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善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや、、、の思い出

2018年12月15日 | 哲学
高校では「倫理社会」が一番好きでした、「倫理」とは道徳ではなく、実質的な内容としては「哲学と宗教」です。だから「哲学・宗教・社会」ということです。ギリシャ哲学とか仏教とかを教わります。

親鸞の歎異抄について知ったのも、この授業においてです。逆に言うなら、高校3年になるまで私は親鸞という人間をほぼ何も知りませんでした。

「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」、恩師の岡野先生は素晴らしく博識な方で、高校生向きの参考書なども出しておられました。「その参考書のみ」、今でも持っており、今私の膝の上にあります。

高校の時の記憶ではこう説明なさったと思います。「自分は善人だと思っている人間すら往生は遂げられる。まして自分を悪人だと思っている人間はなおさらである。」

ひどく興味深い内容だったので、高校生のバカな私は、バカなりに色々考えました。

そして、なんだか「無知の知」みたいだなと「ずっと」思っていました。ところが今日参考書を詳しく読むと、微妙に違っています。

「人間はどんなに努力をしても、しょせんは煩悩具足の凡夫であって、善人とはむしろ自覚の足りない人のことです」。なるほどと改めて思いました。

司馬さんに「浄土」という短文があります(以下無用のことながら所収)。司馬さんの解釈が載っています。

岡野先生の解釈に似ていますが、また微妙に違います。

「解脱できる人を善人と言っている」が前提で「親鸞はそんな人は絶無かめったにないと思っている。いくら学問があり、精神力があっても、解脱できる人間というのは、これは一千万人に一人です」

つまり人間はほぼ全て悪人である。そんな悪人でも往生はできる。それが司馬さんの解釈です。

司馬さんはもう一歩踏み込んで、善人、悪人というのは「倫理の問題じゃない」のだ。と言います。

ではなんで「倫理の問題」になってしまうのか。それはクリスチャンでもないのに、キリスト教的倫理意識をもって、というより西洋概念をもって物を見るからだ。悪人とはつまりは「普通の人」という意味だと書いています。

以下は余計な文章です。

大学時代、夏目漱石の「門」という「地味な小説」について考えたことがあります。素直によめば「門」が禅と深く関係する小説であることは高校生でも分かると思います。ところが私はずっと「門」とは「天国の門」だと思っていたのです。たしかに読んでいたはずなのに、「西洋概念で読もうとするから」、頭に霧がかかって全然読めていないのです。たしかに読んでいるのに、禅のことなんかちっとも考えられないのです。「先入観」とか「思い込み」、やや正確に書くと「なんでも西洋概念でとらえようとする囚われ」というのは、実に恐ろしいものだと思います。

さらに余計なことを書くなら、私は別に親鸞が偉大な思想家だとは思っていません。宗教とは哲学ではなく、もっとシンプルなものだというが今の私の考えです。「悟り」というのは単純に「心の平安」であると思います。なかなか得られないものです。「心の平安」が得られるなら、それがつまりは信心であって、キリスト教でもイスラム教でも仏教でもかまわない。誤解を恐れずに書くなら「金銭で心の平安が得られる」ならそれもまた「悟り」です。まあこれは非常に誤解を呼ぶ書き方ではありますが。

つまりは「心の平安」=悟りを得られるならいいわけで、「方法」は「極端に違法なもの」でなければ(覚せい剤とか、暴行とか)、基本なんでもいいのだ、と思います。少しラディカル(過激)に書くなら覚せい剤で心の平安を得ても悟りである、と書いてもいいのですが、永続性がないので、やはりそれは悟りとは言えないように思います。


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