2015年 5月1日に 父は なんとも あっけなく亡くなりました
その数年前から 認知症の前哨戦が始まっていた 母です
あの時に すぐに病院に連れて行って対処していたら・・・と
今でも ふと 思います
入口につま先でも入ってしまったら 進行は止められないけど
その前なら なんとかなる 可能性はあるようです
なので 告げたい!
”あれっ!”と 思った時が吉日ですって・・・
実家の母は とても 厳しい人でした
厳しい?のには 我儘もあり 同じく 超自己中心もありました
自分の思い通りにならない・・・
自分の目幅から1ミリでもはみ出していることは”悪”でした
姉はとても 従順で 母のめんこでしたし
兄は大事な跡取り息子として 祖母も母も溺愛してました
その下に生まれた私は 父こそ溺愛してくれましたが
大人しく 口数も少なく 引っ込み思案で
母から 言わせると
”なにを考えているかわからない子”
優秀で明るい 姉と比べられて 良くぐれなかったと
自分でも思います
小さい頃から 理不尽なことは認められない子で
どんなに 叱られても 自分が悪くないと思う事には
謝りませんでした
謝らない・・・叩かれても えーーん!と泣かない・・・
”ほんと めんこくない子だこと!!”って 良く叱られてました
そして 悔しくて 悔しくて 声を出さずに 母をにらみつけて ぽろぽろを涙を流す私に
”それが 可愛くない!”って・・・
今では 懐かしい思い出です
高校卒業直前に 両親の陰謀的な私の将来の話を
夜中にトイレに起きた時に 小耳に挟んでしまい
それこそ ”やばい!”と 思った私は 翌日 高校の就職担当の先生の所に行き
親に 一つの相談もせずに 就職先を決め 書類を提出してもらいました
そのことを 両親に話すと 2人とも驚き
母は ぽかん状態・・・
父は
”そんなに 慌てて働かなくても 好きな洋裁学校にでも行けば?”って 言ってくれましたが
あの夜の話で
”2年位 洋裁学校に行かせてその後 郵便局で誰か探せば良いよね?”でしたので
丁重にお断りして めでたく就職いたしました
これが 母からの脱却の第一歩!
わずか 8年弱の銀行員生活でしたが 思い切り
母の喜ばない事を‥私がしたいことをして 過ごせました
当然 もの凄い 罵詈雑言は吐かれたことも
父からの 優しい説得もありましたが そこは 私の人生だと・・・
今ではどうでも良い事ですが 少ないお給料の手取りで半分以上・・・
ボーナスも半分以上 上納してました
”どうせ あんたは貯められないから・・・”って(苦笑)
勤め先の決まりで 高卒女子は自宅からの 通勤のみの採用でしたので 一人暮らしも不可でしたし・・・
そして 今の主人に巡り合い 結婚へと・・・
ここで 私を助けてくれたのが 今年40になる 息子君(笑)
私のお腹に じゃじゃーーんと 舞い降りてきてくれたんです
そのおかげで 結納 結婚と とんとん拍子で進みました
結納の時点で 結婚式の日取りを決める際 向うのお母様が
”田んぼや畑のこともあるから なるべく早くが良い・・”ってことで
結納から2か月後に決定!
母は文句たらたらでしたが 自然相手のお仕事には勝てません(笑)
そして まるで 嫌がらせ?のように母がやらかしてくれたこと・・・
私からの上納金をタンスや着物に変えてくれたんです(怒)
私は現金で渡して欲しかったのにーーーー
後に 姉から”私もそうだった・・”って聞き
(なんで もっと早くに 教えてくれないんだ!)って 恨みましたが後の祭り・・・
ぐっとこらえて 結婚式を済ませ 無事 逃げるように新居に引っ越しました
これが 母からの実質的な脱却 その2!です
でも この新居も 母が いっちょかみ してます
母はずっと 共働きをしていました
なので
”私が通勤するバスの沿線に住みなさい!”って・・・
そう言われると 余計に遠くに住みたくなるので しらっと
それを告げると
”私に来るな!って 言う事なの?”と激怒・・・
仕方なく 沿線に決めました
常にそうでした
その母にちょっとづつ 異変が起きました
私が留守にしている時に何度も家電に電話をかけ 出ないので
今度は私の携帯にかけてきて こう言いました
“あんたの家に何回電話しても出ないんだけど どう言う事?”って・・・
こっちが”???”ですよ・・だから
”電話に出ないってことは いないってこと!”って言うと 激怒!
次は父から
”母さんが中心部の銀行に通帳を記帳しに行ったんだけど
場所がわからなくて 帰って来た・・・
お前 付いて行ってくれないか?”って。
一緒に行きましたよ・・・で 気づきました
(母の頭の中で 何かが始まってる・・・)って・・・
この時に すぐに 神経内科に連れて行っていれば
進行はもっと 抑えられたかもしれない・・・
だって 普通は 何でもなかったんですから
それからは 母の”すぐに来て!”攻撃が始まりました
始めは 自分の家のことは ほおりだして 飛んでいきましたが
だんだんと 分かってきたので 慌てずに用事を済ませてから 行くようになりました
すると 激怒です(苦笑)
一度は”〇子さん(兄嫁さん)がインフルエンザだからあんた来て手伝って!”って言うから
その時は私が怒りましたよ!”私に移るでしょ!”って・・・
すると 当然激怒してました
そのうちに 父にも異変が始まり 怒りっぽくなりました
これも 老人性の鬱の症状だった気がします
その辺りで 姉と相談して 母を病院へ・・と言う話を 父にすると
父は
”母さんの頭がおかしいって言うのか!!”と激怒(苦笑)
もう激怒は ご馳走様でしたねーー
でも なんとか 神経内科の予約を入れて 母 姉 兄嫁 私も一緒に行きました
色々検査した結果 "ルビー小体型認知症”と診断が下りました
この認知症には パーキンソン症候群の症状も出るとかで
歩幅が狭くなっていましたから・・・
その後 父が亡くなり 母の症状は 刻々と進みました
兄嫁さんが ギリギリまで介護してくれていました
私と姉が
”もう大変だから 施設にお願いしよう!”って言っても 何故か
”可哀想だから もう少し・・”って・・
でも 兄の無理解で母は兄に 度々叱られ 施設に入所する直前には兄は 母から
”なんだか知らないけど 時どき家にいて 私を怒る
おっかない おじさん”ってことに(笑)
兄嫁さんは ”ご飯をくれる人”なので 従順に言う事を聞いてました
そして 施設に入所した訳ですが
その時には もう誰この事も わからなくなってました
体は元気で いつも ニコニコして 暮しているらしいですが
可哀想だな・・って気持ちの反面 幸せなのかも?って思います
また 認知傾向が出てから 母に呼び付け 我儘に
私の出来る範囲で 対処できて 良かったかな?って・・・
私が良い年になった時に 子供の頃の あれこれはもう
どうでも良い事になりました
親子の立場が逆転したのでしょう
そして 今は 見守る事しか出来ませんが
元気で 楽しく 美味しく 生き延びて欲しい・・それだけです
9月で92才になる 母です
母の脳裏から 私達が消えたのと同様に
私の脳からは 母のことは消えませんが
昔 理不尽な行いや 罵詈雑言・・・
そして 心に受けた耐えがたい傷なんかも 全て 消えました
私も ばぁばになりました
時に 曾孫の顏をまた 見せてやりたいですが 叶わないかも?
母さん!
あなたが 愛してくれた わが息子も今年 40のおっさんになりました
2児の父で 頑張ってます
息子を可愛がってくれた あの時の あなたの 優しい顔は 生涯忘れませんよ!
また 会いに行きます・・・