徳川秀忠は正式な側室を持たなかったということで、恐妻家とされています。
その怖い奥さんは「お江」です。淀君の妹で、などと説明しなくても一応大河の主役になってますから、みなさん周知の「お江」です。
一方で「かわいそうなお江の身の上を思って、側室を持たなかった」という「優しい旦那説」もあります。
大河「江」。きちんと見てません。6月ぐらいで「これ以上は無理だ」と思って見ませんでした。
だから秀忠の扱いも分かりませんが、向井理さんが演じてました。やけにクールだったような気がします。
大河「江」。最低というより無茶苦茶が過ぎて「気味が悪い作品」なんですが、調べてみるとちゃんと「最低作品賞」も受賞しているようです。
そりゃそうだ。ひどすぎて作品を批判する気すら起きません。狂気の沙汰の作品です。
柳生もので、蟹江敬三さんが秀忠を演じたことがあって、あれなんかは良かった。家康が死ぬと「ついにくたばったか、あの狸じじい」とか言ってました。
船越さんのケースなんか見ると、怖い奥さんは本当に怖いな。怪談の数百倍怖いな、とは思います。
でも「江」なんて何の後ろ盾もない女です。当初は秀吉の後ろ盾がありましたが、当然なくなります。ただの浅井長政の遺児です。怖いかな?と単純にそう思います。
恐妻家じゃなかった、に別に根拠はありません。でも怖くないでしょ、彼女の身分から考えても。お市の娘で織田系でもありますが、秀忠にとって織田なんて主筋でもなんでもありません。
あまり男子を作りたくなかった。特に側室系の男子を持ちたくなった、のではないかと思います。プラス大奥の混乱も面倒だった、お江VS春日局で十分に混乱しているわけですから。
「江」は多産なんですね。たまたま男子は二人でしたが、全部男子だったらそれだけで5人か6人です。
男子が多いことは子孫を残すぶんにはいいですが、非常に厄介というのは、親父家康の例で分かっているはずですし、何より彼には二人も兄がいました。
長兄は早くに親父によって死を命じられていますが、次兄の結城秀康は秀忠が将軍になった段階では生きています。その他弟も沢山いました。
まあ当時は子供が大人まで成長する「確率」が非常に低いので、「男子を作りたくなかった」という私の説もあまり説得力はない、と自分でも感じますが。
でも結果としては「家光」と「忠長」という「二人しかいない男子」でさえ、確執を深め、ついには忠長は切腹ということになります。
周知のように秀忠にはもう一人、男子がいます。家光の弟ですね。
でも庶子だったので、徳川姓も、松平姓さえ秀忠は与えません。(制度的な側面もあるようです)
でも結果としてはこれが大成功でした。
彼は保科家に育てられ、保科姓を名乗り、将軍の弟だという身分を主張することは決してありませんでした。
言わずもがな、保科正之です。家臣として家光に重用され、家光亡き後は4代家綱の幕閣となりました。江戸期のおいて最も卓越した政治家と言われています。
会津藩の藩祖でもあります。生涯松平姓は名乗りませんでした。会津が松平になったのは3代目からのようです。
もっとも保科正之はあまりに兄ではあるが何よりも主君である徳川家光に信頼され、愛情を受け、そのあまりに徳川宗家に対して恩義や愛情を持ちすぎました。
その会津藩の「徳川愛」が、260年後に会津武士を追い詰めることになります。会津だって徳川宗家と同じように恭順していたのですが、なにせ新選組の雇い主です。
薩長がどうしても許さず、あの悲惨な会津戦争になっていきます。
なんだか恐妻家話からいつの間にかズレてしまいましたが、まとめようもないので、終わりにします。
その怖い奥さんは「お江」です。淀君の妹で、などと説明しなくても一応大河の主役になってますから、みなさん周知の「お江」です。
一方で「かわいそうなお江の身の上を思って、側室を持たなかった」という「優しい旦那説」もあります。
大河「江」。きちんと見てません。6月ぐらいで「これ以上は無理だ」と思って見ませんでした。
だから秀忠の扱いも分かりませんが、向井理さんが演じてました。やけにクールだったような気がします。
大河「江」。最低というより無茶苦茶が過ぎて「気味が悪い作品」なんですが、調べてみるとちゃんと「最低作品賞」も受賞しているようです。
そりゃそうだ。ひどすぎて作品を批判する気すら起きません。狂気の沙汰の作品です。
柳生もので、蟹江敬三さんが秀忠を演じたことがあって、あれなんかは良かった。家康が死ぬと「ついにくたばったか、あの狸じじい」とか言ってました。
船越さんのケースなんか見ると、怖い奥さんは本当に怖いな。怪談の数百倍怖いな、とは思います。
でも「江」なんて何の後ろ盾もない女です。当初は秀吉の後ろ盾がありましたが、当然なくなります。ただの浅井長政の遺児です。怖いかな?と単純にそう思います。
恐妻家じゃなかった、に別に根拠はありません。でも怖くないでしょ、彼女の身分から考えても。お市の娘で織田系でもありますが、秀忠にとって織田なんて主筋でもなんでもありません。
あまり男子を作りたくなかった。特に側室系の男子を持ちたくなった、のではないかと思います。プラス大奥の混乱も面倒だった、お江VS春日局で十分に混乱しているわけですから。
「江」は多産なんですね。たまたま男子は二人でしたが、全部男子だったらそれだけで5人か6人です。
男子が多いことは子孫を残すぶんにはいいですが、非常に厄介というのは、親父家康の例で分かっているはずですし、何より彼には二人も兄がいました。
長兄は早くに親父によって死を命じられていますが、次兄の結城秀康は秀忠が将軍になった段階では生きています。その他弟も沢山いました。
まあ当時は子供が大人まで成長する「確率」が非常に低いので、「男子を作りたくなかった」という私の説もあまり説得力はない、と自分でも感じますが。
でも結果としては「家光」と「忠長」という「二人しかいない男子」でさえ、確執を深め、ついには忠長は切腹ということになります。
周知のように秀忠にはもう一人、男子がいます。家光の弟ですね。
でも庶子だったので、徳川姓も、松平姓さえ秀忠は与えません。(制度的な側面もあるようです)
でも結果としてはこれが大成功でした。
彼は保科家に育てられ、保科姓を名乗り、将軍の弟だという身分を主張することは決してありませんでした。
言わずもがな、保科正之です。家臣として家光に重用され、家光亡き後は4代家綱の幕閣となりました。江戸期のおいて最も卓越した政治家と言われています。
会津藩の藩祖でもあります。生涯松平姓は名乗りませんでした。会津が松平になったのは3代目からのようです。
もっとも保科正之はあまりに兄ではあるが何よりも主君である徳川家光に信頼され、愛情を受け、そのあまりに徳川宗家に対して恩義や愛情を持ちすぎました。
その会津藩の「徳川愛」が、260年後に会津武士を追い詰めることになります。会津だって徳川宗家と同じように恭順していたのですが、なにせ新選組の雇い主です。
薩長がどうしても許さず、あの悲惨な会津戦争になっていきます。
なんだか恐妻家話からいつの間にかズレてしまいましたが、まとめようもないので、終わりにします。