(注)この物語の登場人物、場所はすべて架空です。
六
南木曽の駅のロータリーに黒塗りの所長車は止まった。
「三時半の急行ですから、私が出迎えにいってきます。所長はここでまっていていただけますか」
そういって、後藤は車を降り、駅の改札に向かった。山下は、再会を前にして言葉をさがしていた。
「ご苦労さまです」
「いや、どうもこの前はありがとうございました」
少し大きめの鞄をさげた斉藤が改札をでてきた。
「所長は車におります。目立ってはいけませんので、私だけで出迎えで申し訳ありません」
「いや、ご配慮ありがとうございます」
後藤は手をさしのべて鞄を持とうとおもったが、斉藤は渡さなかった。随分重そうである。
山下は車から降りて、ドアをあけた。
「よぉ」
「おう」
二人とも、言葉にならない挨拶をすると、斉藤と並んで後部座席にすわった。
「久しぶりだったね」山下が切り出した。
「ああ、やまも変わらないね」昔の呼び方で斉藤は挨拶した。
後藤は運転しながら、良かったと思った。
「どうだい。役人暮らしと離れて」
「まあ、たのしくやっているよ。子供たちには役人とちがって下心はないんでね」
「相変わらずやな。おれはその役人にどっぷりつかっているよ」
そういいながら、山下は窓をすこしあけた。そして、胸元から煙草をとりだすと、火をつけた。
「あれ、まだそいつを使っているのかね」
「ああ、こいつは壊れないし、風の強い日もよくつくんでね」
「それだけつかってもらえれば、買ってきたかいがあったよ」
「たしか、マルパッセダムの土産だったよな」
はじめて、二人の会話でダムの名前がでた。
国道から脇道にはいると、古い大きな家が見える。昔は蚕を飼っていたため中二階が大きなスペースを持っている。いまは、これを改修して民宿の客室にしている。
「姉さん」大きな声を後藤が出すと、奥から頭をさげながら駐車した車の脇に姉の俊子がきた。
「お客さんだよ。奥の静かな部屋にしてくれ。他のお客さんは」
「若い大学生が二組ほど泊まっているよ。晋平、夕食は部屋の方がいいよね」
「ああ、夕食は六時頃でいいよ。それより風呂はいいかい」
「もう、三十分ぐらいまってくれるかね。他のお客さんは後にさせるから」
「お世話になります。斉藤と申します。後藤さんには昔大変お世話になりました」
「ようこそいらっしゃいました。なにも無いところですが、ゆっくりしてください」
そういって、俊子は斉藤の鞄を持とうとした。しかし、斉藤は自分で持つという仕草をして部屋に、案内されるまま入った。後藤は、資料類を車からおろすと、所長とともに斉藤の後を追った。
後藤は部屋にはいると、お茶の支度をした。山下は風呂まで時間があるので、これまでの観測記録と概要を説明することにし、資料をだそうとしたところ、斉藤も鞄から、書類をいくつか出してテーブルの上においた。
「やま、地震計に変な揺れがあると、後藤さんから聞いたが、どんな状態だ」
「なにか周期的に思える波が、一日一回から近頃では二回くらい観測されている。発生箇所は解析によると、ほぼ第七断層の周辺で、深さは浅くなったり深くなったりだ」
「それで、岩盤の歪みはどうかね」
「洪水期が終わって、水位を上昇しはじめたら、初期の歪みと同様に、やや大きいくらいに増えている」
「圧力はどうかな」
「いまのところ低い値で変化はない」
「ダム水位は下げれるかね」
「いやむりだね。水道用水分や発電分があって、協議が成立しないと低下はむずかしいね」
「機器の不具合ではないかね」
「いや一昨日も点検したが、問題はなかった」
「お風呂どうぞ」俊子が浴衣とタオルをもってきた。
「斉藤。風呂にはいってこいよ。おれたちはまっているから」
「すまんな。じゃ、お言葉に甘えて」
斉藤は、身支度をすると部屋をでていった。山下はテーブルにおかれている斉藤のファイルに手をのばして、その資料を開いた。タイトルは、第七断層の浸透水圧による破壊の危惧と書いてあり、斉藤の手書きの論文である。その前文に、ダムの高さを現在より五十米以上下げなければ、高圧の浸透水圧で第七断層の脆弱部が破壊され、誘発地震をともない滑動を開始する恐れがある。と書いている。初めて山下は、このような論文があることを知った。
後藤は食事の段取りを俊子と相談している。
「姉ちゃん、酒は所長と斉藤さんだけで、山菜や川魚をたのむよ。そんなに量はいらないからね」
「晋平。ところであの斉藤さんというお方は、どこの人かね」
「いや、昔高山ダムで一緒だった学者先生だよ。姉ちゃん、先生はお忍びなんでね。他言無用だよ。俺の立場がかかっているんだから」
「わかったよ。ところで何泊するのかね」
「今日明日だけど、わかんねえ。あいてんだろ。ここは」
「ああ、請求は晋平のとこでいいのかい」
「そうだ、会食費として、明細は所長他にしてくれ」
「わかったよ。段取りができたら、晋平運んでな」
「お先に。大きな風呂はいいね。疲れもふっとぶよ」といって、タオルをかけながら窓の外をみながらいった。
「ところで、今日は夜にダムを見てもらえるかね」
山下が切り出すと、斉藤は頷いた。斉藤は座椅子に腰掛けると、先ほどまで山下がのぞき見していたファイルを山下に差し出して、話はじめた。
「やま。俺は前から第七断層に興味を持っていた。技術会議で俺がダムの高さを下げることを主張したのは覚えてるかい」山下は頷いた。
「俺は、この断層のボーリングコアを見たとき、なにか変だと思ったんだよ。普通断層といえば、粘土質が混じっているのに、乾いた粉々の岩なんだよ。もしここに高い圧力の水がはいったら、どうなるかと思ってね。自分なりに仮説をたてて纏めたのが、この論文さ。当時、地質の大家は小川だったので、彼にこの話をしたところ、そんなことは考えられないと一括されてね。それからこの論文はお蔵入りとなった。彼は、いまひとついったね。そんなことがあるなら他のダムだってみんな心配や危険性をはらんでいるとね」
「で、斉藤の結論はどうだった」
「ああ、日本ではこの高さのダムは未経験だったんだよね。俺がマルパッセダムを見に行ったのがこの問題に着目した発端さ。彼らは地盤にある小さな弱層にきがつかなくて、そこに浸透した高圧の水が岩盤をゆるめて、突然ダムが崩壊した。世界中の権威が集まっての討論したんだが、調査の段階では、こんな小さな弱層が悪さをするなんて、だれも考えてはいなかったようだった。結局この破壊で数百人の人間が死んだことは、やまもしっているよな」
「じゃ、この断層と第七断層が同じという推論かい」
「同じとはいえないまでも、似ているのではないかと思ってね」
「後でわかったことだが、終局前にダムの地震計がある周期微動をキャッチしていたとの報告があった。でも地震計の感度が低かったから、かなり大きい揺れになって初めて観測されたらしいんだがね」
「それで、高感度地震計を設置しようと思い立った訳か」
「ああ、俺がこのダムに携わった唯一の証として、そしてダムの高さを低く出来なかった責任の証としてさ」
「なぜ、そのことを公にしなかったのか」
「やま、俺もダム屋だ。作る以上、責任を感じないわけではない。しかし、俺の考えは、俺一人の推論にすぎない。まして、技術者といえども雇われの身だ。保身がなかったといえば嘘になるが、後の技術者になぜ斉藤がこんな物を設置したのか理解してもらえればそれだけでいい。そして、第二第三の俺が、そして俺以上の発言力がある男が出てくれることを期待してね」
「それは、無責任ではないのかね」
「そのとおりかもしれない。でもお前が気がついてくれたではないか。今となっては俺の推論が間違っていてほしいがね」
「ごとさん、そろそろいこうか」夕食を終え、山下はいった。
「斉藤さん、よろしいですか」
「はい」
後藤は、斉藤に作業服を渡した。斉藤はたちあがって身支度をはじめ、なから段取りが出来たところで、幾つかの資料をリュックに詰め、表にでた。満天の星空である。ひんやりとした木曽の空気が斉藤の気を引き締めた。ダム管理所に到着したのは九時をすこし過ぎたところであった。管理所の計測室に入ると、斉藤はその観測設備の立派さに驚いた。大型の計算機やディスプレイに鮮やかに刻々のデータが示されていることに時の流れを感じていた。
「ごとさん、これがレーザーの計測値かね」
山下はディスプレイを指さしながら後藤に聞いた。後藤は頷いた。そこには、水平のグラフが表示されていた。当然半日分のデータであるので、変化があるはずはなかった。
「やま。レーザーというと」
「ああ、今日設置したばかりの、レーザー変位計だよ」
「どこに設置しているのかね」
「第七断層をまたいて設置しています」と後藤がいった。続いて後藤は、これまでの観測データをテーブルに広げて、斉藤にみせた。
「たしかに、周期的な揺れがありますね。漏水の量は変化ありますか。それと圧力はどうなっていますか。基礎処理の実績図は。この揺れの始まった水位は」
矢継ぎ早に斉藤は質問した。それに対して、山下は端的にかつ正確に答えた。
「斉藤。下にいってみよう」
「ああ」
後藤はエレベータの電源を遠隔操作盤から投入した。いつもと同じように、鈍い音を立てて急降下した。斉藤にとって久々に感じる生暖かいダムのにおいであった。内部は変化はなかった。
「奥にはいってみよう」
山下の言葉で、後藤は扉の鍵をあけ、先頭をきって中に入った。このトンネルは斉藤が計画し、調査したものであった。入り口付近は岩盤から時折滴が落ちている。足下には漏水処理の排水パイプが見えている。
「漏水は変化ないんですか」
「はい、完成後からは殆ど変化がありません。遠隔ですべて計算機がデータを収集しています」
最深部に入ったところで、岩盤からの滴が雨のように落ちている。三人は驚きを殺した声をあげた。
「ごとさん、前と変化ないですかね」
「いや、こんなに漏水があるなんて。データでは変化ないんですよね」
「漏水の計測はどのようになっていますか」斉藤がきいた。
「そこにある堰で漏水を集めて、圧力センサーで水位をみています」
「ごとさん」山下が大きな声をあげた。
「このセンサーのケーブルがおかしいみたいだよ」
ケーブルの上に角張った人頭大の岩片が落ちており、それをどけると、ケーブルの芯がむき出しになっている」
「ショートかね。とすると変化はまったく無いようになるな」
さらに三人は声をあげた。
「こんなに、細かい土はあったかい」
岩の節理から流れ出る末端に扇状地のように細かい土が山のように盛り上がっている。
管理所に上がると、斉藤は先ほどケーブルを治したセンサーの値を表示させた。驚いたことに初期の値の五倍ほどになっている。
「まずいな。このままだと断層がどうなるか予想がつかない」斉藤がつぶやいた。
「斉藤。当面どう考えたらいいのだろうか」
「まずは、水位を下げてみることだな。このまま水位を上げるのは問題があるよ」
「ただ、水位低下には村と局、それと電力の協議がいるから簡単にはいかないし、貯水計画に沿って上昇させている最中だから、むずかしいな」
「所長。底部バルブの故障ということにして、臨時改修をすることにすれば、約十米ほどさげられますし、洪水期の制限水位にもどせます」
「嘘はつきたくないが、そうすれば少しでも危険を回避できるし、下降の状態も観測できるな」
「ただ、管制部門が故障伝票を上げなければならないので、機械係長が相当たたかれますよ。それと、昨年は渇水だったので、ここで十米下げると、後に回復できるか心配もあります。自分で提案して、問題ばかりいって申し訳ありませんが」
「しかし、斉藤。率直な感じはどうだろうか」
「なんともいえんな。もしかすると鳥越苦労かもしれんし、後藤さんが入ったときは、中間水位の頃でしょ」
「はい」
「とすると、あんなもんかもしれないし」
「斉藤。明日はどうする」
「ああ、長期戦でかまわんよ。家内は内々に話してある。覚悟はしているようだし、職員もいるんで、仕事は心配ない。ここまでわかったんだ。いまさら仲間として帰るわけにはいかんだろう。それより、やま。今後どうする。幹部に話すか」
「小川に話すと、保身が先にたって、話がややこしくなるからね。ただ、黙っているわけにもいかんだろう。もう少しデータをそろえて、説明することぐらいかね。でも水位は下げたいし。いまはわからん」
斉藤が宿についたのは、十二時すこし前だった。
「奥さん、おはようございます。昨日はどうも。弁当箱をおかえしにきました」
「おはよう」
「所長でしたか。おはようございます」
「公ちゃん。昨日はどうだったの大学のお友達とたのしかったの」
山下は、微笑んでいる。
「はい。これで失礼します」
「洗濯物は。朝ご飯は」
「いや、自分でしましたから。では」
「つまんない子ね」
「あいつだって忙しいんだよ」諭すように山下はいった。
「彼女でもできたのかしらね。あなたは知っているの」
「いや。それよりちょっと出かけてくる」
「どちらへ」
「ごとさんと南木曽へね。遅くなるよ」
「あなたは、森林祭いかないの。祝儀はどうしたらいいの」
「今年はいけないな。祝儀はごとさんと役場に行って置いていくよ」
「おはようございます」
後藤が迎えにきた。所長車は官舎に止めてある。今日は後藤の自家用車で行動することになった。寮の前で久美子が、公介を待っている。
「奥様なにかいっていた」
「所長がいたんで嘘がばれそうになってね」
「嘘って」
「いやなんでもない」
「昨日はごめんね」
「いいえ、気にしていないわ。でも夜思い出して眠れなかった。うれしかったわ」
「父がいっていたわ。早めにいかないと車とめられないって、ダメなら父の名前で営林署の駐車場に止めなさいって」
「おはようごさいます」山下と後藤は役場によった。奥から牧野がでてきて深々と頭をさげた。
「所長さんいつも久美子がお世話になっておりまして、気がつかない娘で申し訳ありません。課長さんにもお世話になりっぱなしで」
「牧野さん。この前は美味しい茸ありがとうございました。これはほんのお礼ということで、みなさまで一杯やってください」
「いつもすいません。ありがとうございます。遠慮なしにいただきます」
「久美子も今日は、小川さんと森林祭にいくといってなにか楽しそうでした。課長さんにご配慮いただいたようで」
「いや、久美ちゃんの笑顔は、仕事の疲れを忘れさせてくれます。うちの部下でよかったらボディーガードはいつでもいってください。ハッハッ」後藤は心配事を忘れるかのように豪快にわらった。
「久美ちゃん。今日はデートかね」駄菓子屋の菊さんが甲高い声をあげた。
「そんなんじゃないのよ。ダムの人が初めてなんで、今日は案内です」
「そうかね。ところでお婆さんはどう」
「はい、食事ができるようになりました。もう少しで退院できるそうです」
「それはよかった。よろしくいってね」
ここは小さな村社会だなと公介は思った。他人の家のことまで良く知っている。都会人には理解しがたい空気であるし、ささいなことで久美子に迷惑が及ぶことを改めて感じた。
「いい空気だね」
駐車場に車を止め、降り際に公介がつぶやいた。奥まった木曽檜の森林の中に、茶色の葉が積み重なってふかふかの細い路がつながっている。二人並んで歩くのが精一杯であった。
「滑るから気をつけて」
公介が差し出した手に、久美子は何のためらいもなくすがった。
「公介さん。一つ先輩の彼女は今でもつきあっているの」
「ああ」
「恋人なんだ。結婚するの」
「前にも言ったように今結婚する気なんてないよ」
公介が、めんどくさい表情をして、久美子をにらんだ。
「ごめんなさい。でも昨日のことがあって、公介さんは私のことをどう思っているのか考えちゃって。もう聞かないわ。ごめんなさい」
「久美ちゃん。つき合うってどんなことなのかな。こうやって一緒に山道を歩いていることだってつき合っていることではないのかな。手紙のやりとりだって、そして親同士の関係だって・・」
「えぇ」
「一つ先輩の彼女っていうのは、俺の親父の友人の娘さんで、母が教えているカルチャーセンターの生徒さ。母親が気に入ってよく家にきているらしく、時折母から、こんな人ならいいよね。なんて連絡があるけど。苦労を知らないお嬢さんだし、とてもこんな山奥なんて興味もないだろうし」
「山奥ですよね」
「いや、僕はここが好きだよ。自然や素朴な人間そしてなにより自慢するダムがあるからね。そして気になる女性もいるし」
公介はまわりを見渡して、久美子の肩を抱き寄せた。
「やま。昨夜考えたんだが、どうしても水位は下げなければならないね」
車の後部座席に座るなり、斉藤は山下に自分の結論を話し始めた。
「昔を考えてくれ。昔なら全自動の観測システムなんて夢の夢だったよ。でも、そこに人間の愚かさがあるんだ。昨日のケーブルがもし壊れていなければもっと早く変化を見つけられたんだろうが。壊れていたのは事実だ。では前はどうだと聞いてもだれも答えられやしない。人間が見ていれば、正しいことはいえなくても、傾向は説明できる」
「自動観測システムなんて、問題が全くないときの気休めのシステムなのかもしれないね。俺もそう思うよ」
「しかし、昨日の漏水出口付近の細かい土砂が、断層内部の土粒子の移動がある明快な裏付けといえる。このまま水位を上昇させることは必ず悪い方向へと移行するだろう」
「ああ」
「後藤さん。水位低下の手段を僕なりに考えてみました。若い機械係長などは将来がありますし、これだけのダムで簡単に機器故障するのもおかしい。だから、マスコミを使うんですよ」
「マスコミ?」
「そう、山根キャスターがいたテレビ局をね。彼らはモラルなんてありゃしない。ちょっとの入れ知恵でどうにでもコントロールできる」
「どうやって」
斉藤は便箋に書いたシナリオを山下に渡した。
「斉藤。これだと局長が出てくるな。大事になるぞ。ましてやおまえが相当叩かれるぞ。そんなやり方は賛成できない」
「しかし、単に故障だけでは、長期の水位低下など全く期待できないぞ。俺もこのダムに携わった男だ。そして誰も説得できなかった男だ。俺の考えが間違っていてほしい。だけど、誰もこの声を聞いてくれないとすると、強硬手段に訴えるしかないだろう」
「でも小川君をだますことになるからね」