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みなさんこんにちは。
小田原の観光名所 海鮮料理が人気|小田原早川漁村です。
今日は小田原の歴史上一番の大事件小田原攻めを見てみましょう
豊臣秀吉は『小田原攻め』で北条氏政とどう戦ったのか?
北条軍は最初から、支城の諸将の主力を小田原城に集めており、難攻不落の小田原城の籠城戦を決めていたようです。
◎秀吉の”一夜城伝説”のひとつの笠懸山(石垣山)の城はどんなものだったの?
小田原本城の戦いは見るべきものがほとんどないのですが、秀吉らしい話としてあるこの石垣城はどんなパフォーマンスだったのでしょうか?
この城は、小田原城の西3kmのところにある標高257mの笠懸山山頂に建設されました。
本丸、西の丸、曲輪3棟からなる本格的城郭で『一夜城』の名にふさわしくない、関東地区では初めての石垣を持った城塞でした。
『一夜城』と異名を取る理由は、完成の前日の夜に城の建造を隠していた樹木を取り払ったので、突然城が出現したように見えて、北条側が大いに驚き、落城が早まったとされている逸話によります。
しかし、北条側の資料に着工日が記録されているらしく、建造に80日間かかったと判明しています。
80日間と云えば、今の一般住宅でもそれくらい掛かるものもありますから、如何にも早いですが、延べ4万人もの人足を使う大工事をやっていれば、気が付かない方がおかしい訳です。
私の考えですが、、、
北条方に衝撃を与えたのは、城が急に現れたことではなくて、城があまりにも本格的な城郭であったため、秀吉の力と秀吉のこの戦いにかける本気度が彼らの心胆寒からしめたと云うことなんでしょう。
石垣城は、実際築城された立派な城ですが、その意味合いについては少し脚色されているようですね。
秀吉は6月26日に完成した城に約100日間ほど滞在して、北条との戦後処理を行ったと伝えられています。
この攻城戦は秀吉の天下取りにとってどんな意味があったの?
本能寺の変(天正10年6月2日)からの秀吉の動きは、、、
- 天正10年(1582年)6月4日備中高松城攻めー毛利と和睦
- 天正10年(1582年)6月13日山崎の戦いー光秀の三日天下を終わらせる
- 天正10年(1582年)6月27日清須会議ー織田家後継問題で優位に立つ
- 天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いー織田家内の筆頭となる
- 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いー宿敵家康と政治的に和睦
- 天正15年(1587年)紀州・四国・九州平定ー西日本諸将の臣従
- 天正16年(1588年)4月14日後陽成天皇聚楽第行幸ー全国諸侯の臣従
と云う一連の動きの最後に関東の雄北条氏との談判が残りました。
当時北条氏は関東地区をほぼ制覇して、最大版図を達成し、250万石を誇る巨大勢力となっていました。
秀吉は最初から北条を戦って潰す考えだったのかと云うと、家康とのいくさでウンザリしていたはずの秀吉はその轍は踏まないことを考えていた可能性は有ったと思います。
と考えると、氏政の取るべき道はたくさんの選択肢があったのではないでしょうか。
しかし、歴史の事実は両勢力の激突と云う形で姿を現しました。
もうここまで来たら、秀吉にも選択肢はありません。
秀吉の天下取りの最後の関門である北条氏の討伐は、秀吉の天下取りを確定させる戦いとなりました。
豊臣秀吉と北条氏政の心情はどうだったの?
豊臣秀吉と北条氏政を語る場合に両者の決定的な違いについて述べておきましょう。
秀吉の話をするには、元主君の織田信長について幾つかお話しておかねばなりません。
元々織田氏は室町幕府足利将軍の有力一門で細川・畠山と並ぶ三管領家であった守護大名の斯波氏の尾張の国守護代を務めていました。
戦国の世になって、織田一族の弾正忠家の信長が一族の争いを制して頭角を現しました。
これが戦国の覇者織田信長です。
信長は日本の武士の戦いの方法に革命をもたらした戦争の天才です。
簡単に云うと、信長以前の戦闘は土着・土豪の半農半武の部隊同士の戦いでした。
つまり、田畑の世話があるので、田植えと収獲の時期には大戦(おおいくさ)が出来ないのです。
ところが、信長は侍大将以外の戦闘員の足軽も職業軍人に仕立て上げて、365日いつでも戦争が出来るようにしました、『織田軍団』の誕生です。
この為に兵糧米の確保に、信長は商業を発展させて銭を蓄えて、これで兵糧米を購入することで農業の代わりにしました。
日本史上で軍事力強化を目的として、商業振興を行った武将は信長が初めてだと思います。
加えて、家中の質素倹約蓄財に努め、支出を極限まで抑えて、軍事費に回す努力を惜しみませんでした。
この中で頭角を現してきたのが、木下藤吉郎です。言わずと知れた後の豊臣秀吉です。
なにも彼は”草履取り”でゴマを摺って出世したわけではありません。
清州城の奥向きのコストカットを無理なく行い、マネージャーとして類まれな実績を示して、織田信長の目に止まったと言われています。
信長子飼いの無骨もの達にはこのように目端の利く人間はいなかったのですね。
ちょっと、横道にそれましたが、要するに『織田軍団』の武将は土着武士ではないので、いくら転勤(国替え)させられても平気なのです。
ところが、北条氏政は違いました。自分の領地領民を先祖からもたらさせた財産と考え、守る事に全力を挙げるのです。
徳川家康も北条氏政も、織田軍団の兵士になったことはありませんので、”土着武士”です。領地領民にしがみつきます。
しかし、優秀な織田軍団の一員で、生まれてこの方そんな財産を持たずに育った秀吉はおのれの腕一本で危難を乗り切っています。
この違いが両者の心情の差であったと考えられます。
簡単に云えば、秀吉の”攻め”と氏政の”守り”でしょうか。
氏政の考えは、小田原城の籠城戦の最中に姻戚の家康を寝返りさせ、伊達政宗の応援を得れば、秀吉は囲みを解いて、西へ撤退するに違いないと踏んでいたのでしょう。
徳川・伊達の北条からの離反がはっきりした時の氏政の落胆は目に見えるようです。
しかし、まだこの巨城の力を信じていた氏政は籠城を続けますが、、、
ほどなく天正18年(1590年)6月26日に石垣城が堅固な要塞として姿を現して秀吉が長期戦を戦い抜く覚悟を北条側にはっきり示した時に、
もう雪崩を打って城内の雰囲気が(秀吉の読み通り)開城に傾いて行き、7月5日の開城へとつながって行きます。
小田原城無くして、北条氏はあり得ないとの思いは強くあり、それが小田原城無敵伝説を作っていたのかもしれません。
結局、この城は武力で落ちずに、人で落ちたと云えそうです。
戦場となった小田原の町ってどんなところ?
現在の小田原市は神奈川県西部にあり、東西17.5km・南北16.9kmで面積114.06平方㎞。
南西部は箱根連山につらなる山地で、東部は大磯丘陵につながり、中央部には酒匂川が南北に貫き、南部は相模湾に面しています。人口20万人弱のこじんまりした地方都市です。
戦国時代当時の人口ははっきりとはしませんが、6千人前後ではないかと言われています。
江戸時代末期の人口は1万3千人くらいと判明しています。
と云う事は、件の”小田原攻め”の時は秀吉軍20万人、北条軍5万6千人とか言ってますので、この時が歴史上の最大人口なのかもしれませんね。
また箱根越えの手前の宿場町として江戸時代は繁栄をし、人口も増加していますが、絵師の狩野派の分派が居住してその面でも人の出入りが多かったようです。
小田原攻めの旧跡、北条氏5代に亘る史跡と富士・箱根観光の拠点として交通の要衝とも
なっており、史跡巡りも含めて魅力が多く、東京の近隣都市として、もっと見直されてよい町ではないかと思います。
小田原周辺の北条氏ゆかりの観光地は?
小田原周辺は観光地が近隣に多いので、今回の北条氏・秀吉小田原攻めに関連するところに絞りました。
北條氏本城の小田原城が秀吉の大坂城より巨大だったと云う史実を実感して見ましょう。
◎小田原市周辺
☆早雲寺(神奈川県足柄下郡箱根町湯本405)北条五代の菩提寺
初代早雲の遺言でその子氏綱が1521年に創建。1590年秀吉の小田原攻めの本営が置かれたが、石垣山城の完成とともに焼き払われ、江戸期に復興。
小田原市内から早雲寺へのルート小田原駅⇒(箱根登山鉄道14分310円)⇒箱根湯本⇒(徒歩10分900m)⇒早雲寺⇒箱根登山鉄道の時刻表を見る
◎小田原市内
〇旧小田原城遺構を見て歩きましょう
☆小田原城址公園(小田原市城内6‐1)小田原駅から城址公園へのルート小田原駅東口⇒(徒歩南島へ6分500m)⇒城址公園北口
回るやり方で所要時間はまちまちですが、広大な旧城内ですので、一応回るだけで自転車で3時間程度、徒歩では20㎞くらいを見学して歩くことになりますので、少なく見積もって7~8時間くらいかかりそうです・笑。行くところを決めましょうね。
小田原城
常盤木門
住吉橋
銅門
小峯曲輪北堀
〇旧小田原城外殻総構えの規模を見る遺構です
☆幸田口門跡(小田原市栄町)三の丸土塁跡
☆大手門跡鎧楼(小田原市本町1-5-24)
☆早川口遺構(小田原市南町4-4)
☆小田原城址江戸口見附址(小田原市浜町2-7)
☆蓮上院土塁(小田原市浜町2-1)
☆小田原用水(早川上水)取入口(小田原市上板橋)この古水道は北条時代に作られたと言われている。
☆北條稲荷神社(小田原市浜町4-21-10)蛙石(かわずいし)と云う石があり、小田原の危機の時に蛙が鳴くと言う。後の関東大震災の時も鳴いたそうです。
◎宿泊して、もう少し回ってみようと思う方はこちらから宿泊場所探せます⇒
▲春の小田原城
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小田原の観光名所 海鮮料理が人気|小田原早川漁村は、小田原・相模湾の海鮮料理が楽しめる観光グルメスポットです。元々魚屋ということもあり、「もっと小田原が誇る海の幸の海鮮料理でもてなし、最高の思い出をつくってほしい!」という強い想いで、鮮度にこだわり、小田原漁港の目の前に開業しました。朝穫れの新鮮な魚介を、【浜焼きバーベキュー】【海鮮丼】【しらす料理】【牡蠣焼き】で楽しんで、帰りには、お土産を選んで仲間との最高の思い出をつくって下さい!
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