(注)この物語の登場人物、場所はすべて架空です。
一
公介は、裕の運転する車で、久美子と共に初秋の木曽路に向かった。何十年ぶりだろうか。彼はこの旅が人生の節目にできることに感謝した。公介は暮れに退官することになっていて、還暦のお祝いにと息子夫婦から海外旅行の誘いがあったが、久美子の両親と恩人二人が眠る木曽路の旅をリクエストした。車はよく整備された中央高速道路から長野自動車道路を経て木曾高速道路を南下した。
「かあさん。そろそろ木曽福島だよ」
「懐かしいわ。こんな所にスキー場があったかしら」
「あの白い建物。薫さん、あそこで裕は生まれたのよ」と久美子は指をさし、助手席の薫に説明した。
「裕さんに木曾で生まれたことは聞いていましたが、ここが故郷なんですね」
「ここで降りますか」
「いや、上松インターまで行ってくれ」
「お父さん。あの石垣は私が小さい時によく乗った林鉄の跡ですよ」
「そうだな。昔、後藤さんからよく話を聞いたものだ」
車は木曽川の左岸の高台を走っている。公介と久美子は窓越しに覗き込み、昔を懐かしんでいる。十分も経たないうちに切り立った岩場を切り開いた上松インターに着き、急勾配の取り付け道路から国道十九号線に入って赤沢美林方面の看板を右折し小川橋を渡って木曽川の右岸に渡った。
裕は公介とはまったく畑違いの仕事を選んでいた。
「父さん。木曽川は綺麗になったでしょう。昔は水一滴流れていなかったんですよね」
公介が黙っていると、「そうなの」薫が聞き返した。
「ダムがこの水を塞き止め、山の中のトンネルでバイパスしていたんだよ。白い花崗岩の石だらけでね。よく地元の人たちは我慢していたもんだ」
「裕。母さんは小さい時にここに住んでいたけど、そんな事一度も考えたことはなかったわ。貴方がいつも話している自然はこうあるべきという考えは、頭でっかちの学問上の意見だわ。今は管理された水が流れ、見た目は美しいかもしれないよね。でも、母さんが小さい頃、秋の終わりから冬にかけて水が途切れた淵に下りて、子供たち皆で石を叩いて魚を獲ったこと想像できる。今は危険だからといってそんな事もできないでしょ。季節の流れの中で、母さんたちは川に親しんでいたのよ。古い時代は材木の運搬に川を利用していたので、瀬切れがあれば大問題だったでしょうが、林鉄ができて雨の日でも洪水の危険なしで運搬ができるようになって、皆幸せだったのよ。そして、普段水が流れていなくても川の価値が下がったわけではないの。ダムができて他の村に比べて早い時期から電灯がともり、羨ましがれたのも事実なの。川の価値は共存するすべての人々で分かち合ってきたの」
裕は久美子の説教が始まったと思った。そして裕には久美子が説明する情景の殆どを理解できなかった。
「かあさん。無理だよ。裕にはそんな生活とても理解できはしない。本で読んだだけの知識では川と共存するなんて事解らないよ。私は、といっても私や友人の人生観では、かあさんの理論が正しいと思わないと寂しいね。でも、裕の理論も世論の大勢であって、それも否定できない。だから、環境省も自然のご意見番として必要なのさ」

車は隔離された自然の中に入っていった。とはいっても、文明の道具の車に乗って整備された林道を走っているから、作り上げられた自然の中に入っていったとの表現が正しいと公介は思っていた。赤沢美林の駐車場に車を止めると、公介は手首に傷のある右手でドアを開くと車外に出た。「いい匂いだ」というと、久美子も深呼吸して頷いた。二人は遊歩道の脇道の小道を歩き出した。裕と寝入った息子の晋平を抱いた薫は、レストハウスに向かった。
「お父様たちは、ここに思い出があるのかしら」
「木曾に住んでいたことは前に聞いたことがあるが、あまり当時のことは私にも話さないからね」
「今度の旅行は海外でもよかったのに、お母様もお父様も開口一番木曽路がいいとおっしゃったわ。私は海外でのんびりしたかったわ」
「親爺たちは仕事で海外によく行っていたし、昔住んでいた所が懐かしかったんだろう。海外はまたいけるさ」
「お父さん。枯葉の絨毯は昔と変わらないですね。昔のままだわ。まるでタイムスリップしたみたい」と久美子は声に張りを増して、笑いながら駐車場へ戻ってきた。
赤沢美林をあとにして再び十九号線を南下した。野尻の信号機の上に大きな看板があり、阿寺ダム方面が示されている。
「裕。その交差点を右折してくれ。南木曽の宿に入るにはまだ時間があるだろう」
「はい」
交差点を右折し、木曽川にかかった赤いトラス橋を渡ると阿寺渓谷入口の立看板があった。渓谷沿いに上流に向かうと、ちらほら黄葉が見える。大きなカーブを曲がるとフロントガラス一杯に巨大なコンクリートの山が飛び込んできた。裕と薫はその巨大なコンクリートの壁にため息をついた。
久美子はそのくすんだコンクリートの壁面をみるなり目頭を押さえた。展望台駐車場に車を止め、他の観光客と一緒にダムの天端を歩き始めた。薫は晋平をバギーに乗せ毛布をかけて少し遅れて歩いている。二人は、息子夫婦に管理所に挨拶するといって別れた。
「こんにちは。小川といいますが、ダム管理所を見学させていただけないでしょうか」と公介は受付の女性に申し出た。
「はい。そちらの見学希望用紙にご記入をお願いします」公介は必要事項を記入し再び窓口に出した。受付の女性は手際よくコンピューターの端末に項目を入力した。端末機の画面には「河川審議官」と表示され、驚いて椅子から立ち上がってお辞儀をした。
「ただいま管理課長がご案内しますのでしばらくお待ちください」といって後方の事務室に向かった。しばらくすると、身なりを整えた管理課長がロビーに出て深々と頭を下げて、所長がご面会したい旨を話し二階に案内した。公介は恐縮して見学だけでよいといったが、管理課長は所長室のドアを開けた。
「はじめまして。小川といいます。本日は無理なお願いを申し上げ、ご迷惑をおかけします」
「とんでもございません。所長の藤田と申します。遠路お越しいただきまして、感謝いたします」といって名刺を差し出した。公介も名刺を差し出すと、藤田は両手で丁寧に名刺をもらい名刺ケースにしまった。「お茶でも」といって管理課長に指示を出したが、公介は時間があまりないといって、計測室だけを見せていただけないか頼んだ。藤田は心の中で其の程度の希望で助かったと思ったが、十分にご覧いただきたい社交辞令の言葉で残念なそぶりをし、管理課長に案内するように指示をして頭を下げた。
計測室には誰もいなかった。管理課長は「観測機器は最新鋭のコンピューターで管理されています。全て自動に監視され異常が発見されると速やかに警報がなるシステムです」といった。公介はマニュアル通りの説明に頷いた。部屋の片隅にねずみ色の古い観測盤がある。公介はそれを指差し「あれは使っているのですか」と聞いた。
「あの機械は古くからある機械で、処分したいのですが、除却は認めない申し送りの観測機器です。この機械だけは職員が紙の入れ替えなど直接操作しないと動かないもので、処分したいのですが」といった。公介は「そうですか」といって部屋を出た。管理課長に所長によろしく伝えてほしい旨話し、管理所をあとにした。
「かあさん。年月が経ったね」といって公介は湖面を眺めた。湖面は始まりかけた黄葉を映し、さわやかな秋風がその色を溶かし込み一層深みのあるブルーとなっていた。(一章終わり)
