今年最後の締め括りとして、慈善能を見てきた。出し物は「熊坂」。いつものように能一番と狂言一番だけと思っていた。ところが延々と仕舞、舞囃子がつづいて一向に本番が始まらない。これは謡曲教室の発表会と同じだと思った。いつもは入口でプログラムが貰えるのだが今回は何もなかった。席につくとあちこちでチラシを見ている人がいる。もしや受付で渡してくれなかったのか、と思い貰いに行こうかと思った。しかし、待てよ、この前貰ったチラシを見ているのかと、よく考えて見るとそう、いろいろ書いてあったな。そんなのなら持ってくればよかった。が、後の祭り。前の人が開いているのをそっと、盗み見、でもよく分からない。
1時開演で熊坂が始まったのは3時半だった。こんなのなら時間励行で出てくる必要がなかった。
熊坂の前半はシテがほとんど動かない座ったままなのだ。こんな能もあるのかと思った。ところが後半のシテは派手な金ピカの衣装で派手に動き回る。熊坂長範が牛若丸と闘っている場面だが何故か牛若丸が出てこない。長範の独り舞台。こんな能もあるのか。
謡を習っている関係上、どこでどんな場面があるのか知るためにいつも謡本を持って行って本と照らし合わせてみている。本を見れば舞は見れない。舞を見れば本の何処のページをやっているのか分からなくなる。ましてや、ワキは謡本にないセリフを言う。最初はワキがせりふを間違えているのかと思った。そうじゃなかった。ワキは彼らの謡本を持っているのだった。そしてそのワキが謡い出すと手元の謡本と違うことを言っているので手元のテキストのどの部分をやっているのか分からなくなってしまう。よくよく練習を重ねないと場所を見誤ってしまい、何のために謡本を持ってきたのか分からなくなってしまう。
能の内容が分からなくなるのは耳が悪いせいだと思っていた。ところが写謡をやっていると、不思議と場所が分かるようになった。写謡はごまかしがきかない。確りと内容を確認しながら写している。いい加減な勉強をしていたんだなと思った。
月参りに来るお坊さんのお経も途中でどこを唱えているのか分からなくなる。一生懸命その場所を追っていたらそのうちお経さんが終わってしまう。そんなことがよくあった。ところが最近はそんなことが無くなった。これも写謡の勉強をやったお陰かな。分からないことを耳のせいにしてはいけない。
帰って例のチラシを確かめた。ちゃんとしたプログラムだった。それも出演している能楽師は一流の先生たちばかりだった。聞くところによると、彼らは奉仕で出演しているので出演料はもらえないという。売り上げはみんな福祉施設に寄付するらしい。それでも彼らは決して手を抜かない。素晴らしい謡を披露してくれた。