散文的で抒情的な、わたくしの意見

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松永久秀は「悪人」でも「下克上の権化」でもない。

2019年01月27日 | 松永久秀
題名はいささか「挑発的」につけました。ドラマでは大悪党として扱われます。ですから「学者さん」は「そうではない」と書きます。つまり学者という人種は「通説をつぶす」のが大好きなのです。私は学者ではないので別に「通説をつぶす」つもりはありません。

でも調べてみると、そんなに大悪党でもないのです。悪党であることはたしかですが。

松永久秀は「松永弾正」とも呼ばれます。最初の官位が「弾正小忠」です。織田信長家の「弾正忠」はおそらく自称です。でも松永の「弾正忠」は認可を得た本物です。

はじめ畿内を治めていた三好長慶に仕えます。

そもそも三好長慶に仕えているわけです。この人、足利の被官ですが、実権を握り、13代足利義輝を追い出したり、帰京させたりと忙しい人です。ともかくも幕府内で実権を握り、「三好政権」といわれる感じになるわけです。

つまり主君が「下克上」なわけです。主君の三好長慶が下克上なんだから、松永久秀はそれについていくしかありません。

その後三好長慶が死亡します。1564年。信長上洛の4年前です。

その後は、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)らと共に長慶の甥、三好義継を三好家の家督としてを支えます。三好三人衆は身分としては三好長慶の家臣です。

でこいつらが「将軍義輝を暗殺」します。

「松永久秀が将軍義輝を暗殺した」とされることが多いのですが、主犯は三好義継及び三好三人衆と久秀の息子の松永久通です。松永久秀は「直接参加はしていない」わけです。息子は参加しています。

その後三好三人衆は主君である三好義継と対立しますが、久秀は義継側についています。ここでも主君側で下克上はしていません。で三好三人衆と「戦争」です。

「三好三人衆は東大寺に陣を置いていた」から、当然東大寺が焼けてしまいます。これも久永の「悪行」とされますが、相手の陣があったわけです。

その後は信長の上洛です。これに協力し、義昭の幕臣になります。義昭が信長と対抗すると、義昭の命を受けて、信長に抵抗します。主君義昭は裏切っていないわけです。がこの時は信長に降伏(1572)

そして将軍義昭が追放されます。(1573)

1577年には信長に対抗して討ち死にします。信長に臣従してましたから、これは明確な反逆と言えると思います。信長が大和を筒井順慶にまかせようとしたのが原因とされています。ただ義昭の幕府が毛利で続いていたと考えるなら、ちょっと見方も変わります。

この久秀の最期。信貴山城の戦い。ドラマでは平蜘蛛釜に火薬をつめて爆死したことになっています。学説では「ウソ」です。が「ウソという証拠」も強固ではありません。久秀の首が残っていたとか自決したとかあるのが根拠です。まあ爆死にも証拠はありませんが、ドラマファンとしては爆死でいいと思います。

なお私はこの信貴山城の戦いは「秀吉の功績」だと思っていましたが、総大将は織田信忠です。佐久間信盛や謙信と戦っていた丹羽長秀も参加しているようです。

観音寺城の戦い・永禄11年(1568年)・豊臣秀吉登場す・ついでに蒲生氏郷も

2019年01月27日 | 歴史
最近は織田信長の上洛戦について書くことが多くなっています。

永禄10年と天正10年。1567年と1582年。この二つの「10年」が信長にとって非常に大切です。永禄10年は信長の上洛戦が実質的に始まった年です。正確には永禄11年からですが、伊勢平定を始めていますから、実質的には永禄10年が上洛戦の始まりです。こうして年代を並べてみると信長の天下統一戦は15年間です。その前は尾張統一・美濃攻略で、これに15年かかっています。天正10年が本能寺の変です。永禄と天正の間には元亀が3年ほどあります。

なお永禄10年は天下布武の印を使い始めた年でもあります。永禄10年・11年は安土桃山時代の始まりともされます。

信長は岐阜にいましたから、上洛戦で「邪魔」なのは、北伊勢(三重の北)の神戸氏と長野氏。これには養子を送って乗っ取ります。

最も「邪魔」なのは近江(琵琶湖辺り)の六角義賢・この人六角承禎という名で有名です。承禎は剃髪後の法名です。永楽2年には名乗っていたようですから、ここからは承禎と書きます。

信長は六角承禎とも戦いたくなかったようです。何度か使者を送って上洛協力要請をしています。義昭からも使者が出ています。岐阜からでは遠いと思ったのか、浅井の佐和山城に信長自ら出向いて、そこから六角と交渉したりしています。

しかし結局決裂します。これが永禄11年のことです。

信長は岐阜にもどって軍勢を整え、「1万5千の兵で出陣。のち加勢が加わり、軍勢は5万ほどになる」。主戦場は箕作城です。織田軍の陣容は

1、稲葉良通(稲葉一鉄)
2、柴田勝家・森可成
3、織田信長・滝川一益・丹羽長秀・木下秀吉

六角承禎は観音寺城にいました。しかし支城の和田城・箕作城が簡単に陥落。六角承禎は甲賀に逃走します。(この後も数年信長に対抗)

六角家家老・蒲生賢秀は日野城で最後まで抵抗する。しかし神戸氏らの説得を受けて降伏。人質を差し出す。この時の人質が蒲生氏郷。豊臣家では大封を有しましたが、ちょっと影が薄い人です。

木下秀吉が「信長記」に登場します。他の資料ではその3年ぐらい前に登場しているようです。

一番分からないのは「1万5千の兵で岐阜を出陣。のち加勢が加わり、軍勢は5万ほどになる」点です。1万5千に浅井の3千、徳川の1千が加わり5万、、、て計算が合いません。1万9千でしょう。

むろん伊勢や近江の国衆が「お味方」したのでしょう。その数3万。ちょっと多すぎるかなと思いますが、特に大きな異論はないようです。あっても私が知らないだけかも知れません。