散文的で抒情的な、わたくしの意見

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平家物語と仏教的無常観

2017年09月06日 | ドラマ
小林秀雄が平家物語は内容としては無常なんて思想が根底にあるわけではないんだ、もっと生き生きした活動的な物語なんだ、てなことを言っています。

まあ軍記ものですからね、いちいち「ああ無常だ」なんて嘆きを挿入はしてないのは確かです。「新平家物語」なんかを見ても、平清盛は実にエネルギッシュです。

無常が強調されるのは壇の浦であって、その他の部分では平家は我が世を謳歌しているわけです。

でも「無常という考えを学ぶ」という視点に立つと、やはり平家は「いい教科書」かなと思います。

大河「平清盛」は実に評判の悪い作品でした。天皇を「王」と表現したら、それでは中華体制に日本が組み込まれていたことになってしまい、国辱だなんて意見もありました。(平安文学を王朝文学というように、天皇を王と表現するのは当然のことです。でも昔の大河では、皇室を忖度して、王家の犬にはならない、ではなく、公家の犬にはならない、と清盛は言ってました)

ただそういう政治的な部分は置くとしても、脚本が見事にダメでした。

最初の最初の方に、源頼朝の「語り」があって、「平清盛は武家政権の礎を作った偉大なる男だ」とか言ってました。その時点で「ひどく嫌な予感」はしたのです。

あり得ないにもほどがあるだろ、という話です。なんで頼朝がそんなことを言うということにしたのだ?

そして物語が始まると、変な友情ドラマが進展し、さらに海賊ものみたいな部分が強調されます。ワンピースか、パイレーツオブカリビアンか、アホらし、の一言です。

清盛と源義朝を「友」とし、その「友情を描いた」時点で、すでに奇妙きわまりなかったのですが、

ついには「諸行無常はじまる」とか信じがたい副題がついたりしました。

諸行無常が「はじまる」わけないだろ、と一斉に突っ込まれてましたが、NHKもそんなことわかっているはずです。

それでもあえてつけたとすると「国民の知識」を馬鹿にしすぎです。時代考証の本郷和人さん、どうして許したのでしょう。

無常というのは、すべては変化すること、これを人間の側から見れば、こだわるからかえって不幸になる、というもので、まあ簡単な思想です。中学生だって分かりますし、実際分かっていました。

「この世のはじまりから終わりまで続く状態」ですから、「はじまる」ことも「終わる」こともないのです。中学生でも分かります。

後白河法皇はいつまでたっても若々しく、法皇というより青年のよう。清盛は若いころは町のあんちゃんみたいな感じで、年をとっても少しも成熟しない。

せめて「仏教的無常観」を小学生が理解する機会ぐらいになれば良かったのですが、「諸行無常はじまる」では、だめだこりゃという話です。

私は大河最低は「江」と「篤姫」と思っていて、これらよりは「まし」だと思いますが、とても見られたもんじゃなかったことは確かです。

仲代さんの「新平家物語」はあんなに素晴らしいのに、どうして大河「平清盛」はあんなにダメなのか。研究されてもいいぐらいの現象です。

時代考証家が「譲れない一線」を譲ってしまって「御用学者」のような仕事した場合、大河は「とても見られたもんじゃなくなる」。これは確かだと思います。

「諸行無常はじまる」なんて表現は成立するわけがない。考証の本郷さんに分からないわけがない。でも「止めない」、ではダメなのです。

蛇足 
大河「平清盛」をひどく書きすぎたかなと思い、録画で最終回を見直してみました。結果「思っていたよりひどい」
清盛が西行にのり移って頼朝と対面し「あとは頼んだ。真の武士の世を見せてみろ」とか言って微笑んだりしています。なんじゃそりゃ。
なんなのだろ、「わび、さび、幽玄」というものが一切ない。記憶していたよりずっとひどい作品でした。


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