桜も満開が過ぎた頃、芝・増上寺へ行って来た。
偶然にも御忌大会・ふれあいフェア期間中(無料)で、徳川家霊廟にお参りすることができた。
上野の寛永寺と共に徳川家の菩提寺で、歴女?海外の観光客がたくさん拝観していた。
TOP画像は「鋳抜門」、ここから入ります。
扉に五個づつの葵の紋章を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれています。
特別な場所に来たことを、肌で感じる荘厳さを、、、緊張しながら。。。
【9代家重公】 8代吉宗の長子として正徳元年(1711)生まれる。
成長するにつれ、しだいに病気がちになり、将軍になっても政務は重臣に任せた。
調査によれば、重度の歯ぎしりにより発音障害があったようである。
が、復元される容貌は歴代将軍の中でも最も美男子であったようで、
遠くから拝謁するだけの大名にとっては気高く見えたという。
宝歴11年(1761) 51歳逝去。
【2代秀忠公夫妻】 家康の第3子として天正7年(1579)に生まれる。
慶長10年(1605)に第2代将軍の位に上った。
寛永9年(1632)54歳で逝去。
【静寛院和宮】 14代将軍家茂の正室、
静寛院和宮は仁孝天皇の第8皇女として弘化3年(1846)に生まれる。
和宮は嘉永4年、6歳の時に有栖川宮と婚約が成立したが、
婚儀間近になって公武合体策によって降嫁、15歳であった。
和宮は家茂死後、落飾して静寛院と称した。
明治10年(1877)31歳で逝去。
【14代家茂公】 家茂は家斉の子、斉順の長子として弘化3年に生まれる。
安政5年、将軍家の養子となり14代将軍となった。
しかし世継問題と日米通商問題で幕府は大きく揺れ、
井伊直弼によって安政の大獄が始まったが、
事態収拾のために公武合体策をとり、和宮親子内親王(静寛院)を正室に迎えた。
尊王攘夷派と幕府の対立が激化する中で、
家茂は第1次長州征伐を指揮し、第2次長州征伐中、大阪城で病没。
慶長2年(1866)享年21歳。
【12代家慶公】 家斉の第2子として寛政5年(1793)に生まれる。
天保8年(1837)将軍となる。「天保の改革」に着手するが、
失敗に終わり、幕府は没落の道に進む。
家慶は慌しい世情の中寛永6年(1853)61歳で逝去。
【6代家宣公夫妻】 家光の三男綱重の子として寛文2年(1662)に生まれる。
新井白石等を重用し政治の刷新をはかり、
生類憐れみの令を廃止するなど、「正徳の冶」を成し遂げたが
将軍職わずか3年にして病に倒れる。正徳6年(1716)51歳逝去。
【7代家継】 家継は家宣の第3子として、宝永6年(1709)に生まれる。
父の逝去とともにわずか3才で将軍についた。
元来病弱で正徳6年(1716)、8歳逝去。
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埋葬されているのは2代秀忠公、6代家宣公、7代家継公、9代家重公、12代家慶公、14代家茂公の将軍の他、皇女和宮様(14代家茂公夫人)ら5人の正室、3代家光公側室桂昌院(5代綱吉公実母)はじめ5人の側室、及び3代家光公第3子甲府宰相綱重公ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されています。
上記参考資料=増上寺リーフレットより
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霊廟の前に<舟形石>意味無く撮ったのですが、自然石ならすごいですね。
三途の河を渡る舟とか、ノアの箱舟の意味とか?、、、前者でしょうね。
最近はパワースポットとして神社・仏閣を訪れる人が増えているそうですが
確かにこの空間は気場のようなエネルギーが流れているのかもしれない^^。
江戸の町は風水に基づいて設計されているとか、
江戸城の鬼門の方角(東北)名刹浅草寺を選定。
その後、上野の山に寛永寺を配置。
裏鬼門の方角(南西)の押さえに芝・増上寺を配置した。