昨日は急遽、大学の同期である由貴ちゃんからお昼のお誘いがありまして
職場の目の前にある居酒屋に行ってランチしてきたのです
新婚生活にもだんだん慣れてきたとゆー由貴ちゃんと、割と真面目に赤ちゃんの話をしまして。
そもそも自分は本当に妊娠できる身体なのかな、旦那さんも不妊症ではないのかな、という心配がまず始めにくる不安ではあるけど、
いざ妊娠した!となってもそこはまだまだゴールではないから難しいよねぇ…と。
妊娠できたとなったら、初期流産しないか、とか、染色体異常は見つからないか、とか。不安は山積みなわけですよね。
けど、染色体異常だからわかる病気なんてダウン症とか限られたもののみなわけで、しかもそのダウン症が軽度か重度かまでは判断できないわけだから、どれくらい親子共に苦労して生きるかなんて産んでみなきゃわからない、ある種の賭けなわけであり。
更にエコーを見ても気づけなかったけど、
産んでみたら奇形が見つかったとか、色盲だった、その他先天性の知的障害だった、とか、産まなきゃわからない発見のがきっと圧倒的に多数なわけなんだよね。
そう思うと、「普通に」赤ちゃんができて、「普通の」赤ちゃんが生まれてくる、っていう、特別に考えたことのなかった、自分の信じていた「普通」がいかに奇跡のようなことかを思い知らされる。
妊娠していて、堕胎可能な段階で染色体異常とかが見つかり、堕ろすことを決意する夫婦を「人でなし」とか「命を選別するなんて自然の理に逆らってる」って非難するひとは沢山いると思うけど、そんなの全部他人事だから言えることだよね。
程度は様々でも、知的障害、身体障害を持った子を産んで一生世話をするってどんなことか、
家族に障害者がいるってどんなことか、
一生障害を持ったまま生きるってどんなことか、
想像もしないで非難してるんだろうなぁ。
うちの最寄り駅の割と近くに、知的障害者専用の養護施設がある関係で、
小学校から高校まで、最寄りの沿線でものすごい頻度で重度の知的障害者を見かけて、変な絡まれ方をして怖い思いをしたことが何度もあったのよね。
子供ながらに、「いい年した大人なのに、どこ行くにも何をするにも一生親についてもらわないといけないんだろうな」とその人たちを見て、ゾッとするような気が遠くなるような感覚に襲われたのをよく覚えてる。
何を以って幸、不幸とするかの定義は人それぞれだけど、例えば明らかに重い障害がある(五感のうち二つくらい機能しないとか、両手がないとか)あるって言うことを事前に知る術があったとして、将来の我が子の苦労や自分や含めた周りの不幸を考えた上で、産まないって選択肢をとることはそんなに責められることなのかな。
またそれもひとつの愛なんだとは認められないのかな。
自分の周りで身体障害がある知り合いを見て、「可哀想に、生まれないほうが幸せだったのに」って、相手の生を否定するようなことを思ったことは一度もないけれど、むしろそれぞれの人生を素敵だなと感じたことはあるけれど、そう思えるのだってきっと障害の程度によるところはあるんだろうし、彼らだって、わたしから見たら素敵な人生でも悩んだり、辛い思いをしたことはきっとあるんだろうなぁ、と思う。
生き物がいつか必ず病気やら何やらで死ぬって言うのは、ひとつの種が異様に増え続けたら地球が満員状態になってしまうからなのだと理解できるけど、
知的、身体障害を持った生き物が生まれることには何の意味があるんだろうと不思議に思う。(彼らの存在意義とかではなくね。)
意味なんてなくて、ただ自然のサイクルで起こるバグなのかしら。
バグに付き合わされる身にもなってよという話だけども。
そもそも、生き物がなぜ生まれるかとかなぜ死ぬかっていうような、自然界で起こりうること全て、意味なんてないのかもしれないね。
生き物のなかでたまたま人間だけ突出して知能が高いから、全ての事象に意味づけをしたいだけであって。
こういうこと考え出すともう哲学とか神学の域に達してしまって何もはかどらないなwwwww
とりあえず。
はやく由貴ちゃんたちに子供ができて、由貴ちゃんたちの考える「普通の」幸せを手に入れられるといいな。

職場の目の前にある居酒屋に行ってランチしてきたのです

新婚生活にもだんだん慣れてきたとゆー由貴ちゃんと、割と真面目に赤ちゃんの話をしまして。
そもそも自分は本当に妊娠できる身体なのかな、旦那さんも不妊症ではないのかな、という心配がまず始めにくる不安ではあるけど、
いざ妊娠した!となってもそこはまだまだゴールではないから難しいよねぇ…と。
妊娠できたとなったら、初期流産しないか、とか、染色体異常は見つからないか、とか。不安は山積みなわけですよね。
けど、染色体異常だからわかる病気なんてダウン症とか限られたもののみなわけで、しかもそのダウン症が軽度か重度かまでは判断できないわけだから、どれくらい親子共に苦労して生きるかなんて産んでみなきゃわからない、ある種の賭けなわけであり。
更にエコーを見ても気づけなかったけど、
産んでみたら奇形が見つかったとか、色盲だった、その他先天性の知的障害だった、とか、産まなきゃわからない発見のがきっと圧倒的に多数なわけなんだよね。
そう思うと、「普通に」赤ちゃんができて、「普通の」赤ちゃんが生まれてくる、っていう、特別に考えたことのなかった、自分の信じていた「普通」がいかに奇跡のようなことかを思い知らされる。
妊娠していて、堕胎可能な段階で染色体異常とかが見つかり、堕ろすことを決意する夫婦を「人でなし」とか「命を選別するなんて自然の理に逆らってる」って非難するひとは沢山いると思うけど、そんなの全部他人事だから言えることだよね。
程度は様々でも、知的障害、身体障害を持った子を産んで一生世話をするってどんなことか、
家族に障害者がいるってどんなことか、
一生障害を持ったまま生きるってどんなことか、
想像もしないで非難してるんだろうなぁ。
うちの最寄り駅の割と近くに、知的障害者専用の養護施設がある関係で、
小学校から高校まで、最寄りの沿線でものすごい頻度で重度の知的障害者を見かけて、変な絡まれ方をして怖い思いをしたことが何度もあったのよね。
子供ながらに、「いい年した大人なのに、どこ行くにも何をするにも一生親についてもらわないといけないんだろうな」とその人たちを見て、ゾッとするような気が遠くなるような感覚に襲われたのをよく覚えてる。
何を以って幸、不幸とするかの定義は人それぞれだけど、例えば明らかに重い障害がある(五感のうち二つくらい機能しないとか、両手がないとか)あるって言うことを事前に知る術があったとして、将来の我が子の苦労や自分や含めた周りの不幸を考えた上で、産まないって選択肢をとることはそんなに責められることなのかな。
またそれもひとつの愛なんだとは認められないのかな。
自分の周りで身体障害がある知り合いを見て、「可哀想に、生まれないほうが幸せだったのに」って、相手の生を否定するようなことを思ったことは一度もないけれど、むしろそれぞれの人生を素敵だなと感じたことはあるけれど、そう思えるのだってきっと障害の程度によるところはあるんだろうし、彼らだって、わたしから見たら素敵な人生でも悩んだり、辛い思いをしたことはきっとあるんだろうなぁ、と思う。
生き物がいつか必ず病気やら何やらで死ぬって言うのは、ひとつの種が異様に増え続けたら地球が満員状態になってしまうからなのだと理解できるけど、
知的、身体障害を持った生き物が生まれることには何の意味があるんだろうと不思議に思う。(彼らの存在意義とかではなくね。)
意味なんてなくて、ただ自然のサイクルで起こるバグなのかしら。
バグに付き合わされる身にもなってよという話だけども。
そもそも、生き物がなぜ生まれるかとかなぜ死ぬかっていうような、自然界で起こりうること全て、意味なんてないのかもしれないね。
生き物のなかでたまたま人間だけ突出して知能が高いから、全ての事象に意味づけをしたいだけであって。
こういうこと考え出すともう哲学とか神学の域に達してしまって何もはかどらないなwwwww
とりあえず。
はやく由貴ちゃんたちに子供ができて、由貴ちゃんたちの考える「普通の」幸せを手に入れられるといいな。