散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

大河の中の上杉謙信・上杉景勝・直江兼続・上杉家・米沢藩

2019年01月21日 | 上杉謙信
上杉謙信

これだけ高名で、戦国最強説もありながら、大河ドラマで主役になったのは「たった一回」。それも私も覚えていないほどの昔です。石坂浩二さんの「天と地と」。

正義の人過ぎて面白くないのか。衆道(確証はなし、それに衆道なんて信長だってやっていた)がいけないのか。理由はわかりません。信玄が主人公の場合は副主人公にはなります。柴田恭兵さんとかガクトさんが演じました。

上杉家そのものは大変古い家です。足利尊氏の母が上杉氏です。謙信の若い時代、越後の守護は上杉定実(さだざね)でした。が、跡継ぎなく死んだため、将軍義輝は長尾景虎を守護並みにします。この長尾景虎が上杉謙信です。もっとも守護になる前から権力そのものは長尾家にありました。

上杉謙信は大層な酒好きで、50歳を前に、おそらく脳溢血であっけなく死んでしまいます。西に向かって動き出した時でした。そのあたりは「天地人」で描かれました。役者は阿部寛さんです。

毘沙門天に誓って女色を断っているわけですから、当然子供がいません。しかも悪いことに跡継ぎを指名していませんでした。そもそも越後だって一枚岩ではなく、派閥はありました。で、謙信の甥の上杉景勝を押す一派と、北条家からの養子の上杉景虎を押す一派で跡目争いが起きます。御館の乱です。これによって上杉家の力は相当落ちました。これも「天地人」で詳しく描かれています。どこまで史実かは微妙ですが。

「真田丸」に出てきた上杉景勝(遠藤憲一)は少し情けないところがありました。御館の乱によって謙信時代の上杉家の威光はもはやなくなっていたからです。「真田丸」は描きませんでしたが、織田信長に攻撃され、本能寺がなければ、おそらく滅亡していたでしょう。

重臣の直江兼続が頑張って、本能寺後の動乱をなんとか乗り切ります。豊臣秀吉からは江戸の抑えとしてか、会津120万石をもらいます。その前の越後時代は40万石程度でした。ちなみに謙信時代は最大で150万石程度(計算によって様々、商業収入も多かった)と言われています。

関ヶ原段階での行動は疑問が多いと思います。前田家が回避した家康の挑発を何故回避しなかったのか。直江状は本物なのか。そもそも徳川家と本気で戦うつもりだったなら、何故無理してでも軍勢を西に向けなかったのか。家康を挟み撃ちにするという作戦(存在したか分からないが)は机上のものとなり、結局は伊達と一生懸命に戦うはめになっています。

直江兼続は「天地人」でもなんでもなく、一生懸命上杉家の生き残りを図った人としか言えないような気がします。

それでも生き残りはできて、結局30万石になります。米沢藩です。しかし比較的早期に家督断絶によって改易の危険が生じます。が、徳川家光の弟、保科正之の助けで、なんとか家は存続します。しかし15万石に減封されました。江戸末期は19万石だそうです。

大河に上杉が登場するのは戦国時代だけではありません。徳川綱吉時代の「忠臣蔵もの」でも登場します。吉良の実子が上杉家の養子になって、上杉を継いでいたからです。親父を守ろうとして上杉綱憲は騒ぐが、重臣に止められる。というのがお決まりのシーンです。

もう一人、米沢藩には9代上杉鷹山というスターがいますが、大河に出たことはありません。大河にしても「道徳劇」みたいになってしまうからかも知れません。

真田昌幸と織田信長

2019年01月21日 | 歴史
真田昌幸(信繁=幸村の父)と織田信長を比べるのは「視点がおかしい」とは思います。真田昌幸はあれだけの謀略を使いながら、せいぜい6万石程度の領地しか持たなかった人間です。信長とはスケールが違います。年齢も信長が13歳ぐらい「年上」です。さらに言えば一時ですが、昌幸は織田家に臣従もしています。

が「真田太平記ファン」の私としては「つい比べてみたくなる」わけです。伊達政宗が「東北に生まれず、しかも信長と同世代だったら天下をとっていた」とは思いません。なにかというと伊達政宗は天下を狙っていたことにされますが、彼の一生を見る限り、そんなそぶりはありません。娘婿の「松平忠輝」が徳川宗家に「かなり警戒」されていたので、それが理由となって「松平忠輝を擁して天下に号令しようとした」とされることもありますが、「伝説」と言えましょう。伊達政宗は徳川幕府に対し実に忠実です。

同じように「真田昌幸が信濃に生まれなかったら天下をとれた」というのも「伝説」です。それと「分かりつつ」書いています。

真田昌幸の「不幸」は「主君武田家がしっかりしていた」ということです。下克上を起こそうにも、そんなスキは勝頼時代だってありません。信長の場合、父の代ですでに「主君は力を失って」いたわけです。斯波氏ですね。信長は「尾張を受け継いだわけでない」わけで、父の作った土台の上で、「自分で尾張を統一した」のですが、「主君が武田のように強大だったら」、無理だったでしょう。ちなみに斯波氏を滅ぼして尾張を統一したとは言えず、織田家同族との争いが主でした。

信長も昌幸も「小さな領地を継承した」点では同じですが、信長が「自由に振舞えた」のに比べ、昌幸にはそんな自由はなかったわけです。自由が欲しいとも思わなかったかも知れません。なにせ主君が武田信玄です。強大過ぎます。それに昌幸は信玄近習なわけで、下克上なんて発想そのものがなかったと考えられるわけです。

しかしその武田も滅び、昌幸は「ある種の自由」を得ます。しかし周りを見渡せば「織田→豊臣の勢力」「勢力を増した徳川家」「関東の覇者北条家」「衰えたと言えど強大な上杉家」に囲まれているわけです。彼が「本領安堵」、つまり「もともと持っていた領地を保全したい」と考えるのも当然です。どう見てもそれが「限界」だからです。

しかも彼の生まれた土地は「信濃」です。畿内で起きていたような下克上は「既に終わって」いました。信玄時代を見るならば「上杉」「武田」「北条」「今川→徳川織田」で周囲はがっちり固められていました。(北条早雲が下克上のはしり、武田信玄は父を追放、上杉謙信はもともとは長尾氏ですが、それら下克上は既に終わっていたわけです)

それに比して信長の周りにいた大名は「名門」でした。本拠の尾張は斯波氏。周囲には六角氏(佐々木氏)、北畠氏。古いけどやや力が弱い名門です。美濃は脅威でしたが、道三の娘をもらうことにより、解消します。もっとも道三死後は「最初の最大の敵」となりました。しかし美濃を攻略し、この時点で尾張+美濃、領国は100万石を超えます。しかも交通交易の要衝です。「美濃を制するものは天下を制する」とまでは言えないと思いますが(司馬ファンとしては言いたいのですが)、「日本の中心地帯の一部」であることは間違いないと思います。

しかも畿内では下克上の風潮が満ち満ちていました。浅井氏なんても「新興勢力」ですし、三好や松永など「下克上の権化」みたいな存在もいました。さらに本願寺勢力、これも「新興」と言えば新興です。

信長の力が真田昌幸をはるかに凌駕していたのは間違いありません。ただ「生まれた土地が良かった」のもまた間違いないと思います。