景なのである。

なにを呑むか、についての基準はもうひとつ。その日の気分や体調にもよる。日本酒を呑もうかなどと思う晩は、概してそれが良好なときだ。近ごろのわたしにとって日本酒は、やる気でかからないと飲めない酒といってもよい。

そんなわたしの昨夜の酒は、香南市赤岡の高木酒造作「豊の梅試験醸造純米おり酒」、高知の早場米と白麹を使用した純米新酒だ。焼酎用に使われる白麹で仕込むことで、白麹特有のクエン酸によるさわやかな酸味が特長の数量限定品である。といっても、そんな敏感な舌の持ち主であるはずもなく、「白麹特有のクエン酸によるさわやかな酸味」というのは高木酒造のホームページを見て知ったに過ぎない。当の本人は、こと酒に関して言えば「うまい」か「イマイチ」か(マズイがないのはご愛嬌)、という程度のボキャブラリーしか持ち合わせていないのだもの、それもまた致し方ない。

というような感じで、「豊の梅試験醸造純米おり酒」を呑む。

感想はといえば、「あーうまい」だ。

おかげでついつい過ぎてしまった。

「過ぎた」といっても1合半が2合(ほど)(たぶん)になっただけなのだから、どうということはない。

 

 

 

 

ふとラベルを見ると、

QRコードの下に@toyonoume。

「Instagramにて#豊能梅とタグをつけて

ぜひ、感想ください。」

と書いてあった。

 

そうか、とうなずく。

これもまた浮世の義理だ。

指令にしたがいすぐさま実行に移した。

ふだんは「花」と「孫」しか載せない個人アカウントにである。

その感想が「#んーまっ」だったのは、けっしてわたしの語彙不足ゆえではない(ということにしておこう)。

 

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まんこい

2021年12月15日 | 食う(もしくは)呑む

 

 

 

奄美の酒「まんこい」。

「まんこい」とは手招きをする行為を指し、「招き入れる」「迎え入れる」「千客万来」などの意味があるという。

6月に彼の地へ行った際に数多く呑んだ黒糖焼酎のなかで、わたしがもっとも気に入ったものだ。

以来、わたしの晩餉の友は、多くの場合、ソーダ割りの「まんこい」である。

 

90ミリリットルの焼酎を180ミリリットルの炭酸水で割ったものを2杯。

これで十分酔えるのだから、わたしもかわいくなったものである。

と・・

 

 

 

一升瓶の底に微妙に残ってしまった。

 

さて・・

呑むべきか

呑まざるべきか。

瓶の底の液体が

まんこい、まんこい、とわたしを誘惑する。

少しだけ考えた。

そして・・

結局呑まずにおいた。

 

ほぉーずいぶん賢くなったじゃないか。

自分で自分を褒めてやった。

 

「まんこい」よ。

その誘いにはのらない。

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飲酒考

2021年10月01日 | 食う(もしくは)呑む

よく「酒は訓練」だという。

そういうわたしが、その言葉を何度口にしたかは数知れない。

一般的にいうとこの場合に使う訓練という言葉は、慣れろ、慣れて鍛えろというような意味だろう。そしてそれは、かなりの部分でまちがってはいない。だが、単に慣れることで鍛えられるかというと、そうとばかりは言えない。

ではなにをしなければならないか。

いわゆる「飲んでも飲まれるな」。大切なのは、酔いに身を任せないという意識をもちながら酒を呑むことを繰り返す、いわゆるアタマとココロのトレーニングである。本気で取り組み、トレーニングを繰り返せば、体質的にまったく受けつけない人でないかぎり、その効果は必ず発現するものだ。

と、ついついエラソウなことを書いてはみたが、酔ってわけがわからなくなってしまったことがないではない。いや、その表現は生ぬるい。書き直す。酔ってわけがわからなくなったことは数多くある。したがって、そんなわたしを目撃したひとに言わせれば、どの口が言うかでしかない。

しかし、自分で言うのもなんなのだが、その割合はかなり少ない。まして近ごろでは、一回の絶対飲酒量が減ったこともあってなおさらだ。母数が多いので分子の数の多さがそれで吸収されているのだよ、と言われればそれまでだが、わたし的に言うとそれは、四十数年におよぶ訓練の賜物以外のなにものでもない。

とかナントカ能書きをたれたが、「酒を呑む」という行為は多かれ少なかれ「酔う」という結果をともなっている。この動かしようがない真実を忘れてはならない。酒は「キチガイ水」。これが基本であり大前提である。(アタマの芯までは)酔わないぞと自らに言い聞かせ、自らを律する訓練を繰り返しても、アルコールが入れば素面のときとは言動が異なってくるのは避けようがない現実だ。

つまり、ちょっぴりでも呑んだが最後、アナタもわたしも酔っている。それが泥酔であるか酩酊であるか、それともほろ酔いであるかによって酔態は大きく変わるにしても、基本的にそれは「酔い」のパターンが異なるだけのことであり、「酔っている」という範疇を出ることはない。素面とは次元がちがうのである。

それを理解することなしに、「オレは酔わない(酔ってない)」などとうそぶく輩は、「酒」というもの、あるいは「酒を呑む」ということの本質を理解していないと言わざるを得ない。

だからお願いだ。どこかでわたしが「オレは酔わない(酔ってない)」と言っているのを見かけたら、「まだまだ訓練が足りないな」と笑って諭してほしい。

ことわたし自身に限っていえば、もう訓練ではどうにもならないのだけれど。

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「呑む」の新形態

2021年06月23日 | 食う(もしくは)呑む

スーパーゼネコン勤務の某氏と、地場中小建設業経営者の某氏と、そしてわたし。それを固定メンバーとして毎回異なるゲストを招き、不定期ではあるがひと月に一回ほどオンラインで呑み会をやっている。

昨夜のゲストはコンサルタント会社を経営するAさん。テーマは「”土木の暗黙知”はいかにして共有していけばよいのか~SECIモデルとナレッジメント体系から探る」だった。

かと思えばその前の回は、某県土木部に勤務するBさんを招いて「道元、ウィトゲンシュタイン、土木」を三題噺で(といっても即興ではなく入念な準備をしてくれていたんですが)。

両者とも、わたしの思いつきにもとづいた無茶ぶりに対して、まことにもって真摯な態度かつ親切な解説で応えてくれ、双方ともに難解な話ではあるけれど、終わってみればたのしかったねという呑み会となった。

といっても、そのオンライン呑み会の毎回毎回にテーマがあるわけでもなく、また、毎度毎度哲学や経営学について話すわけでもなく、ただただグダグダ、飲んで呑んで飲まれて呑んでに終始する人もいて、はたまた日本を代表するトップアスリートがいれば、ただ今絶賛売り出し中の芸術家もいて、出版社経営者もいれば(駆け出しの)土木現場技術者もいる。まことにもって奇妙キテレツ多士済々。それがどうしてゆかいで愉しい呑み会となるかをひと言で表せば、「無邪気な関係」に起因するゆえであり、そして、もうひとつ重要なポイントは、適度な距離感なのだろう。

(他者と)「呑む」。

時と場合によっては、そしてその場にのぞむ人によっては、疎まれることも多いこの行為がなぜ貴重であるかといえば、距離感をなくすことであり、その上で、くんずほぐれつとなって半分アタマをぶっ壊して語る本音と本音が、たとえ翌日に覚えていないことがあっても、なんとはなしに人と人とを近づけるからだとわたしは信じてきた。

だが、遅まきながらそうでもないことがあることに気づいた。オンライン呑み会という名の、適度な距離感を保ちながらの「呑む」を経験したからだ。

言わずもがなであるが、「適度な距離感」とは空間を共有していないことによってできるものだ。その副次的な効果として、そこでは、呑みながら勉強会ができる。

一方、その場に参加する人たちの息づかいやら酒場の匂いやらがない混ぜになったフェイス・ツー・フェイスの呑み会では、「メモをする」など、してはならない行為である。少なくともわたしのなかではご法度だった。それゆえに、大事な大事なその対話を「よい話だったよなぁ」と思い返すのはよいが、翌日になって残っているのはその雰囲気だけ。要諦や詳細は胡散霧消してしまったということが数かぞえきれなくある。

それはそれでよいのだと思っていた。

だが、その一方で、もったいないなと感じていた自分もいた。

どちらがよくてどちらがわるいということを言いたいのではない。

いわゆるアフターコロナが到来したその時に、わたしにとっての「呑む」が、それ以前のままであるか、も少しバリエーションをもったものになっているのか。

こうだという断言も、たぶんこうだろうという推測もできないが、「コロナ禍」という災厄のなか、偶然にも、「呑む」という行為において、ちがう選択肢を得たという事実が、なんとはなしに新鮮でありがたい。

とかナントカ思いつつ、今宵もまた、ちがう人たちと別の「呑み」をやったのであるが。

 

 

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笑謝多飲者

2021年04月26日 | 食う(もしくは)呑む

 

きのう、春の風と心地よい陽ざしにいざなわれ、ついつい『春日酔起言志』のような気分に浸りたいなどと書いたのはいいが、よくよく考えてみれば、もはや李白の詩のような大酒呑みの世界には戻ろうと思っても戻ることができない。いや、よくよく考えなくとも自明の理である。

悲しいかな、それほどわたしの酒量は落ちてしまった。

だが、それが悲しいことだ感じるところがふつうではなく、それほどよくないことでもないのは、皆さんご存知のとおり。貝原益軒先生もこうおっしゃっている。

******

酒を飲むには、各人によって、それぞれの適量がある。少し飲めば益が多く、多く飲めば損失が多い。生来慎み深くて温厚な人も、多飲を好めば、欲深く欲しがるようになって見苦しく、平常心を失い、言行が乱れてしまう。言行ともども狂ったようになり、日頃とは似ても似つかぬものとなる。身を省みて、慎まなければならない。若いうちから早く反省して、自分を戒め、父兄も早く子弟を戒めるべきである。長期間見過ごしていると、習慣となってしまう。癖になってしまえば、生涯改まらないものだ。生まれつきあまり飲まない人は、一~二杯飲めば、酔って心地よく楽しむことができる。多く飲む人と、その楽しみは同じはずである。酒を多く飲めば害が多い。

(『養生訓』巻四45、大酒の戒め)

******

一般的には、ごくごくあたりまえの理屈である。

白楽天の詩にいわく

******

一盃 復(ま)た両盃

多くとも 三四を過ぎず

便(すなわ)ち 心中の適(てき)を得て

尽(ことごと)く 身外の事を忘る 

更に復(ま)た 一盃を強(し)うれば

陶然(とうぜん)として 万累(ばんるい)を遣(わす)る

一飮(いちいん)に一石(いっせき)なる者は

徒(いたず)らに 多きを以って貴(とうと)しと為す

其の酩酊の時に及んでは

我と亦(ま)た異なる無し

笑いて謝す 多く飲む者の

酒銭(しゅせん) 徒(いたず)らに自(みずか)ら費(ついや)すを

******

 

「一度に大量に呑む者は、量の多さに値打ちがあると自慢するが、酔っぱらってよい気分になれば、多くとも三、四杯を超えることがない私と、なんら異なることはない。大酒呑みは、笑って御免こうむりたい。」

 

そろそろわたしもこういう境地・・・

になればよいのだが、益軒先生がおっしゃるように習い性というやつはどうしようもないもので、落ちた酒量を認識してはいても、ちょっと調子がよいと見るや、すぐに全盛期のような感覚で呑もうとするから始末に負えない。

過ぎたるは及ばざるが如し。

はて、いつになったらそうなるのやら。

 

 

 

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春日

2021年04月26日 | 食う(もしくは)呑む

 

 

 

よい天気だ。

昨夜の酒に泳ぎながら、それにしてもあの禁酒法然とした緊急事態宣言はなんとしたことなのだろうかと、庭前の風景をながめ思う朝(ってもう昼餉の時間が近いんですけど)。

夕刻に予定されている太鼓の練習さえなければ、縁側に寝っころがり「春日酔起言志」のようにグダグダと呑みたいところだ。

 

世に処(お)ること 大夢(たいむ)の若(ごと)し

胡為(なんす)れぞ 其の生を労するや

所以(ゆえ)に終日酔い

頽然(たいぜん)として前楹(ぜんえい)に臥す

覚めて来たって庭前を眄(なが)むれば

一鳥(いっちょう)花間(かかん)に鳴く

借問(しゃくもん)す 此れ何(いず)れの時ぞ

春風 流鶯(りゅうおう)に語る

之に感じて歎息(たんそく)せんと欲す

酒に対して還(ま)た自ら傾く

浩歌(こうか)して明月を待ち

曲 尽きて己(すで)に情を忘る

(李白『春日酔起言志』)

 

おたのしみは、もう一週間はたらいたあとの、長の休みまでとっておこうか。

 

 

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里いも

2021年02月18日 | 食う(もしくは)呑む

「里いもあるけど、食べる?」

もう少しだけの酒肴を所望するわたしに妻がそう答えた。

「お、えいねぇ。みっつよっつぐらいちょうだい」

食卓にだされた里いもの煮っころがしは案に違えて色が薄い。

ひとくち口にする。

「お、フクイさんの味や」

「そう、真似した」

醤油は使わずに塩と砂糖で煮る里いもをよくつくっていたのは祖母である。彼女とわたしたち家族が同居したのは、さかのぼること30年前の2年余りのあいだだった。小さいころ、その味のあまりの素朴さが嫌でたまらなかったわたしは、長じてからも同様で、同居していたあいだもほとんど手をつけなかったはずだ。一方、妻は、その飾り気ない味が好きだった。

ことほど左様に、わたしたちふたりの嗜好はちがう。食品には限らない。

「もう、なにからなにまでわたしらのやることはちがうもんね」

連れ添って35年以上が過ぎた今も、妻はときどきそうこぼすが、わたしは意に介さない。まったく異なる環境で生まれ育った者の性格や考え方が一致すると考えるほうが不自然なのだ。ちがってあたりまえだ。肝心なのは価値観をすり合わせていきながら折り合いをつけていくことである。

とはいいつつも、そこはそれ、よくしたもので、長いあいだいっしょにいると、その「すり合わせ」と「折り合い」の繰り返しが互いの平衡を生みだし、いつのまにやら気づかぬうちにどちらかがどちらかに歩み寄っていたということがある。

塩と砂糖だけで煮た里いもしかり。

「うまいな」

煮っころがしをひとつ口に入れ、そんなことを考えた。

 

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