織田信包(1543-1614) おだのぶかね 通称三十郎 のち剃髪して老犬斎を名乗る
織田有楽斎(1547-1622) 織田長益 おだうらくさい・おだながます
織田信長(1534-1582)の弟たちです。つまりは織田信秀の息子です。信長には庶兄も含めて兄弟が沢山いますが、有名なのはこの二人です。そして二人のうち圧倒的に有名なのは有楽斎の方です。「真田丸」では井上順さんが演じました。たいていは大坂の陣で「家康の間者」をしていたと描かれます。損な役回りです。また本能寺では信忠と一緒にいながら信忠には自害をすすめ自分は逃げたとされます。自害を勧めたは怪しげな説です。自分は逃げたは本当のようです。
茶では利休十哲の一人。関ケ原では家康に属しています。その後は大阪城で秀頼の後見の一人となったようです。二回目の大坂の陣の前に、もはや穏健派の自分は必要なしとして大阪城から退出しています。子供たち(のうち二人)には江戸幕府で1万石程度の藩を与えられました。そもそも関ケ原では徳川派でしたから、徳川との調整役として大阪城にいたのでしょう。
有楽斎に比べると「織田信包」の知名度はだいぶ低いと思います。映画「清須会議」では伊勢谷友介さんが演じました。あれで知名度は高まったと思います。
1568年年、信長の伊勢平定・上洛戦が始まります。信長は北伊勢の神戸氏には三男の信孝を養子として送り込みます。次に織田信包が北伊勢の長野氏に養子として送り込まれます。信長はこの時点では養子を送って乗っ取るという「毛利元就」と同じような作戦を用いています。織田信包この時、25歳ぐらいです。
次の年1569年に伊勢の国司北畠氏が臣従。織田信包は伊勢安濃津城主となります。この後に「織田信包が参加した出来事」を年表風にまとめると、
1570年・・姉川の戦い
1573年・・浅井・朝倉攻め
1574年・・長島一向一揆攻め
1575年・・越前一向一揆攻め
1577年・・雑賀攻め
1578年・・本願寺攻め・荒木村重討伐
1581年・・信長の馬揃え・第二次天正伊賀の乱
1582年・・本能寺の変 おそらく伊勢にいた・清須会議のあと伊勢津城15万石
1583年・・賤ケ岳の戦い(秀吉側)
1584年・・小牧長久手の戦い(中立→秀吉側)
1590年・・北条攻め
北条攻めの後秀吉の不興をかい、改易。のち復帰して3万6千石
1600年・・関ヶ原の戦い・西軍で細川幽斎攻め・だが戦後本領安堵
1614年・・大阪城で秀頼の後見をしていたが、死去 享年71歳
こうして見てみると前半生はほぼ「一向一揆・本願寺」との戦いです。雑賀も本願寺側です。
本能寺の変の時は39歳ですから、十分に大将となれる年齢でしたが、信忠補佐と言う役回りです。本能寺では信忠の陣にはいなかったようです。本国の伊勢にいたかと思います。
この時、甥の織田信雄も伊勢にいました。本能寺後、伊勢の国人は不穏な動きをみせたようです。織田信雄の手兵は2500でした。これは信孝・丹羽長秀の「四国討伐軍」に手兵を送っていたせいです。そうなると同じ伊勢にいた織田信包は信雄と協力して伊勢を守っていたと考えるのが適当かと思います。
大阪城では弟である織田有楽斎に比べると影が薄い。老犬斎を号するぐらいですから浮世離れした傾向があったのかも知れません。この辺りはもう少し調べてみます。大坂の陣の前年に死去します。
織田有楽斎(1547-1622) 織田長益 おだうらくさい・おだながます
織田信長(1534-1582)の弟たちです。つまりは織田信秀の息子です。信長には庶兄も含めて兄弟が沢山いますが、有名なのはこの二人です。そして二人のうち圧倒的に有名なのは有楽斎の方です。「真田丸」では井上順さんが演じました。たいていは大坂の陣で「家康の間者」をしていたと描かれます。損な役回りです。また本能寺では信忠と一緒にいながら信忠には自害をすすめ自分は逃げたとされます。自害を勧めたは怪しげな説です。自分は逃げたは本当のようです。
茶では利休十哲の一人。関ケ原では家康に属しています。その後は大阪城で秀頼の後見の一人となったようです。二回目の大坂の陣の前に、もはや穏健派の自分は必要なしとして大阪城から退出しています。子供たち(のうち二人)には江戸幕府で1万石程度の藩を与えられました。そもそも関ケ原では徳川派でしたから、徳川との調整役として大阪城にいたのでしょう。
有楽斎に比べると「織田信包」の知名度はだいぶ低いと思います。映画「清須会議」では伊勢谷友介さんが演じました。あれで知名度は高まったと思います。
1568年年、信長の伊勢平定・上洛戦が始まります。信長は北伊勢の神戸氏には三男の信孝を養子として送り込みます。次に織田信包が北伊勢の長野氏に養子として送り込まれます。信長はこの時点では養子を送って乗っ取るという「毛利元就」と同じような作戦を用いています。織田信包この時、25歳ぐらいです。
次の年1569年に伊勢の国司北畠氏が臣従。織田信包は伊勢安濃津城主となります。この後に「織田信包が参加した出来事」を年表風にまとめると、
1570年・・姉川の戦い
1573年・・浅井・朝倉攻め
1574年・・長島一向一揆攻め
1575年・・越前一向一揆攻め
1577年・・雑賀攻め
1578年・・本願寺攻め・荒木村重討伐
1581年・・信長の馬揃え・第二次天正伊賀の乱
1582年・・本能寺の変 おそらく伊勢にいた・清須会議のあと伊勢津城15万石
1583年・・賤ケ岳の戦い(秀吉側)
1584年・・小牧長久手の戦い(中立→秀吉側)
1590年・・北条攻め
北条攻めの後秀吉の不興をかい、改易。のち復帰して3万6千石
1600年・・関ヶ原の戦い・西軍で細川幽斎攻め・だが戦後本領安堵
1614年・・大阪城で秀頼の後見をしていたが、死去 享年71歳
こうして見てみると前半生はほぼ「一向一揆・本願寺」との戦いです。雑賀も本願寺側です。
本能寺の変の時は39歳ですから、十分に大将となれる年齢でしたが、信忠補佐と言う役回りです。本能寺では信忠の陣にはいなかったようです。本国の伊勢にいたかと思います。
この時、甥の織田信雄も伊勢にいました。本能寺後、伊勢の国人は不穏な動きをみせたようです。織田信雄の手兵は2500でした。これは信孝・丹羽長秀の「四国討伐軍」に手兵を送っていたせいです。そうなると同じ伊勢にいた織田信包は信雄と協力して伊勢を守っていたと考えるのが適当かと思います。
大阪城では弟である織田有楽斎に比べると影が薄い。老犬斎を号するぐらいですから浮世離れした傾向があったのかも知れません。この辺りはもう少し調べてみます。大坂の陣の前年に死去します。
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