散文的で抒情的な、わたくしの意見

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「ねね」と「まつ」と「千代」について

2017年09月02日 | ドラマ
「ねね」と書いただけで、「おね」だ、とか「ねい」だとか言われそうですが、「ね」なんて一文字名は当時としてもあり得ないので「おね」はどうかと思います。

「お」は接頭語というか敬称です。だから「おね」なら、彼女の本名は「木下ね」か「杉原ね」になります。おかしいでしょ、それは。

それに何十年も「ねね」だったのです。いまさら「おね」とか言われても、、、学説的にも支持できないし。

さて、

戦国期でドラマになりそうなのは、この3人ですね。茶々や江を主人公にしても面白くない、彼女たちが主人公の作品はあるが、実際面白くありません。

ただ「ねね」、「まつ」を主人公にした大河も僕の感想ではあまり面白くはない。「おんな太閤記」と「利家とまつ」ですね。

ひたすら賢女なだけ、なんです。もっと権謀術数をこらすような面白い「ねね」とか「まつ」も見てみたい。

「利家とまつ」、残念ながらもう話題にもなりません。反町隆史とか竹野内豊とかちょっと役者のかっこよさにこだわりすぎて、内容が二の次になってました。

利家も登場した時からただ「まっすぐな男」で少しも成長しません。「変化のない大河」は、一年もやる必要がないのです。

ねね、まつ、千代。

まあ戦国の3賢女ですね。

実子が家を継いだのは「まつ」だけで、しかも3代目は「側室の子」ですから、3名とも彼女たちの血筋は残りませんでした。ねねには子はなく、千代は女子を生みますが早く亡くなります。

ねね、は豊臣家を残すことはできませんでした、というかむしろ家康の側についた感じが否めませんが、「生き方の達人」でありました。大坂の陣後、あらゆる面で豊臣家は抹殺され痕跡を消されましたが、彼女は生き延びています。彼女の寺である高台寺は1万石を超える所領がありました。家康死後も秀忠が彼女を庇護しています。
「天下様としての豊臣家は一代で店じまい。秀頼はそれなりの大名として生きていけばいい。」そう考えていたふしがあります。


まつ、は加賀120万石の礎を作った女性で、利家死後は「加賀は芳春院でもつ」と言われました。芳春院とは「まつ」のことです。
関ヶ原の前、家康の「最初の標的」は前田家でした。
が、「まつ」は長子である前田利家に家康の本意(乱を起こして天下を奪うという本意)を教え、自重させた上、家康の人質要求にも応じ、自ら江戸で人質生活を送ります。
利長が死に、3代目の利常が「側室の子」であったため、利常生母である千代保が人質となり、晩年、まつは金沢に帰ります。その数年後に亡くなりました。


千代、は「どこまでが創作でどこからが史実か」がわからない女性ですが、長く賢女の鑑とされてきました。
たしか墓の大きさが、山内一豊とさほど変わらず、その点からみると、やはり土佐藩を作った女性とみなされていたと考えてもいいかと思います。
土佐藩自体は「山内一豊の弟の子」が継ぎましたが、千代自身は京都に住み、京から二代目を指導したり叱ったり、無心をしたりしています。
その点からみても、やはり「創業者」とみなされていたのは確かでしょう。「馬の話」とかが本当かは分かりませんが。

TBSドラマ「関ヶ原」に出てくる「まつ」は魅力的です。もう尼さんですが。

二代目の「利長」にビシリといいます。

「利長殿には家康と天下を二つに割って戦う器量はない。あなたの器量では家を存続させることが限界。それでいい。母のことは忘れ、あなたは家の存続だけを考えればいいのです。それがあなたの器量です」

加賀藩は利家と自分が作ったという自負があって、初めて成り立つ言葉です。むろん、ドラマのセリフではありますが。


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