妙政寺では毎年11月11日の午後8時から小松原法難会を厳修いたします。
小松原法難とは日蓮聖人御生涯での四つの大法難の一つです。
いまから17年前、日蓮宗大阪市宗務所の団体参拝旅行で小松原山鏡忍寺に参拝いたしました。
その折の旅のしおりを一人で作成しました。これを載せたいがために!です。
完全に団参私物化!あはははは。
ま、ちゃんと当時の宗務所長さまにはご了解を得ておりましたけどね。
天津領主・工藤吉隆、祖師に教えを請い、景信宿年の怨みを雪がんと松原に潜む。殺気四面を蓋い、森々と剣槍を排ぶ。鏡忍房笑いて松枝を振るい、冷箭五矢その身に在り。祖師の御前に仁王立ちすること、かの弁慶が義経を護らんが如し。景信の一念祖師を襲うも法華行者の守護神これを護らんと欲して神力を現じ給う。吉隆急を聞きて駆け、景信不利をさとりて北る。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。一乗受持の決意なお篤し。我が名は工藤吉隆。釈尊を尊び、聖人を敬う。その想い主人よりも、朋輩よりも強し。
小説・小松原法難
今年も十一月十一日、安房国東条松原と申す大路にして申酉の時、数百人の念仏等にまちかけられ候て、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものの要にあふものはわづかに三、四人也。いるやはふるあめのごとし、うつたちはいなづまのごとし。弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事のてにて候。自身もきられ、打れ、結句にて候し程にいかが候けん、うちもらされていままでいきてはべり。
~南条兵衛七郎殿御書~
東条景信は鎌倉の問注所における所領問題の訴訟で領家の尼に敗れたことが腹立たしくてたまらなかった。何よりも領家の尼をバックアップしたのがあの日蓮であったことが、彼の怒りを更に大きなものにしていた。しかもあろうことか、その日蓮が今や景信の勢力圏で好き放題に布教活動を展開している。もはや景信にとって日蓮は仇敵であり、彼は隙あらば日蓮の命を狙おうと画策していた。
そんな折の文永元年(1264)11月11日、日蓮は天津の領主工藤吉隆の請いを受け、その館を訪れることとなった。この知らせは東条景信を歓喜させた。
「うわはははは。ついにあのくそ坊主も年貢の納め時じゃ」
景信は一族・郎党を呼び集めると、近隣の念仏信仰の者達にも大悪人日蓮を討つべし、と煽動して回った。
(いや待てよ。この際工藤一族も討ってしまうか)
景信は頃合いを見計らって天津の工藤吉隆に日蓮襲撃の報が届くように手配した。景信の所領近辺から、安房の国から、いやこの世から法華信者を抹消したい。熱心な法華信者である工藤左近吉隆は極めて目障りな存在だったのだ。
吉隆め、急を聞いて必ず押っ取り刀で駆けつけるに違いない………。
そんな陰謀を露知らず日蓮は弟子、警護の者あわせて10名ほどで小松原にさしかかってきた。時すでに申酉の時。すでに日も沈みかけて、あたりは薄暗い。
弟子の一人鏡忍房は風が動くのを鋭く感じた。影。殺気が四面を蓋う。彼は師の前に立ちふさがった。
「不覚。申し訳ありません。気づきませなんだ」
振り向きもせずこう言うと、鏡忍房は側に落ちていた松の木の太枝をつかみ取り大上段に構えた。油断。東条勢にすっかり取り囲まれている。何のために師のお供をしてきたのか。後悔の念が涌くより早く、影が割れ一際大きな騎馬武者が現れた。
「景信!」
全身の血が逆上してきた。
東条景信は鏡忍房には見向きもせずに日蓮に大喝した。
「日蓮。このくそ坊主め。今日こそ思い知らせてくれるわ」
言うが早いか景信は太刀を振り下ろしてきた。
「慮外者!」
鏡忍房がそれをうち払う。
「邪魔だ、木偶!」
しかし鏡忍房は一歩も退かない。松の太枝を自在に振り回しながら、巧みに取り囲む東条一党や念仏信者たちを威嚇する。
「師の御坊にはこの隙にお逃げ下され」
小松原法難とは日蓮聖人御生涯での四つの大法難の一つです。
いまから17年前、日蓮宗大阪市宗務所の団体参拝旅行で小松原山鏡忍寺に参拝いたしました。
その折の旅のしおりを一人で作成しました。これを載せたいがために!です。
完全に団参私物化!あはははは。
ま、ちゃんと当時の宗務所長さまにはご了解を得ておりましたけどね。
天津領主・工藤吉隆、祖師に教えを請い、景信宿年の怨みを雪がんと松原に潜む。殺気四面を蓋い、森々と剣槍を排ぶ。鏡忍房笑いて松枝を振るい、冷箭五矢その身に在り。祖師の御前に仁王立ちすること、かの弁慶が義経を護らんが如し。景信の一念祖師を襲うも法華行者の守護神これを護らんと欲して神力を現じ給う。吉隆急を聞きて駆け、景信不利をさとりて北る。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。一乗受持の決意なお篤し。我が名は工藤吉隆。釈尊を尊び、聖人を敬う。その想い主人よりも、朋輩よりも強し。
小説・小松原法難
今年も十一月十一日、安房国東条松原と申す大路にして申酉の時、数百人の念仏等にまちかけられ候て、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものの要にあふものはわづかに三、四人也。いるやはふるあめのごとし、うつたちはいなづまのごとし。弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事のてにて候。自身もきられ、打れ、結句にて候し程にいかが候けん、うちもらされていままでいきてはべり。
~南条兵衛七郎殿御書~
東条景信は鎌倉の問注所における所領問題の訴訟で領家の尼に敗れたことが腹立たしくてたまらなかった。何よりも領家の尼をバックアップしたのがあの日蓮であったことが、彼の怒りを更に大きなものにしていた。しかもあろうことか、その日蓮が今や景信の勢力圏で好き放題に布教活動を展開している。もはや景信にとって日蓮は仇敵であり、彼は隙あらば日蓮の命を狙おうと画策していた。
そんな折の文永元年(1264)11月11日、日蓮は天津の領主工藤吉隆の請いを受け、その館を訪れることとなった。この知らせは東条景信を歓喜させた。
「うわはははは。ついにあのくそ坊主も年貢の納め時じゃ」
景信は一族・郎党を呼び集めると、近隣の念仏信仰の者達にも大悪人日蓮を討つべし、と煽動して回った。
(いや待てよ。この際工藤一族も討ってしまうか)
景信は頃合いを見計らって天津の工藤吉隆に日蓮襲撃の報が届くように手配した。景信の所領近辺から、安房の国から、いやこの世から法華信者を抹消したい。熱心な法華信者である工藤左近吉隆は極めて目障りな存在だったのだ。
吉隆め、急を聞いて必ず押っ取り刀で駆けつけるに違いない………。
そんな陰謀を露知らず日蓮は弟子、警護の者あわせて10名ほどで小松原にさしかかってきた。時すでに申酉の時。すでに日も沈みかけて、あたりは薄暗い。
弟子の一人鏡忍房は風が動くのを鋭く感じた。影。殺気が四面を蓋う。彼は師の前に立ちふさがった。
「不覚。申し訳ありません。気づきませなんだ」
振り向きもせずこう言うと、鏡忍房は側に落ちていた松の木の太枝をつかみ取り大上段に構えた。油断。東条勢にすっかり取り囲まれている。何のために師のお供をしてきたのか。後悔の念が涌くより早く、影が割れ一際大きな騎馬武者が現れた。
「景信!」
全身の血が逆上してきた。
東条景信は鏡忍房には見向きもせずに日蓮に大喝した。
「日蓮。このくそ坊主め。今日こそ思い知らせてくれるわ」
言うが早いか景信は太刀を振り下ろしてきた。
「慮外者!」
鏡忍房がそれをうち払う。
「邪魔だ、木偶!」
しかし鏡忍房は一歩も退かない。松の太枝を自在に振り回しながら、巧みに取り囲む東条一党や念仏信者たちを威嚇する。
「師の御坊にはこの隙にお逃げ下され」
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます