近ごろ味噌汁のある朝がしみるのだ。
もちろんそれは、わが家の味噌汁であって、つまり妻がつくる味噌汁がしみるのである。
わが家のそれが薄味になったのは、それほど前からのことではないが数年は経つ。発案者はわたしだ。高血圧他もろもろの対策として、食すもの全体を薄味とするようにお願いした。味噌汁はその代表的なものだ。
しかし、習い性とはやっかいなもので、幼少のころより数十年、味噌汁とはしょっぱいものだという思い込みにとらわれている妻もわたしも、どちらがつくるにしてもどちらが食べるにしても、はじめのころはなかなか上手くいかなかった。しばらく思ようにならなかった。それが近ごろでは、わたしはともかく、妻がつくるそれは、なかなかによい塩梅となった。
薄味で具沢山の味噌汁、それがしみるのだ。
「味噌汁を湯に溶けば、味噌汁です」
という、一聴すると常識はずれのことを言ったのは土井善晴で、氏によると、それは例えばこういうようなことだそうだ。
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このごろは、ブロッコリーとか冬瓜とか湯がきますでしょ。冬瓜を茹でたら、茹で汁にちょっととろみがついてたり。ブロッコリーの茹で汁はちょっと緑色になってたりするんです。そこにそのまま味噌を溶いたら、ブロッコリーの香りがある味噌汁で、ブロッコリーがかたまりで入っている。茹で汁にそのまま味噌を溶くことで、冬瓜の味噌汁ができる。
(『料理と利他』土井善晴、中島岳志、P.33)
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同書で氏は、さらに「過激」なことを述べている。
いわく、
「元気がないときは、お湯に味噌を溶いて飲む、またはお茶に味噌を溶いた味噌茶を飲む」
数年前なら、眉に唾つけそんなことはあれへんやろと思っだろうわたしが、すんなりとその意見を聞き入れ、実行し、なおかつそれに得心したのは、なんといっても薄味の味噌汁に慣れたというベースがあったからだろう。そうでなければたぶん、興味本位で試したはよかったが、こんなもん食えたもんじゃあないわいなとなったにちがいない。いやホント、特に少しばかり飲り過ぎた翌朝などは、お湯に溶いただけの味噌汁が、じつにやさしく五臓六腑にしみわたる。
考えてみれば、茶にしてもコーヒーにしても、別にその他のダシを加えるわけではない。だったら他になんにも入れない味噌だけを湯に溶いた飲み物があってもいい。どころか、そもそも味噌自体が長い工程を経てつくられた複雑な味をもっている食べ物なのだ。その味が、わるかろうはずはない。もし、不味いと感じるとしたら、それはたぶん思い込みであり、また、濃い味に慣れたしまったがゆえの舌の鈍化ではないだろうか。
そんなわたしの味噌汁に対しての基礎をつくったのは、もちろん母のつくるそれである。それを食する主である父ときたら、これがまたひどかった。やれ今日は辛い、やれ今日は薄い、オマエというものは、なぜ毎日日にち同じ塩梅でつくれないのかと、ずっと文句を言いつづけていたような記憶しか残っていない。
ところが、この歳になり、自分もまた料理をするようになって数十年が経ってわかるのは、味噌汁というものの塩梅が、至極むずかしいということだ。たとえば同じ分量の湯に対して、同じ分量の味噌を溶く、これは誰でもできることだ。しかし、味噌汁には具材が入る。その具材が含有する水分は、それぞれに異なっている。また、同一の具材でもそのカットの仕方によってもそれは変わってくる。複数の具材が入ると、そこにはそれぞれの相互関係というものが出てきて、互いが影響し合うので一筋縄にはいかない。水分だけではない。甘味や旨味などもそうだ。
一口に薄いだの濃いだのと言うが、その感覚はそれほど単純なものではなく、甘味や旨味がそれに与える影響も少なからずあるはずだ。
あらあら、美食家でもあるまいに、そして、それほど上等な舌を持ち合わせているわけでもないのに、つまり、「食」に対して語ることができる資格はほとんどないにもかかわらず、ついついエラそうなことを書いてしまった。
それもこれも、妻がつくる味噌汁が薄味で具沢山になったからだ。
ほ〜、こうきたらこうなるのか。
そんなことなどを考えながら食すものだから、なおさらなのかもしれない。
そんなこんなで、近ごろ味噌汁のある朝がしみるのである。