散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

織田信長の子供たち・織田信忠・織田信雄・織田信孝・伊賀の乱

2019年01月22日 | 織田信長
織田信長には男子だけでも沢山の子供がいます。有名なのは長男信忠・次男信雄・三男信孝・四男秀勝(秀吉の養子となる)でしょう。

幼名がそれぞれ変わっています。まあまあ「まともな」幼名もありますが、9男の「信貞」にいたっては「人」だと伝わっています。名前が「人」です。

1、信忠

1576年には信長から家督を譲られていますから、本能寺段階では「織田家当主」です。幼名は「奇妙」です。
本能寺段階で26歳ぐらいであると考えられます。本能寺の変で討ち死にしますが、「逃げることもできた説」もあります。実際おじの織田有楽などは逃げたようです。
かつては「凡庸」として描かれました。というよりドラマではあまり深く描かれたことがありません。学説でも凡庸でしたが、最近は「普通並みの武将」だったとされています。
最近の「真田丸」では最初の方だけ登場しました。結構な威厳に満ちていて、徳川家康を「そんざいに扱って」いました。かつては織田と徳川は同等として表現されることも多かったのですが、最近は「本能寺段階では徳川は織田の家来格」として描かれることが普通になっています。
秀吉も彼になついていたとされています。彼が生きていたら、日本史は全く違ったものになっていた可能性があります。

2、三男 信孝

幼名は三七です。
たぶん秀吉によって殺された唯一の「信長の息子」です。実際は秀吉が信雄に命じて、殺しました。殺されたのだから「人並以上の人物だったのかも知れない」とされています。
ただこのブログでも書きましたが、本能寺段階では大阪あたりで1万5千の兵を有しながら「ほとんどに逃げられて」います。掌握力は低かったのかも知れません。

3、次男 信雄

何度も名を変えていますが、ここでは信雄で通します。幼名は茶筅(ちゃせん)、茶筅って茶をぐるぐるかき混ぜる道具です。なお通称は三介です。「三介」の方が有名です。
ほとんどの場合「アホ」として描かれます。大河「功名が辻」でもそうでした。映画「清州会議」ではアホさがデフォルメされていました。

史実は分かりません。が当時から軽く見られていたという資料もあるようです。
清須会議では秀吉が推薦する三法師が織田家を相続しました。信雄は家督を相続できませんでした。それでも伊勢・尾張・伊賀で100万石です。その後家康と組んで秀吉に対抗しますが、勝手に秀吉と単独講和して、家康を唖然とさせます。「アホとされる所以」はこのあたりです。あとフロイスによると、安土城を失火で焼いてしまったそうです。フロイス、信じていいのか分かりませんが。

天正伊賀の乱を起こしたことでも有名です。しかも勝手に1万の兵で伊賀に攻めこみ、負け、信長にしばかれています。でも結局は信長も伊賀攻めを決め、第二次天正伊賀の乱が起きます。総大将は信雄でした。5万を動員して非戦闘員も殺し、3万人を虐殺しています。このあたりを描いたのが映画「忍びの国」ですが、まだ見ていません。

大河では天正伊賀の乱(二回もしくは三回あった)はあまり描かれません。「虐殺シーン」になるからです。大河「国盗り物語」では描かれました。登場した代表的な忍者である葛籠重蔵(架空)が伊賀出身です。露口茂さんでした。必死に戦い「もしわしが生き残ったら、信長を生かしてはおかぬ」と誓います。その後信長を狙います。しかし本能寺を知って「そんな馬鹿な」と唖然とします。「生きる目標を失った」からでしょう。この葛籠重蔵という人はもともとは「梟の城」の主人公です。「梟の城」では秀吉を狙う設定です。

話を信雄に戻します。

豊臣期では貴人としてそれなりに大切に扱われたようです。尾張・伊勢・伊賀という大封を有して、内大臣にもなっています。しかし北条滅亡後の転封に反抗、改易です。遠流のあと秀吉お伽衆、1万8千石。

結局江戸幕府でも息子の領地と併せて5万石で「織田の血筋」を残したとされます。織田の血筋を残したかどうかは「他の血筋からの養子がなかった」かどうかが前提となりますが、それはまだ調べていません。

 まあ血筋なんて分かりません。400年の間に「浮気の子」がいたらそれでおしまいです。

織田信長の上洛戦・伊勢平定・織田信雄・織田信孝

2019年01月22日 | 織田信長
織田信長の上洛戦は永禄11年(1568)9月です。

義昭を奉じて上洛戦を決行する→尾張・美濃・伊勢・近江あたりから兵力4万が終結→あっと言う間に近江の六角義賢は逃げ出す→京大和の三好三人衆も逃げ出す→簡単に上洛

というイメージがある(少なくとも私には)のですが、よくよく見るともうちょっと複雑です。

信長は今の岐阜県・愛知県にいました。ここから京都に行こうとすると、滋賀県(近江)と三重県(伊勢)だけはどうしても避けられません。

武将としては近江の六角義賢と浅井長政が邪魔です。伊勢で邪魔なのは神戸氏・長野氏・そして国司である北畠具教などです。ただし浅井と北畠本家は京への直線ルート上にはありません。

上洛戦の以前から信長はまず伊勢攻略をはじめます。がそう簡単にはいきませんし、力攻めばかりだと信長も兵を失います。

で、「戦わずして攻略する」作戦を立て、まず北伊勢の神戸氏に狙いを定めます。具体的には信長の三男である三七信孝を養子にしないかと神戸氏に申し入れるわけです。神戸氏としても決戦して滅びるよりはということで、これを受け入れます。ここで織田信孝は一旦、神戸信孝になります。(時を経て織田信孝に復帰)

次は同じ北伊勢の長野氏です。これには信長弟の織田信包(のぶかね)を送り込みます。ということで一時、長野信包になるわけですが、この縁組はあっという間に解消されたようです。それでも長野氏は織田家の支配下になりました。この「織田信包」という人は映画「清須会議」で伊勢谷友介さんが演じた人です。豊臣期に15万石→3万6千石。江戸幕府でも本領安堵です。ただし3代で無嗣改易。

これで北伊勢は平定。上洛戦以前です。南伊勢の北畠具教は直線ルートにないので、後回しです。

近江の北にいた浅井長政とは誰でも知っている通り、「お市」を送り込んで婚姻関係。

ここまで準備して上洛戦です。信長に対し、近江の六角義賢は観音寺城の戦いで大敗。近江甲賀郡に逃げます。そこから6年ほど六角義賢はゲリラ戦を続けます。のち秀吉のお伽衆です。

信長は三好を駆逐して京都に入ります。三好は四国に移ります。が気がかりなのは大和(奈良)と南伊勢(三重南部)です。

大和には松永久秀がいました。が、実は既に上洛前から手は打っており、松永久秀は信長に協力します。

すると残りは南伊勢の北畠。北畠に対しては上洛の翌年力攻めを行います。が、持久戦となる。そこで今度は次男の織田信雄を送り込んで養子作戦に移行します。織田信雄は北畠具豊(北畠信雄)に改名です。この時、北畠氏は信雄というか信長によって虐殺の憂き目にあっています。織田信雄、この人、生涯に何度も名を変えて、結局江戸幕府でも生き残ります。

で伊勢平定がなされるわけですが、その翌年、つまり上洛の2年後には既に信長包囲網がしかれます。金ケ崎の戦いとか姉川の戦い、本願寺挙兵、長島一向一揆とかが起きるわけです。

補足、以上登場の人物のうち織田信孝。次男の信雄に比べれば「比較的まし」な人物とされ、四国遠征の「総大将」とされていました。補佐は丹羽長秀です。四国遠征の渡海のまさにその日に本能寺の変が起こります。ということは、織田信孝は当時京都に近い場所(摂津、大阪)で1万5千ほどの兵を有していたわけです。普通に考えれば「織田信孝が天下に一番近かった」はずです。「大返し」などしなくても、大阪にいるのです。細川藤孝・筒井順慶などを誘い込み、明智討伐だって「可能性としてはできた」はずです。

ところが「兵がほとんど逃げた」とされています。信孝一人ならまだ分かりますが、丹羽長秀だっていたのです。それで秀吉の到着をまって山崎の戦いとなります。「兵がほとんど逃げた理由」に興味が湧きます。当時は兵集結地の住吉におらず、岸和田にいたからという記事がありましたが、渡海の当日に本拠地を離れるものでしょうか。もう少し調べてみたいと思います。