相模原で起きた殺人事件。
いろんなところで波紋が。
犯人が外部の人間でなく4年間その施設で働いていた。
内部事情には細部まで詳しいはず。
そんな人間に襲われたら防ぐ手立てなど皆無に等しいのでは。
犯人が動機について話し始めているようだ。
ヒトラーが出て来たリで、寝たきりの人間は抹殺するしかない、ということを言ってるようだ。
メディアはあまり突っ込んだ報道をしていない。
最近のfacebookではそのあたり詳しく載っている。
この事件の犯人の話に共感する人間も結構いるみたいだ。
そういう連中が情報を共有しあっている。
何の役にも立たず官費で養う必要があるのか、など激しく排斥を叫んでいる。
そういう人間に限って胸を張って言えるようなことをやっていない。
憂さ晴らしとも違うようだ。
何か天の声みたいなのが降ってきてそれに従っているようだ。
なぜそういう考え方になったか今のところはっきりしない。
多分警察だってそこまで深く調べはしないだろう。
ある程度動機が解明され凶器が特定され証拠がそろえば検察に引き渡して一件落着。
いつからか人間が人間として扱われなくなった。
生きている価値があるとかないとかそういう話が普通に話されるようになってきた。
そう思うのだが。
特に障害を持った人間に対する差別的な言動が。
はっきり言って障害を持った人。大人か子供か問わず。
お近づきになりたいとは思わない。どう言う風に接したらいいのかよくわからないから。
近くにそういう人達の「家」があり、たまに催し物のあんないが郵便受けに入っていることがある。
主にクッキーを作ってこの季節は庭にテントを張って販売をしている。
だからと言ってこの世からいなくなれとは思わない。
特に迷惑を被っているわけでもないから。
人間を長くやっていると今の時代は何か人間関係がぎすぎすしてきたなっていう気がする。
ここの話ではないが、住宅街に保育所・幼稚園の類が建設されると聞いて子供の声がうるさいので
「反対」の声が上がったりする。事実あった。
このあたりでも、年に一度の小学校の運動会で開催を知らせる花火が朝の6時ころに打ち上げられるが
その音がうるさいと学校に苦情が持ち込まれ中止となりクラスごとの連絡表で知らせあうとか。
午前6時のわずか十数秒の花火がそんなに迷惑だろうか、と考えてしまう。
まあ、人によってはあり得る話だが。
生きていく価値があるかないかの基準は誰がどうやって決めるのか。
ある人にとって価値があっても他の人にとっては取るに足らないものであろう。
どんな人間でも生まれた時から生きることに価値がある。
それ以上でも以下でもない。
何かの基準を作りそれに当てはまるか否かで判断すべきではない。
戦前・戦中と徴兵制度の時代二十歳になると徴兵検査があった。
甲・乙・丙だけかな、甲種合格者は鼻が高かった。
それこそ赤飯炊いて祝ったとか。
丙種合格などみじめなもんで、それこそ生きてる価値がないかのように言われ蔑まれたそうだ。
そんな丙種でさえも戦況が悪化し敗戦が近くなると応召され遠くの島で
餓死により「戦死」した。
と、まあ、長々書いてきたが今回の事件の根底にあるものをしっかりと見つけ出し
障がいのあるものもないものも安心して暮らせる世の中にしなければ。
死んだ者は決して生き返らないのだから。