平家一族
クレヨンで歴史の勉強をしています。
今回は平家物語に登場する人物を書きました。
清盛の祖父。白河法皇に信頼され、検非違使・追捕使として諸国に賊を討ち、伊勢平氏興隆の道を開いた。
清盛の父。白河・鳥羽両上皇に信頼され、1129年(大治4)に山陽・南海2道の海賊を追補し、35年(保延1)再度西海の海賊を平らげ、累進して刑部卿に進み内昇殿を許された。また日宋貿易に尽力。
忠貞・忠員とも。平正盛の子(弟も)。崇徳天皇に仕え、藤原頼長に臣徒。保元の乱で崇徳・頼長方についたが敗走、京の六条河原で甥平清盛に処刑された。
保元・平治の乱後、源氏に代わって勢力を得、累進して従一位太政大臣。娘徳子を高倉天皇の皇后とし、その子安徳天皇を位につけ、皇室の外戚として勢力を誇った。子弟はみな顕官となり専横な振舞が多く、その勢力を除こうとする企てもしばしば行われ、没後数年にして平氏の嫡流は滅亡。
平安時代末期の平家の武将。平忠盛の三男。平清盛の異母弟。平敦盛らの父。
忠盛の子。清盛の弟。清盛の六波羅邸の門脇に邸宅を構え、門脇(かどわき)殿と称された。平治の乱の巧により越中守、ついで正三位権中納言。源行家を播磨に破ったが、壇ノ浦の戦に兄の経盛と入水。
忠盛の子。母、池ノ禅尼が源頼朝を助けた功により、平氏滅亡後も頼朝に厚遇された。
正四位下。忠盛の子、清盛の弟。和歌を良くした。都落ちの際、詠歌百余首を師の藤原俊成に託し、一門とともに西走、一ノ谷で戦死した。
小松内府・小松殿・燈籠大臣。保元・平治の乱で巧をあげ、従二位・内大臣にのぼった。性温厚で、道理を重んじ人望があったが、一門全盛期に病没した。
平清盛の三男。母は清盛の継室・平時子。時子の子としては長男であり、安徳天皇の母・建礼門院(平徳子)は同母妹である。官位は従一位行内大臣。平氏政権の惣管。通称は屋島大臣など。
清盛の子。重盛・宗盛の弟。権中納言。1180年(治承4)源頼政を宇治で滅ぼし、81年(養和1)源行家を美濃に破った。壇ノ浦の戦で「見るべき程の事は見津」と入水。
清盛の子。1180年源頼政らを宇治に倒し、南都の東大寺・興福寺を焼く。一ノ谷の戦いで敗れ、捕らえられて鎌倉に送られたが、南都の衆徒の要求で奈良に送還、木津川で斬首された。
高倉天皇の中宮。名は徳子。父は平清盛。母は時子。高倉天皇の中宮として1178年安徳天皇を産む。1183年平氏と共に西走、壇ノ浦の戦いで入水したが、助けられて帰京。出家、大原の寂光(じゃっこう)院に閉居。
但馬守正四位下。父は清盛の弟、参議経盛。弟には敦盛がいる。和歌、琵琶に秀でた。若年で仁和寺宮守覚法親王に師事し、親王の秘蔵の琵琶「青山」を賜った。寿永2(1183)年平家一門の都落ちに際しては、名器「青山」が戦乱で喪失するのを恐れ、仁和寺宮を訪れて返却し、別れに数曲を弾いたところ、聞く者の涙を誘ったという。翌年一ノ谷の戦いに敗れ割腹した。
経盛の子。一ノ谷の戦で熊谷直美(なおざね)に討たれたという。
平安時代末期の平家の武将。平教盛の嫡男。平教経らの兄。妻の1人は小宰相。越前三位と呼ばれた。本名は公盛。
教盛の子。正五位下能登守。勇敢で、たびたび木曽義仲の手勢を破り、屋島の戦には佐藤継信を1矢で射止め、壇ノ浦では義経を追い、ついに入水。
重盛の子。1180年源頼朝の挙兵に際し、追討大将軍になるが富士川の戦で敗走。尾張に源行家を討ったが、礪波(となみ)山の戦では源義仲に敗れ、のち平家一族とともに西走。その後、紀伊(きい)那智(なち)で入水したという。
平重盛の次男。母は藤原親盛・あるいは藤原親方の娘。位階は従三位まで昇叙、新三位中将と称された。和歌に優れ、『新勅撰和歌集』『風雅和歌集』に名を残している。
平重盛の三男。母は正室の藤原経子。横笛の名手として聞こえた。
平家の棟梁平宗盛の長男で、平清盛の孫にあたる。母は後白河法皇の寵妃・建春門院の同母妹である平清子。
平知盛の長男。怪力で知られた。 凡例. 平 知章. 時代, 平安時代後期.
平家一門、僧侶。父は平維盛。平清盛の曾孫にあたる。母は藤原成親の娘・新大納言局。
謡曲では平家一門の名前が沢山出てきます。
このところ雨の日が続いています。
雪が積もったのは1日だけだった。
今年はこのまま終わりそうです。