神奈川工科大学/災害支援関連ブログ

2011年4月開始の「東日本大震災被災者支援ブログ」を名称変更し、さらに広い支援活動に関する実践、教育、研究を掲載します

南三陸町でのボランティア報告 その6

2011-10-13 10:52:24 | ボランティア
(下島君の報告、続きです。お読みください。)

(中略)
・・・明るい口調で、自らの被災体験を語ってくれた。
 その日、大きな揺れのあと、津波が来ると聞かされた男は商売道具や愛犬を、水に浸からぬよう自宅二階に移していた。
 ところが、余震で隣家が倒壊し、壁を突き破ってきた柱に挟まれ、身動きが取れなくなった。そこを巨大な津波が襲った。
 死を覚悟した、波にもまれ、気がつくと、一四メートルを超える波の頂上から顔を出して、町が呑まれていく様を目撃したという。その光景は、さながら映画を見ているようだった。その後、近くに浮かんでいた強化発泡スチロールの畳に乗り、ガレキが渦巻く中を流されて、自宅から一キロ以上離れた気仙沼線の築堤に取り付き、一命を取り留めたという。
「でも、家族はみな無事でしたしね。身体もぼろぼろになりましたが、トオルさんとこの豚肉食べてたら、すっかりこの通りです。今はここの下にある小屋に居候させてもらってます。物も運び込んで、まるで自分の城ですよ」
 おどけるように巨体を揺らして笑う。僕らも声を上げて笑った。笑うしかなかった。
 そうこうしているうちに、会場には、あちこちから人が集まってきた。病院の医師、小学校の先生、工務店の社長。異なる職種の人々が一堂に会する。
「病院の建物は見ましたか?」
 志津川病院の医師が話しかけてきた。
「しっかり建ってるように見えるでしょう? あれ、四階まで波がきて、中は何も残ってませんからね」
 志津川病院には五階建ての新館と四階建ての旧館があった。誰も四階まで津波が上がってくるとは思っていなかった。その結果、新館に避難した人たちは助かったが、旧館に逃げた人たちは皆流されてしまった。
 津波警報が狼少年と化していたと、医師は指摘する。
「私も、そんな津波が来るなんて、信じてませんでしたから。避難訓練で避難を先導していた立場だったから、面倒くさいと思いつつ、避難したんですよ。それが、あんなことに」
 その顔には、疲労と後悔が深く滲んでいた。
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