昨年4月に末期癌が見つかってから8カ月。時間は一瞬たりとも足を止めることなく父の最後の日々を駆け抜けた。
秋以降、日常生活がままならなくなっていく父を目の前にしても、まさか別れがすぐそこに来ているとは考えられなかったし、考えたくなかった。
それでも父の傍を離れがたい気持ちは増すばかりで、2週間の予定だった10月半ばの一時帰国は幾度となく延期されることとなった。
11月下旬には息子の入隊を見送りにイスラエルに戻るか、いつ容態が急変するかわからない父の傍に残るか、私の人生において恐らく今までで一番大きな決断を迫られた。
父を取るか息子を取るかの選択は葛藤を極めた。
その時に思い出したのは、数カ月前に父がふいに呟いた「のんは18で家を出たから18年しか一緒におらんかったなぁ」のひと言。
直前に父を見舞って様子を知っている息子に相談したところ「イマが思う通りにしたらいいよ。自分なら大丈夫だから。乗り越えていこう」と背中を押してくれた。(*イマ=お母さん)
夫にも娘にも家のことは心配するなと言われ、かくして私は父の最期を看取る決意に至った。
妹が交代してくれる週末以外は父の入院先であるホスピスで週に3〜4泊。
日中も眠っていることが増えていく父の傍に私はひたすら佇み続けた。父が目を覚ます時に病室でひとりぼっちということがないように。
何ができるというわけではない。ただ父に安心して欲しかった。
幸いなことに食事制限のなかった父は、私たちが差し入れるものを喜んで食べた。
こんなに甘い物が好きだったっけ?と思うほど甘党と化した。
時には焼き鳥が食べたいだの餃子が食べたいだのとリクエストを出し、病室が居酒屋さながらの匂いに包まれることも。
入院先のホスピスは主治医をはじめ看護師、その他のスタッフの皆さんが本当に心優しい方たちばかりで、入院に後ろ向きだった父も付き添う私たちもすぐに打ち解けることができた。
父の最後の日々は世の中にはこんなにたくさん優しい人がいる、まだまだ捨てたもんじゃないと感じるものだった。
娘の私が言うのもなんだが、それもこれも人との出会いやご縁を大事にする父の人柄があってこそだったかもしれない。それほど父の周りには自然と優しい人々が集った。
私自身も様々な形で多くの人に支えてもらった。
家族や友人知人、思いもよらない人からも。
父は、人は一人きりで生きているのではないということを病床で寝たきりになりながらも教えてくれたのだと今になって思う。
死の4日前、末期の症状が進んで意識が混濁しつつある父と私は二人で笑い合った。突然父が語り出した夢はとても壮大なのに冗談のような子供じみた矛盾を含んでいて、私が「それはずいぶん楽しそうやね」と笑うと「ね、よかろ?」と言って父も笑っていた。本当のところ辻褄の合わない発言はいよいよ終わりがもうすぐそこまで近づいてきている兆しだから、私はうっかり泣き出してしまいそうだった。でも、できる限り笑顔を見せるんだと決めた以上そこで泣くわけにはいかなかった。
今までにない痛みを訴えたのち父が自力で座ることも、まともに話すことも、食べることもできなくなったのはその翌朝のことだった。
こちらの声かけに目で応えるのが精一杯になっている父。
熱が出て、血圧が下がり、少しずつ反応が鈍くなっていく。
そして亡くなる前日。目は開いているのに目線を合わせることさえ困難になっている父が私の手を握りしめた。そこには父の明確な意思があった。手の温もりを感じることがその瞬間のすべてだった。
2017年12月18日午前10時過ぎ、父は私たち子供に見守られながら78歳の生涯に幕を閉じた。
私たち兄妹は奇跡的に全員父の傍に揃うことができたのだった。
苦労の多かった人生を父が全うした瞬間。
誰からともなく「お父さん、お疲れ様」という言葉がこぼれた。
2017年は予想だにしなかった父の闘病と別れがあり、その一方でいくつかの夢や願いが叶うという嬉しい出来事もあり、はじめのうち私はその狭間で戸惑うばかりだった。現実感に欠ける悲しみと喜びとをどう取り扱えばよいのかわからなかった。
でも、全てが終わって父を見送る時に気づいたのは、この人の娘でよかったという思いと、春よりも強くなった私自身だった。
楽しい思い出も今はまだ涙を誘うけれど、私たち家族が新たな一年へちゃんと前向きな気持ちで踏み出していけるよう計らったかのような父の最期には、同じ親として学ぶものが多かった。
私の人生の最大の理解者であり応援者であった父の想いを受け継いでいきたい。
Nozomi
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