映画「関ヶ原」はさほど好評ではないようです。長い、分かりにくいとか。戦闘シーンは派手で好評なようですが。
難しいですね、主人公が死に、カタキ役である家康が栄えるわけです。へたに描くと「不条理劇」になってしまいます。
小説の方は、なぜ文庫3巻で「長い」のかというと、別に石田三成だけを描いているわけではないからです。
徳川、前田、島津、毛利その他、こういった勢力の動きを丁寧に描いています。むろん「すべてが史実じゃない」のは当然ですが、各勢力の動きは面白いし、史実と比較するのも「一興」なのです。
また「ただ一人、東軍から西軍へ戻った」という「伝説」のある田丸直昌など小大名にも触れています。だから長くなるのです。
さて、映画。
映画のエンディングは「見ていない」から分かりません。見た方のブログをみてもどう終わるのかが分かりません。たぶん初芽で終わるのでしょうが。
なぜかというと小説がそうなっているし、TBSドラマでも「初芽終わり」だからです。
TBSドラマだと最後に尼になった初芽を訪ねるのは本多正信ですが、原作では黒田如水です。
如水は「義なき人」が栄えていいのかという初芽に対し、まともには答えずにこう考えます。
「義」はことを興す大義にはなっても、本当に人の世を動かす原理にはなりえない。
さらに黒田如水は小説の中でこう考えます。
豊臣は既に政権としての魅力を失っており(朝鮮の役によってでしょう)、人々はひそかに豊臣が終わることを希求していた。
続くはずないものを続かせようとしたところに石田三成の根本的な矛盾があり無理がある。
ただ「たった一つのことにおいて三成は成功した」と如水は言うのです。(実際は口に出しては言いません。考えるだけです。)
「豊臣政権の滅びにあたって、三成などの寵臣までもが、家康のもとに走って媚びを売ったとなれば、世の姿は崩れ、人はけじめを失う。かつは置き残していった寵臣からそこまで裏切られれば、秀吉のみじめさは救いがたい。その点からいえば、三成は十分に成功した」
今、現在、この2017年段階において、石田三成の評価は決して高くはありません。「人の世のけじめを作った」と考える人も多くないかも知れません。
だから上記の如水の小説中での意見(ほぼ司馬さんの意見でしょうが)は、通用しないのかも知れません。
ただ江戸時代は違いました。儒教的倫理からすれば三成は「当然のこと」をした家臣だったからです。
もっともそれを公然と言うわけにはいきません。となると家康はどうだ?という話になるからです。
だから石田三成に代わって、島左近の行動と人間が大きく評価されました。史実としては毛利や島津への「根回し」すらできなかった島左近は「たいした武将ではない」と私は考えます。
しかし江戸時代においては武士の鑑とされました。石田三成の行動は賛美すべきものだが、賛美するわけにはいかない。それに代わって島左近の行動が賛美されたのです。
論理的には島左近も家康に逆らったわけですが、それは三成への忠義からであって、あくまで悪いのは三成。島左近は主人に逆らわなかった。そして「関ヶ原」という大事業をなしとげた。
今回の映画でも島左近は大活躍のようですが、この武将が(私的意見では)過大に評価されるのは、三成を公然と評価できなかった江戸時代からの、いわば「伝統」だと思います。
さらに加えれば、私は子供のころから「三成の柿の話」を知っています。少なくとも40年前までは三成もそれなりに高く評価されていたと思います。
蛇足
小説、原作での島左近は「武人」ですね。戦いにはやたらと強い。剣豪でもある。石田三成に対しては「殿と人が同じと思ってはいけない」などと三成の欠陥を指摘はしますが、指摘どまりです。
あまり積極的には動かないし調略等もしない。家康暗殺は企てますが、これも三成の反対でやめます。原作の方でも「素晴らしい武人ではあるが、調略等はできない」人物として描かれています。
難しいですね、主人公が死に、カタキ役である家康が栄えるわけです。へたに描くと「不条理劇」になってしまいます。
小説の方は、なぜ文庫3巻で「長い」のかというと、別に石田三成だけを描いているわけではないからです。
徳川、前田、島津、毛利その他、こういった勢力の動きを丁寧に描いています。むろん「すべてが史実じゃない」のは当然ですが、各勢力の動きは面白いし、史実と比較するのも「一興」なのです。
また「ただ一人、東軍から西軍へ戻った」という「伝説」のある田丸直昌など小大名にも触れています。だから長くなるのです。
さて、映画。
映画のエンディングは「見ていない」から分かりません。見た方のブログをみてもどう終わるのかが分かりません。たぶん初芽で終わるのでしょうが。
なぜかというと小説がそうなっているし、TBSドラマでも「初芽終わり」だからです。
TBSドラマだと最後に尼になった初芽を訪ねるのは本多正信ですが、原作では黒田如水です。
如水は「義なき人」が栄えていいのかという初芽に対し、まともには答えずにこう考えます。
「義」はことを興す大義にはなっても、本当に人の世を動かす原理にはなりえない。
さらに黒田如水は小説の中でこう考えます。
豊臣は既に政権としての魅力を失っており(朝鮮の役によってでしょう)、人々はひそかに豊臣が終わることを希求していた。
続くはずないものを続かせようとしたところに石田三成の根本的な矛盾があり無理がある。
ただ「たった一つのことにおいて三成は成功した」と如水は言うのです。(実際は口に出しては言いません。考えるだけです。)
「豊臣政権の滅びにあたって、三成などの寵臣までもが、家康のもとに走って媚びを売ったとなれば、世の姿は崩れ、人はけじめを失う。かつは置き残していった寵臣からそこまで裏切られれば、秀吉のみじめさは救いがたい。その点からいえば、三成は十分に成功した」
今、現在、この2017年段階において、石田三成の評価は決して高くはありません。「人の世のけじめを作った」と考える人も多くないかも知れません。
だから上記の如水の小説中での意見(ほぼ司馬さんの意見でしょうが)は、通用しないのかも知れません。
ただ江戸時代は違いました。儒教的倫理からすれば三成は「当然のこと」をした家臣だったからです。
もっともそれを公然と言うわけにはいきません。となると家康はどうだ?という話になるからです。
だから石田三成に代わって、島左近の行動と人間が大きく評価されました。史実としては毛利や島津への「根回し」すらできなかった島左近は「たいした武将ではない」と私は考えます。
しかし江戸時代においては武士の鑑とされました。石田三成の行動は賛美すべきものだが、賛美するわけにはいかない。それに代わって島左近の行動が賛美されたのです。
論理的には島左近も家康に逆らったわけですが、それは三成への忠義からであって、あくまで悪いのは三成。島左近は主人に逆らわなかった。そして「関ヶ原」という大事業をなしとげた。
今回の映画でも島左近は大活躍のようですが、この武将が(私的意見では)過大に評価されるのは、三成を公然と評価できなかった江戸時代からの、いわば「伝統」だと思います。
さらに加えれば、私は子供のころから「三成の柿の話」を知っています。少なくとも40年前までは三成もそれなりに高く評価されていたと思います。
蛇足
小説、原作での島左近は「武人」ですね。戦いにはやたらと強い。剣豪でもある。石田三成に対しては「殿と人が同じと思ってはいけない」などと三成の欠陥を指摘はしますが、指摘どまりです。
あまり積極的には動かないし調略等もしない。家康暗殺は企てますが、これも三成の反対でやめます。原作の方でも「素晴らしい武人ではあるが、調略等はできない」人物として描かれています。
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