青梅街道と早稲田通沿いにある井草八幡宮へ行ってきました
先の投稿<東伏見稲荷神社>からの帰り道で、青梅街道を通るたび気になっていた神社
駐車場から東参道の大鳥居まで歩いて、コーナーを周って来たのですが広大な敷地です
井草八幡宮 由来書き
井草八幡宮の鎮座地は古くは南に清流を望む付近第一の景勝地で
境内及び周辺の地域からは、石器時代の住居址が数多く発見され、種々の土器や石器が発掘されている
このように当社は古代より人々の住んでいた所で善福寺池を中心として宿駅としても栄え
その後も中世初頭頃まで武蔵野台地のまっただ中の交通の要衝として、オアシス的存在となっていた秀麗の地に鎮座し
古地名を冠して遅井(おそのい)八幡宮とも称せられていた
御祭神は八幡大神/応神天皇と申し上げ御神徳あらたかな大神様である
文治5年源頼朝が奥州藤原氏征討の途次、当社に祈請して霊験を得
報賽のために松樹を手植し、奉献したと伝えられ、それが老松「天然記念物-井草八幡の松」であった
残念なことに此の老松は昭和48年枯れてしまったがその樹根の一部が現在当社回廊に飾られている
文明9年には太田道灌が石神井城の豊島氏を攻むるに当たり当社に戦勝を祈願したと云い伝えられている
江戸時代に至って三代将軍家光は、寺社奉行井上正利をして社殿を造営せしめ
又歴代の将軍は何れも朱印地を寄進し江戸末期の萬延元年に及んでいる
地頭今川氏も深く当社を尊崇して或は社殿を改築し、諸調度を奉献する等その興隆を図り毎年例祭には幣物を奉るのを恒例としていた
井草八幡宮の祭礼は古くから提灯祭と称せされ氏子中で毎戸提灯一箇を奉納し社頭にかかげたので
これに灯火をつけると実に綺麗であったので近郊にその名が知られていた
明治以降氏子崇敬者また良く社殿の修造、境内の整備等に務め、昭和3年郷社に列せられたが
その後更に社殿等を増築し、文華殿(宝物殿)・幼稚園・民族資料館等を設置した
例大祭日は10月1日で、3年毎に神輿の渡御、5年毎に鎌倉の昔をしのぶ珍しい流鏑馬の神事が行われている
昭和41年には旧官国弊社に準ずる別表神社に列せられ今日に至っている
「東参道」
直線距離は約200mあり、5年に一度行われる流鏑馬神事では馬場となるそうです
参道を歩いていると、響き渡る大太鼓の音が聞こえた
振り返って ↓
走り込みしている方、犬の散歩の方もいたり、、
長い参道で、名残りセミの鳴き声も聞こえました
「 楼門」
楼門から入って右側(神輿庫)で、氏子さん達が大太鼓の練習をしていたのですね
神事の例大祭の稽古でしょうか、立派な大太鼓でした
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H28年「例大祭 宵宮」
9月30日(金) 宵 宮
神 事 宵宮祭斎行 午後5時
奉納行事 井 草 囃 子 午後4時より(神楽殿・招神殿)
井草の大太鼓 午後6時より(神門前)
献 華 早朝より午後10時まで(回廊)
神賑行事 文華殿公開 午後4時より午後9時まで
参道の出店 正午より午後10時頃まで
[閉門 午後10時]
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「 手水舎」
都内とは思えない 静寂で日本の美を感じる境内と神門
源 頼朝公 「お手植えの松」
2代目の黒松
落ち着いた「神門」
「拝殿」
町の鎮守様という感じで、ご参拝者は後を絶ちません
武蔵野の森に囲まれた境内、都内でも有数の広さ(約一万坪)
「招神殿」(しょうしんでん)
文化10年(1813)に造られた元拝殿
現在は祖霊舎として戦争で亡くなった方をお祀りしています
枠の「空き地」?は祓い所でしょうか?
↓ も
「大燈籠」と「北参道」
私たちは分からなくて大鳥居まで周ったのですが、北側の参道からでも大丈夫らしいですね(;''∀'')
青梅街道の交差点の角が駐車場
御朱印