一週間ほど風邪を引いて、出かけることも出来なかったけど、
やっと治ってきたので、今日は久しぶりに出かけてきました。
天気も快晴で日差しを浴びながらの散策でした。
前回は鎌倉の七福神巡りでしたが、今回は私の地元である
相模七福神巡りに出かけたのです。
以前から相模にも七福神巡りがあるのは知ってましたが、
地元に住んでいながら、相模七福神は初めてでした。
今回はその1として4箇所を載せ、次回は残り三箇所を載せる予定です。
なお、説明文はすべて相模七福神巡りでいただいたパンフレットより引用いたしました。
恵比寿(浄土寺)
この寺は元亀年間(1570-1572) 相模の国、四ツ谷村市兵衛の創建にかかり、
浄土宗大善寺(八王子市)の末寺として建立されました。開山は願誉門悦で、本尊は阿弥陀如来です。
境内には江戸時代、ここの地域では最も早く寺子屋を開いて近在の子弟の教育をしたといわれる師匠、
保田安兵衛(鳥取県出身)の墓碑があります。
大黒天(妙元寺)
大黒天は、もとはインド・中国で寺院の守護や生産をつかさどる神。
福徳の神で我が国では、伝教大師が初めて比叡山にこの神をまつり、
後世は七福神の一つとして、ずきんをかぶり、右手に小槌、左手に背負った袋の口をにぎり、
米俵の上に乗る形となり、恵比寿とともに広く信仰されてます。
弁財天(龍源院)
龍源院弁財天は実州存貞大和尚延宝元年(1673)が堂宇改築の折、
ある夜夢枕に立った一匹の白蛇のお告げにより、財宝・五穀豊穣を祈念して造立したといわれています。
時に寛永13年(1636)のことで、お弁天さまのお使いである蛇の頭部にあごひげを蓄えた
天女の頭がのった石像で、蛇は五重にとぐろを巻いています。
毘沙門天(本覚寺)
当山は弘法大師の開いた真言宗の大覚寺派の末寺です。
毘沙門天(多聞天)は帝釈天の眷族であある四天王のひとつで、北方の守護神です。
当山でも境内の北方の毘沙門堂にお祀りされています。
弘法大師作との伝承となっていますが、鎌倉時代末期の作のようです。
七福神のひとつとされているのは、毘沙門天の本身がヒンズー教で富の神である
クベーラ神であることによると考えられています。
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前回は鎌倉の七福神巡りでしたが、今回は私の地元である
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以前から相模にも七福神巡りがあるのは知ってましたが、
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今回はその1として4箇所を載せ、次回は残り三箇所を載せる予定です。
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恵比寿(浄土寺)
この寺は元亀年間(1570-1572) 相模の国、四ツ谷村市兵衛の創建にかかり、
浄土宗大善寺(八王子市)の末寺として建立されました。開山は願誉門悦で、本尊は阿弥陀如来です。
境内には江戸時代、ここの地域では最も早く寺子屋を開いて近在の子弟の教育をしたといわれる師匠、
保田安兵衛(鳥取県出身)の墓碑があります。
大黒天(妙元寺)
大黒天は、もとはインド・中国で寺院の守護や生産をつかさどる神。
福徳の神で我が国では、伝教大師が初めて比叡山にこの神をまつり、
後世は七福神の一つとして、ずきんをかぶり、右手に小槌、左手に背負った袋の口をにぎり、
米俵の上に乗る形となり、恵比寿とともに広く信仰されてます。
弁財天(龍源院)
龍源院弁財天は実州存貞大和尚延宝元年(1673)が堂宇改築の折、
ある夜夢枕に立った一匹の白蛇のお告げにより、財宝・五穀豊穣を祈念して造立したといわれています。
時に寛永13年(1636)のことで、お弁天さまのお使いである蛇の頭部にあごひげを蓄えた
天女の頭がのった石像で、蛇は五重にとぐろを巻いています。
毘沙門天(本覚寺)
当山は弘法大師の開いた真言宗の大覚寺派の末寺です。
毘沙門天(多聞天)は帝釈天の眷族であある四天王のひとつで、北方の守護神です。
当山でも境内の北方の毘沙門堂にお祀りされています。
弘法大師作との伝承となっていますが、鎌倉時代末期の作のようです。
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