散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

幼い記憶の中の大河ドラマ、時代劇

2017年08月22日 | ドラマ
一番遠くの記憶、自分の中の最も昔の記憶。なんなんだろうと思います。

幼稚園の入園式は覚えていません。幼稚園の送迎バスの記憶はなんとなくあります。

4歳、または5歳なんでしょうね。6歳の小学校入学式の記憶はかなりはっきりとしています。

大河ドラマ、親父が見ていたのでしょう。たぶん幼稚園から見ています。たぶん。

「勝った、この勝負もらった」と石坂浩二さんが言っていた。

おそらく「天と地と」です。

これが最も古い記憶。「太閤記」の記憶は全くないので「天と地と」がもっとも古い記憶です。

「おわり」と武将が言っていた。「終わり」だと思ってました。「尾張」は流石に幼稚園児にはわかりません。

仲代さんが物凄い形相で「陣ぶれー、陣ぶれー」と叫んでいた。

これはおそらく「新平家物語」ですから小学校になっています。総集編にはこのシーンがなく、NHKにもビデオが残っていないので。このシーンはたぶんもう永遠に見られません。

おそらくですが「南都焼き討ち」のシーンだと思います。

「信長様、猿も年をとりました」。老いた秀吉が非常に悲しげに言います。秀頼の成人は見られないという哀しみです。

これは大河じゃないかもしれませんが、よく覚えています。でも誰が秀吉を演じていたのか、顔が浮かびません。

これは明確に大河じゃないですが、洋装をした武人が剣を片手に馬にのり、鉄砲隊の中に突入していく。そして死ぬ。

洋装から考えて「土方歳三の死」だと思います。古い古い記憶です。

VHSテープが家庭に本格普及したのは1978年頃だろうと思います。

その前までは「大河ドラマは二度しか見られない」のです。本放送で一回、土曜日の再放送で一回。

小学生までは必ず二回みていたのですが、中学になると部活があり、土曜の再放送が見られなくなりました。でも時々はさぼって家に帰り、見ていたことを思い出します。

明智光秀が大好きだった小学生の頃

2017年08月20日 | ドラマ
大河「国盗り物語」が確か小学校高学年の時です。

同時に原作も読みました。小学生も高学年になると「常用漢字」はすべて読めますから、十分に原作も読めるのです。

原作の後編は、どっちかというと信長というより明智光秀が主人公なんです。ドラマの方も近藤正臣さんが演じて、そりゃカッコ良かった。

光秀には最初から天下に対する構想があるのです。でも斉藤道三は滅び、そして浪人となり、それでもなんとか足利再興を目指す。

だから天下を狙っていた、というより、「乱世を終わらせる」ことを狙っていた人物として描かれていた、のかな?

そのあたり、ちょっと揺らいでいます。天下を思っている、天下平定を構想しているのは確かなんですが、足利再興からどうしようとしているのか。

その点はちょっとわからない描き方だったと思います。

信長に対しては最初からライバルだと思っています。斉藤道三の二人の弟子の一方という設定ですから、ライバルですね。

ですから信長の暴走を受け入れるわけにはいかないし、信長の子分だとも思っていないので、信長の自分に対する態度を許すこともできません。

私が最初にみた明智光秀は「保守的な知識人」でもなければ、「公家的な男」でもない。

颯爽として、天下平定への構想を胸に秘めた男です。延暦寺焼き討ちのシーンでは「保守的知識人の側面」が強調されていますが、それ以外の部分では才能あふれる男として描かれています。

史実としても信長の数少ない軍団長の一人なんですから、相当の才能を持っていたのは事実でしょう。

ただ世間的には明智に対する興味は低いようですね。いつも行く図書館に明智の末裔を名乗る方が書いた本が置いてあるのですが、いつもその場所にあって誰も借りません。

もっとも私も借りませんが。

明智の末裔を名乗っている時点で「うさんくさい」のですよね。本に割ける時間は決まっていますから、何でも読むわけにはいかないのです。

本能寺謀略ものは「信長殺し、光秀ではない」で凝りました。一時盛んだった八切止夫の日本史です。最近では「信長の棺」なんてのもありました。やたら知識が出てくるけど空疎な本です。

フロイスもたしか光秀を傲慢な男と言っていたはずで、どうも最近の「お公家さんみたいな光秀像」には納得できないなーと思っています。



おんな城主直虎  嫌われ政次の一生(BSだから本放送前)

2017年08月20日 | ドラマ
井伊を思い、直虎を思い、悪名を背負い、罪を背負って「はりつけ」。

最後は直虎があえて、政次の命を絶つ。どうせ死が免れないなら、自分の手で。

音楽が途中からキリスト教的になって、政次がだんだんと「人々の原罪を背負って万人の為に死ぬキリスト」に近づいていきました。

高橋一生さんファンにとっては「もうたまらない展開」でしょう。涙、涙だと思います。

もし少女なら、政次の死のシーンを一生思い出すかも知れません。

私は少女でもなく、高橋一生さんファンでもないので、いいシーンだと思いながらも、

どっかで「柴咲コウの目力が凄いな」とか考えていました。

それにしても阿部サダヲの家康はどういう意図で造形されているのでしょう。

柴咲コウに謝罪し、はいつくばり、はいつくばったまま後退していきました。「貞子3D」に出てくる怪物のようでした。

最後までずっと情けないままなのか。情けないままに妻を殺し、情けないままに子を殺すのか。

こんな情けない家康に、井伊直政が命がけで仕える。どういう理由をつけてそう「持っていく」のでしょうか。

たぶん今回が一番いい回なんでしょう。ただしこれが限界、いいシーンだったけど、たぶんこれが限界。

それが分かっているせいか、このシーンの哀しさのせいなのか、なんだかシンミリとした悲しい気分です。

関ケ原における石田三成と上杉の「連携」はあったのか。

2017年08月20日 | ドラマ
史実としては、学者さんの説を色々調べても、これは分かりませんね。直江状についても真贋について、色々意見があるようです。

小説「関ケ原」では「連携があった」ことになっています。

それはそれとして、この「連携問題」はなにかと不可解なんですよね。

どうして三成は挙兵を急いだのでしょうか。

たとえば「連携なんかなかった」とします。そう主張する学者さんも多い。

それはそれでいいのですが、「なかったとしても、挙兵を遅らせた方が有利」でありましょう。

待っていれば、上杉と東軍の間には戦闘状態が発生します。あるいは東の伊達との間に挟まれて、上杉は滅亡するかも知れません。

でも戦いに入ってから、西軍が挙兵すれば、西軍は東軍を挟むことができます。「連携がない」のなら上杉の運命は気にする必要もありません。

「連携がない」としても、この作戦の方が有利でありましょう。「連携があった」としたら、伊達のことを上杉は「織り込み済み」ですから、さらに問題はなくなります。

待っていると西軍から大名が抜けていく、でしょうか。島津は抜けますが、宇喜多は残るし、小西も残ります。

毛利、吉川と小早川が抜けたとしても、それはそれで「スッキリ」するはずです。裏切られるよりは「まし」です。どうせ島津も毛利も関ケ原では一切動かないのですから。

それに「秀頼様警護」とすれば毛利輝元は大阪を動けないでしょう。

とにかく東軍が上杉と戦っている後ろから「突いた」ほうが有利なはずです。

つまり、東軍が上杉と戦端をひらくまで待つ。

ただ待っていると西軍の諸侯が抜けていくから、「三成挙兵のうわさ」は流しておく。流すことによって味方を大阪に引き留める。

同時に家康および東軍諸侯に「三成の挙兵はうわさに過ぎず、そのような意志のないこと」を三成は伝える。宇喜多もそのような動きがないことを伝える。

そうすれば、東軍は引き返す大義を失ってしまう。

戦端が開いたら、大老宇喜多秀家の名で「戦闘中止命令」を出す。「会津討伐は誤解であり、上杉に謀反の心がないことが分かった。即刻中止なさるべきこと」

しかし中止なんかしないでしょう。その時初めて、軍令違反ということで西軍を結成し、東軍をうつ。上杉はもう降伏しているかも知れませんが、東軍もかなり傷ついています。

そうすればかなりいい勝負に持ち込めたでしょう。

上杉があっけなく降伏してしまい、その段階で西軍(宇喜多、三成に味方する大名)がほとんど大坂城に残っていなければ、挙兵しなければいいだけのこと。

そもそも東軍は豊臣軍であり、その勝利は形式上は秀頼の勝利ですから、簡単には家康に実権は移りません。

それを早く挙兵なんかするもんだから、東軍は早々に引き返してしまいます。さらに上杉は伊達と戦闘に入って、東軍を追いません。

上杉にとっては三成挙兵は「天の助け」になっています。上杉は本能寺でも助けられましたが、三成挙兵でも、また窮地において助けられています。

連携があろうと、なかろうと、上杉と戦闘に入ってから挙兵すればいいものを。

どうも三成は戦機を知らない感じがします。島左近も名将の名は高いですが、それぐらいの「謀略」を献策できないようでは、たいした武将ではありません。

もっともかつてTBSドラマ「関ケ原」で徳川家康(森繁久彌)は最後にこう三成を評します。

「豊臣子飼いの大名の節操もない裏切りには背筋が冷たくなった。せめて三成一人がいて、泉下の太閤殿下も浮かばれるというものだ」

そうして家康は三成と太閤のために涙をながします。まああくまで「ドラマ」ですが、史実としても「あり得る」と思います。

徳川家康は若いころは律儀者で真面目な人間でした。年をとってからは狸親父、ワルというイメージが強いですが、当時としてはかなりの読書家で知識人です。

歴史主義者である家康の目から見れば、三成には勝利したものの、その行動には「讃えてもいい側面がある」と考えたはずです。

家康が尊敬する政治家は源頼朝で、その子供たちの悲惨な運命も知っていました。徳川存続のためには三成的な盲目的義心(忠義心とはちょっと違いますが)が必要と考えたはずです。

たとえ「建前としての義」であっても、「義」は必要だと思ったでしょう。その後徳川家全体が儒学を採用し、「忠」や「義」は徳目の中心となっていきます。

家康の涙は、まあ9割がた「なかった」でしょうが、1割ほどなら、三成と太閤の為に涙した可能性はあります。

関ケ原における毛利一族とその後

2017年08月20日 | ドラマ
毛利家はのち長州藩です。

関ケ原では西軍の大将(毛利輝元)ですが、輝元は大阪にいて関ケ原には参陣しません。

代わって指揮をとったというか、指揮争いをしたのが吉川広家と安国寺恵瓊。ところが正式な毛利家の大将は輝元の養子である毛利秀元。

そして親戚である小早川秀秋がいて関ケ原の勝敗を左右する。しかし秀秋は養子であり(北政所のおい)、毛利と血のつながりはない。

さらに言うと、毛利秀元は毛利家を継がない。養子になった後に生まれた輝元の実子である毛利秀就(ひでなり)が継ぐ、というなんかややこしい藩です。

長州藩の初代が毛利秀就だなんてことは、私もだいぶ年をとるまで知りませんでした。養子の毛利秀元は長州の支藩である長門長府藩の初代当主となります。

ところが、秀元は長州本家の政治を実質的にとりしきり、、、、とまあ色々面倒な家なのです。

この家、一応鎌倉幕府創設者の一人である大江広元の子孫ということになっていますが、系図ぐらいあてにならないものはないので、どうなんでしょうか。

家を興したのは言うまでもなく毛利輝元の祖父である毛利元就です。輝元の親父は隆元ですが、若くして殺されてしまい、輝元が本家を継ぎます。

この早死にした親父の弟が吉川元春と小早川隆景で、有名な「両川」です。輝元の成人後もこの二人の叔父が本家を取り仕切り、そしてかなりうまいぐあいにやっていました。

毛利元就は国衆から身を起こして中国地方の覇者になりました。少し大きくなりすぎたということで、「これ以上の領土拡張は望むな」と遺訓したと、まあ通説ではそうなっています。

輝元には長く実子がいなかったので、秀吉は秀秋を毛利本家の養子にしようとします。焦った小早川隆景は本家ではなく、自分の養子にと申し出ます。

一応大江広元を家祖とする家です。「北政所のおい」なんて氏素性も分からない若者に本家を継がせるわけにもいきません。

こうして歴史上有名な裏切り金吾中納言、小早川秀秋が登場します。

関ケ原では毛利本隊は「なんにもしません」。むろん家康と吉川広家には合意があって、あえて何にもしないのです。

なんにもしなかったことによって吉川広家はそこそこの領地を与えられ「かけ」ます。

ところが毛利本家自体は取り潰しになり「かけ」ます。

焦った広元は家康に懇願し、自分の領地を本家に譲って、毛利本家の安堵をはかり一応成功します。領土は相当というか、見る影もなく小さくなってしまいましたが。

吉川家自体は支藩岩国藩となって存続しますが、毛利本家からは幕末に至るまで「関ケ原で余計なことをしやがった藩」として疎まれます。

吉川家岩国藩にしてみれば「自分の領地を譲ってまで毛利本家を守ったのに、余計なことをしやがったとは何だ!」ということで面白くありません。

そりゃそうでしょう。

なるほど、毛利本家である輝元なり秀元なりが、「はっきりとした方針」を持って行動したなら、滅んだ可能性はあるものの、毛利幕府ができるか、豊臣家執権として天下を動かしたかもしれません。

でも「本家がぐずぐずではっきりしない」ので、吉川広家は本家を守るために行動したわけです。岩国藩からしてみれば自分たちは本家の「大恩人」であるはずです。

というわけで、本家と岩国藩はいつもぎくしゃく。

ただし、幕末、幕府と毛利本家(長州藩)が戦争を起こすにあたり、岩国藩が幕府についたのでは堪らないということで、やっと岩国藩と毛利本家は和解します。

そのことを献策したのは桂小五郎だといわれています。ややこしい一族です。

映画 関ケ原 小早川秀秋は愚人のままでいい。新説はやめてくれ。

2017年08月20日 | ドラマ
映画 関ケ原

小早川秀秋が東出昌大さんです。杏さんの旦那だったでしょうか。

とにかく彼を配役したということは「新説で描く」のでしょう。やめてほしいもんです。

TBSのドラマでは原作通りに愚人で描きました。国広富之さんが演じましたが、好演でした。特に最後にさらし者となった三成を見に行くシーンなんかは白眉です。

「人の世が続くかぎり、裏切り中納言金吾の名は語り継がれるぞ、わしは鬼となってもおぬしを生かしてはおかん」という三成のセリフも素晴らしいものでした。

まあ制作意図は分かります。天下の関ケ原が「愚人一人の裏切りによって決した」では都合が悪いのでしょう。

どうしても小早川秀秋、金吾中納言を「人かどの人物」にしたい、のでしょう。でも「原作の肝心な部分を変更するのは」やめてほしい。(もう撮影終わっているからどうしようもないですが)

「愚人には愚人の歴史的役割」があるのです。歴史は賢人によってのみ成り立つものではありません。

そして秀秋の裏切りを想定していなかった三成の「まっとうさ」もまた歴史の面白さです。想定していたであろう大谷刑部の見識もまた歴史の面白さです。


映画「関ケ原」のキャスト、初芽

2017年08月20日 | ドラマ
司馬さんの本が映画化されるのは「梟の城」以来18年ぶりだそうです。

ほとんどが大河ドラマの原作になっていて、残っている作品が少ないのです。戦国だと「関ケ原」「夏草の賦」(長曾我部)「城塞」あたりかなと思います。

尻喰え孫市は昔映画化されてますし、大河「国盗り物語」の原作のひとつにもなっています。

「関ケ原」はかつてTBSでドラマ化されました。三成は加藤剛、家康は森繫久彌、本多正信は三国連太郎、初芽は松坂慶子、その他、丹波さんなんかも出ています。

今回のキャストは

石田三成、岡田准一 「官兵衛」でそれなりの演技をみせましたし、ジャニーズ系だから若者にも受けるし、まあ順当なんでしょう。

徳川家康、役所広司、、、悪役感が少し薄い。「関ケ原」はピカレスクロマン(悪漢小説)でもあるのだが、「うまいワル」を演じることができるだろうか。

本多正信、久保酎吉、、ん、存じ上げない。画像検索してもあまり見たことない方。映画では主役級じゃないのかな。原作では準主役なんだけど。

島左近、平岳大、、、「真田丸」での好評が良かったみたい。親父さんの大ファンなので、息子さんにも頑張ってほしい。ちなみにTBSドラマでは三船敏郎。

大谷刑部、大場泰正、、、この方も存じ上げない。かつてのTBSドラマでは高橋幸治さんが演じて、準主役でしたが、今回は扱いが違うのかも知れません。

で、気になる初芽は

有村架純

うーん、「かわいい系」の方ですね。もうちょっと「はかない美人系」かな、イメージとしては。

かつては「若いころの松坂慶子」だから、今なら「もう少し若かった頃の北川景子」かな。

「はかない美人系」の若い女優さんは今少ないし、まあ有村さんでも演技を頑張ってくれれば、何の文句もありません。

それに設定が原作とは違い「忍者」みたいなので、アクションとかをするのでしょう。AKB系じゃないだけでも、満足しなくてはいけない。MさんとかOさんだったら、「本当に見る気がなくなり」ます。

最近映画「真田十勇士」を見ました。あまりの「つまらなさ」にひっくり返りそうになりました。もう歴史映画作成のノウハウが失われているのでしょう。(監督が堤幸彦さんだと、先ほど知りました。とすると、別の見方もあるのでしょうが、今の段階では、やはりつまらないと思っています)

レンタルになるまで見ないけど、ぜひ完成度の高い作品であってほしい。鍵を握るのは「家康の造形」だと思います。典型的な悪役でもダメ。といって天下静謐を願う善人でもダメ。難しい人間造形になります。

それから本当は本多正信の「悪ぶり」が魅力なんだけど、さてどうなるものやら。

それと、映画のキャストを見ながら思ったのですが、TBSドラマの方がキャストがずっと豪華です。

葛籠重蔵が見た三方ヶ原の徳川家康

2017年08月18日 | ドラマ
最初に書いておきますが、史実じゃなくドラマの話です。

葛籠重蔵(つづらじゅうぞう)は架空の人物で、「梟の城」の主人公です。もっとも近くでは中井貴一が演じました。大河「国盗り物語」では露口茂さんが演じました。

さて、ドラマでのお話。

三方ヶ原は家康生涯の中の一番の危機です。が、織田からはほとんど援軍がこない。それでも家康は信長を裏切りません。

その様子を忍者である葛籠重蔵は天井裏から眺め、こう考えます。

「徳川家康か、不思議な男だ。裏切ったところで機敏さを誉められこそすれ、誰ひとり後ろ指さす者もあるまいに。」

さらに

「いや、この戦国に稀有の律儀さ。存外生き延びれば、諸大名の信頼を買うかも」

もちろん、この時の家康の「律義さ」がその後の家康の運命を決めた、という歴史があってこその言葉です。

さらにドラマ(国盗り物語)において、敗北後の家康は本多忠勝にこう言います。

忠勝「鎧袖一触とはこのこと、武田は強い」

家康「いや、戦では負けたが、わしは生きておる。徳川家康を臆病者とは、もはや世間は見ぬ。忠勝わかるか。いかに知略があろうとも、臆病と言われれば、人は軽蔑し、知略をほどこすこともできぬ。

三方ヶ原で今日、わしがこの手に握ったのは、天下という場所で仕事をするには、命より大切な信用だ」

むろんすべてはドラマですが、「言っていない」とも言えません。資料がありませんから。資料といえば例の超有名な「家康敗戦の姿絵」はありますけれども。

あ、でも「言った」と主張する気なんて全然ないのです。ただ「いいセリフだ」と思うのです。

このセリフは司馬さんの原作にはありませんから、脚本の大野靖子さんの創作です。素晴らしい才能だと思います。

その後「花神」の脚本も担当します。私が別格だと思う大河ドラマは二つあって、「国盗り物語」と「花神」です。その二つの脚本が両方とも大野靖子さんです。

織田信長を「どうしても凡人にしたい人々」の間違い

2017年08月18日 | 日記
織田信長を「どうしても凡人にしたい」「どうしても普通の武将にしたい」という「奇妙な情熱」を持つ人々がいます。学者さんに多いですね。

庶民が「ドラマのイメージ」に引っぱられて、または司馬さんに引っ張られて、信長のカリスマ性に憧れることが「たまらなく嫌」「感情的に許せない」ようです。

さらに言えば、「なんか新しいことを言わないとTVに出られないから、信長のイメージを崩してやろう」とも考えてるみたいです。

そういう学者は馬鹿ですね。本人は「真実を言っているのだ」と言いたいのでしょうが、馬鹿な情熱です。

そういう学者が1万回ぐらい言うのが「天下とは近畿地方のことだ。天下布武とは近畿地方を掌握することだ」ってセリフです。

聞き飽きました。

「じゃあ、実際の行動として、日本全土を武力制圧しようとした武将がいますか」と「ブルゾンちえみ風」に聞いてみたいと思います。

答えは「35億でも35人でもなく、ただ1人、信長だけ、あと本能寺後の秀吉」

信玄の上洛なんてのも、それこそ「近畿の制圧目的」であって、日本全土なんて壮大な構想は全然頭になかったでしょう。ちまちま川中島で戦っていた人間です。

「事実として日本全土の武力制圧を考えたのは信長しかいない」のです。信玄も謙信も、浅井も、朝倉も、北条も、むろん毛利も、長曾我部も、そんな行動、みじんもとっていません。

「天下は近畿のこと」なんてのは「言葉遊び」で、信長の実際の行動を考えれば、彼のいう「天下」とは「日本全土」です。

こう言い換えてもいい。信長が「天下」という言葉を日本全土という意味にしたのだ、と。言葉の意味なんてあっという間に変わります。現代における「やばい」の用法のように。

さらに奇妙な情熱をもった学者は言います。

「3000丁の鉄砲の三段撃ちなんてなかった」

そりゃなかったでしょう。整然と1000丁ずつ撃つなんて無理です。だいたい3000丁も怪しく、1000丁ぐらいみたいです。

しかしながら、さはさりながら、

1000丁の火縄銃を各自が勝手に撃ったとします。そうなると大体200丁ぐらいの鉄砲玉が間断なく飛び交っていたでしょう。相手は進むことができません。

「騎馬軍団なんてなかった」を認めて、徒歩だとすると、余計に前に進めなくなります。

三段撃ちじゃなくても、そうなるはずです。しかも、火縄銃というのは、結構な威力で、射程も相当長いのです。

1000丁と仮定して、「玉ごめ時間を考えて稼働は5分の1ぐらい」と考えると200発。つまり200発の「実質5段撃ち状態」になります。各自がバラバラに撃ってもそうなるのです。

銃というのは一発でも怖いものです。今渋谷駅で一発の銃弾が発射されたとします。その音を聞けば、ほぼ全員が身をかがめるし、パニックが起きるでしょう。

銃弾というのは一発でも相当な心理的圧迫性があるのです。200発が間断なく発射されたら、もう乱射と同じです。竹の束で身を守って、おずおず進むのがやっとでしょう。

つまり三段撃ちを否定したぐらいで、学者さんに「したり顔」されても、困るしかありません。

というわけで、学者さんたちの奇妙な説明は、私にとっては何の意味もないというか、「はいはい、分かりました」という感じです。バッカだなーという感じすらします。

どうやら司馬さんが信長ブームを作ったと「勘違いしている」学者もいるようですが、実際は吉川英治の大河「太閤記」が昭和における信長ブームの始まりです。

実は司馬さんは信長についてはそれほど書いていないのです。「国盗り物語の後編」。最初これは書く気がなかったのですが、いろいろな事情で書くことにした。

最初は斉藤道三のみ書くつもりだったのです。信長はメインではなかったのです。確かに中世の破壊者としての信長は描きましたが、「本当に破壊者の側面を持っている」のだから、仕方ないことです。

ごりごりの合理主義者じゃないとしても、義昭追放だけでも、延暦寺焼き討ちだけでも、「破壊者」の名を与えられるのは当然だと思います。

信長は、「新史太閤記」でも登場します。でもメインは当然秀吉です。「尻喰らえ孫市」、メインは孫市ですね。あと小説の「功名が辻」には一切信長は登場しません。

司馬さんは、そんなに熱心に信長を描いてはいないのです。

一部の奇妙な学者さんはどうしても「信長を中世の破壊者にしたくない」ようですが、要するに「なんか目新しいことを言いたい」だけでしょう。

とにかく「どうしても信長を凡人に」したくてたまらないみたいです。それは「つまらない」し、なにより「間違い」です。



おんな城主直虎のタイトルのこと

2017年08月18日 | ドラマ
おんな城主直虎

古い大河ファンにとっては、見る価値がほとんどないホームドラマ、淡い恋愛ドラマです。もっとも私以外の人間には見る価値があるのかも知れません。人それぞれです。

柴咲さんは好きなんですが、できれば他の作品で主役をやってもらいたかった。かわいそうです。

だいたいこうやってブログなんかを書きながら、録画を「ながら再生」します。内容には、特に何の意見もありません。

タイトルが変なことには途中から気が付いていました。

「死の帳面」とか「ぬしの名は」とか。デスノート、君の名は、ですね。

ほとんどが言葉遊びになっているようです。まあ、「馬鹿みたい」ですね。そんなことより内容に力をそそげ、と思います。

前回は「復活の火」でした。

これには少し腹が立ちました。「復活の日」を馬鹿にするな!という思いです。

「復活の日」、小松左京原作の小説、映画。映画の主役は草刈正雄。新型ウィルスによる人類滅亡の危機を描いています。

この映画、万人にとって名作とは思いませんが、私にとっては素晴らしい映画で、1年に一回は見直します。

なにより「復活の日」という題名がいい。

デスノートあたりで言葉遊びをするのはいいですが、名作「復活の日」を汚さないでほしいものだと思います。




特攻を命じた人々

2017年08月18日 | 日記
特攻。

ここでは主に空の特攻を考えます。

「あはれ」なんですね。

何故かというと、最初は効果がありましたが、やがてアメリカ軍がVT信管というものを発明し、簡単に撃ち落されるようになります。

VT信管発明後はほとんどが敵に体当たりもできず、海の藻屑となってしまいました。

話ずれますが、0戦なんかは、ほとんど防御機能がないので、攻撃には向くのですが、攻撃されて撃たれると簡単に撃墜されてしまいます。

速く動けるのが0戦の特技なんですが、その為に機体を軽くする。防御機能を付けない、簡単に撃墜される、ということです。

で、命じた「大人たち」は戦後どうしたかというと、「だいたいがのうのうと生き残り」ました。

大西瀧治郎は流石に自決しました。が、猪口とか源田とか、戦後もちゃんと生きています。

大人たちは「最後はおれが行く」と言っていました。本当に最後に行ったのは、まあ1人だけしょうか。

その1人とは宇垣纏中将です。玉音放送後だったので、米軍に向かうわけにもいかず、おそらくどこかの島に自ら落ちて自決したものと考えられています。

その後、宇垣纏の行動は賞賛されることもなく、むしろ批判されます。若いものを引き連れていったという点が批判されたのです。

繰り返しますが、特攻は途中からほとんど効果がなくなります。効果がなくても続けられ、8月14日夜まで続きます。大人たちの愚策の犠牲となって、多くの若者が死にました。

ボクシング 山中は負け方もかっこいい

2017年08月17日 | 日記
ボクシングのお話です。

山中は最近は「打たれる試合」「ダウンする試合」が多かったので、嫌な予感がしていたのですが、的中して負けてしまいました。

でも堂々たる打ち合い。かっこいいと思います。

タオルはちょっと早いと、その瞬間は思いましたが、テンプルなんかを打たれて後ろに倒れたら、「最悪死ぬ」のがボクシングで、仕方ないと思います。

漫画の話ですが、矢吹丈も山中と同じバンタム級です。53キロぐらいみたいです。

あしたのジョーは最後は「真っ白な灰になって燃え尽きる」わけですが、それは漫画の話です。

実際の人間は「これからの人生」があります。

真っ白な灰になってしまうわけにはいきません。

同じ相手とリターンマッチをやって、そうして勝って引退、が理想ですが、

いちいち我々の理想に応えていたのでは、命がいくつあっても足りません。

何も気にせず、自分の体力を考えて、今後の答えを出して欲しいと思います。

このまま引退しても、偉大なる王者です。

自虐史観ではなく、自省史観だ。

2017年08月17日 | 日記
日本を悪く書くと「自虐史観」と言われます。

アホか、と一万回ぐらい言いたくなります。

たとえば、人間。自己を顧みる傾向がない人間は厄介だし、社会的に迷惑です。自己を顧みることは「自虐」とは言いません。

「自省」というのです。人間は自省心を持つようになって、やっと大人になります。もっとも6歳の子供にだって自省心はあります。

自虐史観と叫ぶことが好きな人間は、年だけとっても「自省」ができないのです。つまり子供よりたちが悪い。

歴史観は「自省」があってこそ、バランスが良くなります。

「自省史観」とは「歴史から学び」、そうして「現在を考えるため」の史観と言えるでしょう。

日本も、アメリカも、フランスもイギリスも、そして中国も朝鮮も「自省史観」を持つべきです。

フランスなんてナチスにパリが占領されて、レジスタンスでやっとパリを解放したくせに、大戦が終わると、とっととベトナム侵略を再開します。

結局ベトナムに散々やられて、その戦争をアメリカが引き継ぎます。フランス人はこの歴史を大いに反省すべきです。

アメリカがやってきた「悪行」は数知れず、日本の千倍ぐらいやってますから、反省も千倍ぐらい必要です。

朝鮮も反省しろ、というのはデリケートな問題ですね。でも、反省すべき点はあります。

明治期、日本人はなんとか朝鮮に近代化をして欲しかったのです。近代的軍隊を持ってくれないと、朝鮮を通ってロシアがやってくる。

だから福沢諭吉なんかは随分と留学生を育てます。ところが朝鮮はがんとして近代化を図らず、その留学生を逮捕したり、殺したり。

福沢はついに絶望してしまって「脱亜論」を書きます。

朝鮮には古い伝統的文化がありました。でもあの段階では、やはり近代化をしないと、自らも守れないし、アジア全体に影響が及んでしまう。

耐えがたきを耐えて朝鮮版の「維新」つまり「近代化」をするべきだったのです。

それをしなかったことが、今の北朝鮮問題に直接につながっています。近代化とは軍隊だけの話ではなく、政治の近代化でもあり、つまりは民主化であるからです。

日本が民主化したのは戦後じゃないかと言われそうですが、明治憲法は立憲君主制ですから、民主制度の一種です。ところが西南戦争があったため、天皇に絶対的な統帥権が付与されてしまい、

で、昭和初期の悪夢のような絶対君主であり神である天皇が登場してしまうのです。それでも天皇批判以外の部分では、かなりの言論の自由もありました、少なくとも大正期までは。

朝鮮(韓国、北朝鮮)も自省史観を持つべきです。中国もそうです。当然日本も。それは自虐などというものではなく、はるかに高い精神の表れなのです。

昭和天皇の戦争責任

2017年08月16日 | 日記
昨日「インパール戦慄の記録」を見ながら考えました。

昭和天皇に戦争責任があるかないか、なんてのは分かり切ったことで、本人も「ある」と言っているし、開戦も終戦も「詔勅」だし、「ないわけがない」のです。

ただし「あるのは当然だが、ないことにしよう。ない感じにしてしまおう。」ということになりました。マッカーサーと日本政府がそう政治的にしたのです。

東京裁判の初期ではオーストラリアなどは天皇の死刑を当然のこととして要求していました。が、結局「なかったことにしよう」となったのです。

昭和天皇はロボットだったなんてのは「都市伝説」です。

東条英機は毎日のように参内して、作戦を説明し、いちいち天皇の許可を得ていました。

東条の権力の源泉は天皇であり、天皇の「許可」がなければ、東条など「ただの暗記上手の男」に過ぎません。(陸軍での教育の根本は過去の勝利の暗記でした。)

サイパンが落ちて、天皇は東条をこう見捨てます。

「サイパンは絶対大丈夫と言ったではないか。もうお前は信用できぬ。」

で、東条は総理を辞めるのです。その流れだけでも「天皇はロボットだった」などという論理が成り立たないのは自明です。

ちなみにこの時東条に対しては複数の「暗殺計画」がありました。辞任によって、実は2年ばかり東条の命は延びたのです。

東条は戦時中に天皇の意思に逆らって行動したことはなかったのですが、東京裁判では、人を通じて「さからったことにしろ」と言われ、

非常に苦しんだあげく、「逆らったことももしかしたらあったかもしれない」という言葉を絞り出すように語ります。ちゃんと録画されています。

天皇の戦争責任が「なかったことになった」ことで、日本の治安は守られました。しかし治安が守られから「良かった」とはならないのです。

昭和天皇は「戦争責任」には戦後一貫して敏感でした。靖国に東条らが分祀された後は、ぴたりと靖国参拝をやめます。

それ以来、日本の皇族は一切靖国には参拝していません。

参拝すれば、「なかったことになった」戦争責任論が再燃することは当然で、だから参拝しないのです。

「戦慄の記録インパール」、佐藤師団長の抗命を話題にしなければ、何の意味もなし。

2017年08月15日 | 日記
本日放送の「戦慄の記録インパール」。

佐藤幸徳師団長の「独断撤退」とその後のこと、を話題にしていませんでした。

1992年のドキュメント太平洋戦争(NHK)では、むしろ独断撤退しなくていけないほどの軍の硬直的官僚化と牟田口の無能さがメインだったはずです。

今日の放送では、まるで「みんなが悪かった」ようになっています。ばかばかしい番組作成姿勢です。

インパール作戦というものを取り上げたことはよいことですが、佐藤師団長の無断撤退を取り上げなければ、何の意味もありません。

佐藤師団長は繰り返し食料の補給を求めますが、無能な牟田口にそれができるわけもありません。

そこで佐藤師団長は部下の命の一人でも救うため、日本陸軍初の「師団長の命令無視行動」をとります。

つまりは「抗命」、「独断撤退」です。

そうして史上最悪のインパール作戦は終わることになるのです。

本部に戻った佐藤中将(師団長)は牟田口を探します。兵站無視の作戦によって日本兵を無駄に餓死させた牟田口への佐藤の怒りは頂点に達していました。

「牟田口を出せ、俺が牟田口を斬る」と日本刀を振りかざします。

牟田口はとっくに逃げていました。

師団長は天皇が直に任命しますから、佐藤師団長の行動は天皇への「抵抗」でもありました。

そこで、陸軍は佐藤師団長を「心神喪失」扱いとし、陸軍という官僚組織を守ります。

帝国陸軍というものがいかに腐った官僚組織だったかを描かなければ、インパールで死んだ人々に対して失礼です。

本日の「戦慄の記録インパール」の「みんな悪かった」というような惰弱な描き方では、餓死した兵隊が泉下で「怒りにうち震える」と思います。

「つわものの生命救いし決断に 君は問われし抗命の責め」、これはインパールの生存者が佐藤師団長顕彰の碑に刻んだ言葉です。

佐藤師団長は後に「大本営、総軍、方面軍、第15軍という馬鹿の四乗がインパールの悲劇を招来したのである」という言葉を残しています。