散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

御館の乱の「描かれ方」・上杉景勝・上杉三郎景虎

2019年03月13日 | 上杉謙信
大河「真田丸」に出てきた上杉景勝・上杉家は「相当衰退して」いました。番組内では説明がなかったのですが、単に「上杉謙信がいないから→衰退した」わけではありません。

謙信死後に内乱があったから衰退したのです。

単純に書くと、

上杉謙信の死→御館の乱(上杉景勝と上杉三郎景虎の戦い)→景勝の勝利→でも上杉家は衰退→信長の侵攻→滅亡寸前→本能寺の変→秀吉の配下へ→会津120万石→関ケ原→米沢30万石→その後15万石

となります。

謙信の死後、越後で「内紛」が起きます。戦ったのは謙信の甥(姉の子)である上杉景勝と謙信の養子である上杉三郎景虎です。景虎は北条氏の息子です。ちなみに景虎は謙信の俗名と同じです。だから三郎景虎と書くのです。

信玄でも謙信でも、「家臣をまとめる」には相当苦労したようです。武田の場合、遺言があり勝頼以外に適当な当主候補がいなかったことと、長篠で宿老が沢山死んだために、「内紛」までは起きませんでした。でも、滅亡段階を見ると武田もバラバラ状態です。勝頼はよくやりましたが、それでも「家臣をまとめる」ことは無理だったようです。

上杉家の場合、「謙信の遺言がどうやらなかった」らしいのです。それで景勝派と景虎派に分かれ、正面衝突です。景虎は北条の出身でしたが、才気に溢れ謙信に気にいられていました。景勝は謙信の姉の子ですが、「親父を殺したのは謙信ではないか」と思っていたふしがあります。その上、才気煥発でもなかった。しかも謙信とは違う流れの長尾氏です。で、「甥だから家督を継ぐ」とは簡単にはなりませんでした。

この点は大河「天地人」でやや詳しく描かれました。

謙信後の上杉家の内紛、これが「御館の乱」です。最初は景虎が有利でしたが、景勝が盛り返し、武田に領土を譲ったり金を払ったりして味方につけ、結局景勝が勝ちます。

この過程で活躍したのが直江兼続です。(活躍なんかしていないという人もいる)

「御館の乱」なんて「天地人」の火坂雅志さんぐらいしか描いていないかと思ってましたが、他に描いた人もいます。

伊東潤「北天蒼星、上杉三郎景虎血戦録」です。

天地人は景勝側から描きました。伊東さんは景虎側から描いています。

面白い小説なんですが、一点だけ「非常に残念な点」があります。

あまりに景虎に肩入れするあまり「上杉謙信を殺したのは上杉景勝・直江兼続である」という「謀略論」を採用してしまっているのです。

必要ないと思います。普通に49歳で脳卒中で死んだでいい。そもそもあの段階で謙信を「暗殺」したりしたら、「上杉家そのものが潰れる」可能性があり、実際本能寺の変がなければ滅亡していました。だから「暗殺」はありえないと思います。

史実が「多少あやふや」だと、なんでもかんでも「謀略・暗殺」にしてしまうのは、小説家の悪いくせです。伊東潤「北天蒼星、上杉三郎景虎血戦録」は悪くない作品なので、謀略論を採用してしまったのは非常に残念。リアリティがぐんと落ちてしまいます。

そもそも景虎の方が後継者候補だった、ぐらいまではいいのです。だからと言って景勝・直江兼続が上杉謙信を殺したとされると、ちょっと「やりすぎ」のような気がします。

それにしても謙信が後継者をはっきりと明示していなかったのは確かで、その点は謎です。そもそも謙信自体が謎だらけの人で、だから「女だった」なんて論も堂々と書かれたりするのです。

さて御館の乱で勝利した上杉景勝と直江兼続。なんとも残念な主従です。関ケ原段階で「上杉には徳川と戦う気があった」という前提で考えると、「どうして東軍を追撃しないのだ」という疑問が残ります。最上や伊達がいたから、徳川秀忠もいたから、などが考えられますが、よくわかりません。

「天地人」(小説)では「敵を後ろから襲うのは上杉の義に反する」とか書いてありますが、そんなアホな。

「上杉にはそもそも東軍と戦う気はなかった。が攻めてきてしまった。ところが三成が挙兵して東軍が西に向かったので安堵した。」と主張する人がいますが、説明としては理にかなっています。

上杉景勝はとてものこと名将とは言えないので、直江兼続がやたらと「持ち上げられ」ますが、やったことと言えば、上杉を30万石にして、その貧乏所帯を支えたことぐらい。あと徳川に取り入るために本多正信の息子を養子にとったりもしている。「武士の鑑」とはとても言えない。

「天地人」は天と地と人に恵まれた直江兼続が主人公なんでしょうが、ちっとも恵まれていない。史実から見れば「天地人」はどう考えても徳川家康・秀忠親子です。

最後に、、、御館の乱を考えると非常に大切なことが一つ分かります。それは上杉謙信と言えど「国衆たちの盟主に過ぎなかった」ということです。国衆に対して絶対的命令権を持っているわけではない。第二世代である謙信の立場はそうなのです。それが第三世代である織田信長(謙信と年の差はほどんどないが)、になると、専制君主的強権を手にしていきます。そしてその「専制君主的姿勢」が、信長の命を奪いました。秀吉の場合も「専制君主的姿勢」が他の大名に忌避されたのだと思います。家康はそこをうまく考え、「盟主みたいな専制君主」という微妙な立場に立ちました。そこが徳川の成功の秘訣だと思います。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿