亀の川登

難聴に苦しむ男の日記帳。

教会の話を聞く

2023-12-29 | 学問

いつも謡曲教室でお世話になっている老人福祉施設で月に一度「教養講座」というものがある。

今月は何故かそれが2回あった。今回はその二回目だった。今年最後の講演である。

「日本基督教団」とある。その見慣れない基督の横に(キリスト)とルビが打ってあり、普段は仏さまの話ばかりだったので興味を持って行ってきた。

参加者は私を含めて3人だけ、全く人気がない。

講師は男だと思っていたら女の人だった。

例の如く女の講師は作文を読むように話していた。

これは、講演というよりテレビのニュース解説のようでわざわざ出て来るまでもなかった。

今日のテーマは「苦難から解放でもなく、諦めでもなく、~キリスト共に生き、死に向かう~」という何とも長ったらしい題名だった。

元看護士をしていた人らしく、今日は死に直面した患者の話が中心だった。

キリスト教では人は死んだらイエスキリストのもとに行くらしい。

キリストは十字架の上で処刑されてから三日後の復活したそうだ。私たちは死んだらそのキリストさまのもとに行くのだという。

元看護士さんの講師はいつも死に直面した患者さんと接しているのだという。

ナースコールがなって病室に行くと死への恐怖で脅えた患者さんがそこにいる、何とかなだめてナースへ戻って行くとすぐまた呼び出しがかかる。今、行ってきたばかりなのに。そうなのです、患者さんはいつも死に対する不安でいっぱいなのである。

また、あの患者さんかといっても放っておけない。何とも因果な職業です。

看護士さんは常にそんな患者さんと向き合っているのです。

想像しただけでゾッとする職業です。

看護士という仕事は大変なのだな~と思う。

人の死に方は二つのタイプがあると思う。

一つは意識が朦朧として何もわからなくなって自然に死に行くタイプ。

もう一つは最後の最後まで苦しんで暴れまくるタイプ。

我が父母は前者だった。

何もわからなくなって死にゆくタイプならいいが、最後まで死の苦しみに悩まされるタイプだったらそれは大変なことだ。

一時間ばかりの作文の朗読が終わった後、私は質問した。

「一度は教会に行って見たいと思うがなかなか敷居がた高くて入れない。毎日教会の前を通っているのだけど…どうやって入ればいいのですか。お寺さんのようにお布施のようなものを払わなければいけないのですか。」

教会の入口には黒い袋が下げられていて、その中にお金を入れればいいのです。なにも強制ではなく、別にいれなくてもいいんすよ」とのことだった。

そして、ながながと問答した後、ふと周りを見ると、だーれのいなくてそこにいるのは私と先生だけだった。

みんな、といっても3人だけなのだけど・・・

 

講演を聞きに行く前に、私は玄関戸の上の落ちた壁を直していた。

玄関の前には灯油缶が並べてあり狭い空間に脚立を立てて昇ろうとした。当然のことだがバランスを崩して玄関の外のコンクリート面に投げ出された。そこにガラスの壁があった筈なのにそれがなかった。戸が前開になっていたのである。つながるところがなくて私はコンクリートの地面に叩き付けられたが、幸いにも背中は何ともなかったが、その変わり胸が痛かった。肋骨はいままで何度も痛めており、それがどうかなったらしい。折れて肺に突き刺さっていなければいいが・・・なんて心配していたが、一夜あけた今日 家内が「頭をどうかしたの」と聞く、どうやら頭に傷がついて血が出た跡があったらしい。

頭を打た記憶が全然ないのに・・・

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする