フォ~☆シーズン~☆

思っているんだけどウサギは?からスタート
てくてく山歩き・神社参りを楽しんで、今が一番素敵に過ごせたら・・

将軍墓所特別公開(徳川家霊廟)

2010-04-10 | ■関連その他 山と神社仏閣

 

桜も満開が過ぎた頃、芝・増上寺へ行って来た。

偶然にも御忌大会・ふれあいフェア期間中(無料)で、徳川家霊廟にお参りすることができた。

上野の寛永寺と共に徳川家の菩提寺で、歴女?海外の観光客がたくさん拝観していた。

TOP画像は「鋳抜門」、ここから入ります。

 

 

 

扉に五個づつの葵の紋章を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれています。

特別な場所に来たことを、肌で感じる荘厳さを、、、緊張しながら。。。

 

 

【9代家重公】 8代吉宗の長子として正徳元年(1711)生まれる。

成長するにつれ、しだいに病気がちになり、将軍になっても政務は重臣に任せた。

調査によれば、重度の歯ぎしりにより発音障害があったようである。

が、復元される容貌は歴代将軍の中でも最も美男子であったようで、

遠くから拝謁するだけの大名にとっては気高く見えたという。

宝歴11年(1761) 51歳逝去。

 

【2代秀忠公夫妻】 家康の第3子として天正7年(1579)に生まれる。

慶長10年(1605)に第2代将軍の位に上った。

寛永9年(1632)54歳で逝去。

 

 

【静寛院和宮】 14代将軍家茂の正室、

静寛院和宮は仁孝天皇の第8皇女として弘化3年(1846)に生まれる。

和宮は嘉永4年、6歳の時に有栖川宮と婚約が成立したが、

婚儀間近になって公武合体策によって降嫁、15歳であった。

和宮は家茂死後、落飾して静寛院と称した。

明治10年(1877)31歳で逝去。

 

【14代家茂公】 家茂は家斉の子、斉順の長子として弘化3年に生まれる。

安政5年、将軍家の養子となり14代将軍となった。

しかし世継問題と日米通商問題で幕府は大きく揺れ、

井伊直弼によって安政の大獄が始まったが、

事態収拾のために公武合体策をとり、和宮親子内親王(静寛院)を正室に迎えた。

尊王攘夷派と幕府の対立が激化する中で、

家茂は第1次長州征伐を指揮し、第2次長州征伐中、大阪城で病没。

慶長2年(1866)享年21歳。

 

【12代家慶公】 家斉の第2子として寛政5年(1793)に生まれる。

天保8年(1837)将軍となる。「天保の改革」に着手するが、

失敗に終わり、幕府は没落の道に進む。

家慶は慌しい世情の中寛永6年(1853)61歳で逝去。

 

【6代家宣公夫妻】 家光の三男綱重の子として寛文2年(1662)に生まれる。

新井白石等を重用し政治の刷新をはかり、

生類憐れみの令を廃止するなど、「正徳の冶」を成し遂げたが

将軍職わずか3年にして病に倒れる。正徳6年(1716)51歳逝去。

 

【7代家継】 家継は家宣の第3子として、宝永6年(1709)に生まれる。

父の逝去とともにわずか3才で将軍についた。

元来病弱で正徳6年(1716)、8歳逝去。

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埋葬されているのは2代秀忠公、6代家宣公、7代家継公、9代家重公、12代家慶公、14代家茂公の将軍の他、皇女和宮様(14代家茂公夫人)ら5人の正室、3代家光公側室桂昌院(5代綱吉公実母)はじめ5人の側室、及び3代家光公第3子甲府宰相綱重公ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されています。

上記参考資料=増上寺リーフレットより

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  霊廟の前に<舟形石>意味無く撮ったのですが、自然石ならすごいですね。

三途の河を渡る舟とか、ノアの箱舟の意味とか?、、、前者でしょうね。

最近はパワースポットとして神社・仏閣を訪れる人が増えているそうですが

確かにこの空間は気場のようなエネルギーが流れているのかもしれない^^。

江戸の町は風水に基づいて設計されているとか、

江戸城の鬼門の方角(東北)名刹浅草寺を選定。

その後、上野の山に寛永寺を配置。

裏鬼門の方角(南西)の押さえに芝・増上寺を配置した。

 

パワースポット

 

 



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