神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

東神田三丁目町会

2007-05-13 17:05:48 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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南に神田川をのぞむ東神田三丁目【ひがしかんだ3ちょうめ】は、かつて神田八名川町【かんだやながわちょう】 、神田元久右衛門町【かんだもときゅうえもんちょう】 、神田餌鳥町【かんだえとりまち】 、神田向柳原町一丁目【かんだむこうやなぎはらちょう1ちょうめ】に分かれていました。

 江戸時代からのこれらの町の名前は、明治5年に正式な町名となりました。向柳原町【むこうやなぎはらちょう】は、浅草区へ編入したのちに一部が神田区へ戻り、神田向柳原町一丁目となりました。

 昭和42年、住居表示の実施により町名が大きく変わることになりました。このときに、案として出された「秋葉原【あきはばら】」や「秋葉【あきは】」の名前に満足できなかった町の人たちは、要望書を提出して「神田」の二文字を残すことにしました。こうして東神田三丁目という名前に変わりました。

 町会の該当区域は、東神田三丁目全域となっています。


 光り輝く神輿に御注目下さい。当町会の神輿は神輿師の製作ではなく、宮大工【みやだいく】により造られました。総勢300名での宮入となります。



佐久二平河町会

2007-05-13 16:51:42 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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この界隈は、江戸時代の早い時期から商人や職人が集まる町でした。「佐久【さく】」という名前は、佐久間平八【さくまへいはち】という材木商が住んでいたことから生まれました。江戸時代初期の慶長【けいちょう】年間(1596~1615)に、江戸城築城のための材木を供給したのも佐久間町でした。

 江戸時代から続いた神田佐久間町二丁目は、たび重なる火災で町が南北に分断されていましたが、明治2年(1869)にその間の武家地を編入し、明治44年(1911)、神田を取って佐久間町二丁目と改称しましたが、昭和22年には、その名を神田佐久間町二丁目に戻ました。

 一方、神田平河町【かんだひらかわちょう】も、防災と深いかかわりをもった町です。享保【きょうほう】12年(1727)、防火のため、麹町平河町一丁目【こうじまちひらかわちょう1ちょうめ】が火除地【ひよけち】に設けられました。そこに住んでいた人々のための代地【だいち】が神田佐久間町の隣に置かれ、麹町平河町一丁目【こうじまちひらかわちょう1ちょうめ】代地と呼ばれました。その後、明治2年に神田平河町【かんだひらかわちょう】 、明治44年には平河町と名を変え、昭和22年、ふたたび神田平河町【かんだひらかわちょう】と改名しました。

 町会の該当区域は、佐久間二丁目、神田平河町、佐久間河岸45~55番地となっています。


当町会の神輿は昭和27年に後藤直光【ごとう なおみつ】により製作されました。今年新たに修復されての宮入です。
御注目下さい。



佐久間町三丁目町会

2007-05-13 16:37:09 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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 江戸時代、この界隈には町人地と武家の屋敷地とが混在していました。「佐久間町【さくまちょう】」の名前の由来は、佐久間平八【さくまへいはち】という材木商【ざいもくしょう】が住んでいたことに由来するとされています。

 由来版が立っている佐久間公園は、ラジオ体操の発祥【はっしょう】の地としても知られています。「国民保険体操のラジオ放送(のちのラジオ体操)」が開始されてまもなく、昭和5年に万世橋【まんせいばし】警察署の巡査が地域の住民を集め、全国に先がけてこの公園で早起きラジオ体操を始めました。これを記念して同公園には由来を記【しる】した石碑【せきひ】が建立【こんりゅう】されています。

 大正12年の関東大震災時に神田川南岸まで火の手が来ていましたが、町内の人々が力を合わせてバケツリレーをし延焼を免れました。その功績を称え「町内協力防災守護之地」として史跡に指定されました。

 神田佐久間町三丁目は、江戸時代から続く由緒ある町名です。長い歴史に培【つちか】われた強い連帯感で結ばれた住民たちは、力をあわせて町を守り抜いています。

 町会の該当区域は、佐久間三丁目、佐久間河岸59~78号地となっています。


 当町会の神輿は、昭和32年に後藤直光【ごとう なおみつ】の手により生み落とされました。今年化粧直しを行いました。宮入前、鳥居前において今年も元気いっぱいの踊りを行いました。



鍛冶町一丁目町会

2007-05-13 16:27:03 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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 鍛冶町は、慶長【けいちょう】8年(1603)の市街地造成【ぞうせい】の際につくられた町屋【まちや】です。ちなみに「鍛冶【かじ】」という名は、町が生まれた当初、江戸幕府お抱えの鍛冶方棟梁【かじかたとうりょう】だった高井 伊織【たかい いおり】が、この地を幕府より拝領して屋敷を構えたことに由来するとされます。多くの鍛冶師【かじし】、鋳物師【いもじし】、釜師【かまし】などが集まって築城用金物【かなもの】をはじめとして、建築用金具、鐘【かね】、鍋、釜などを製造する一大工業地帯となっていました。

 鍛冶町【かじちょう】は、江戸時代の武士や庶民にとって必要不可欠な金属製品を提供し、日常生活をささえ続けた町でした。

 昭和8年、震災復興の区画整理の際に町名変更が実施され、南乗物町【みなみのりものちょう】等の五つの町を一つとした「鍛冶町一丁目【かじちょう1ちょうめ】」が生まれました。

 町会の該当区域は、鍛冶町一丁目全域となっています。


 当町会の神輿は神田明神の氏子町会の中で、数少ないの入母屋造り【いりもやづくり】の神輿の一つです。総勢300名の担ぎ手により宮入を行います。秋葉原電気街での神輿振りは必見です。



鍛冶町二丁目町会

2007-05-13 16:19:40 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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町名の由来は一丁目と同じで、多くの鍛冶師【かじし】 、鋳物師【いもじし】 、釜師【かまし】などが集まった土地であった事に因んで、名付けられました。鍛冶町【かじちょう】の名前の始まりは江戸時代になります。この近辺に幕府御用【ごよう】を勤める鍛冶方棟梁【かじかたとうりょう】であった高井伊織【たかいいおり】が屋敷を拝領【はいりょう】し、鍛冶職人などが数多く集まっていたのです。

 この二丁目界隈は、金物のなかでも、とくに刀や薙刀【なぎなた】といった打物【うちもの】を扱う業者が多かったのが特徴だったようです。

 昭和8年の区画整理で、黒門町【くろもんちょう】 、上白壁町【かみしらかべちょう】 、下白壁町【しもしらかべちょう】 、鍛冶町二丁目等が統合され、「神田鍛冶町二丁目」となりました。昭和22年麹町区と神田区の合併により千代田区神田鍛冶町二丁目となり、更に昭和49年に神田の文字が無くなりました。

 近代科学の大先覚者【だいせんかくしゃ】、平賀源内【ひらが げんない】が29才で初めて江戸に出て家を持ったのがこの町であり、生涯を通して最も長く住んだ町であるといわれています。

この町会には「良薬にして口に甘し」の浅田飴があります。明治30年からずっとこの地で営業を続けています。元は江戸末期から明治初期にかけて活躍した漢方医の浅田 宗伯【あさだ しょうはく】処方の「御薬さらし水飴」を「浅田飴」と改め、売り出したのが始まりです。
 
町内の該当区域は鍛冶町二丁目全域となっています。


当町会の神輿は、昭和9年、神田神社の再興に伴う祭礼に併せて、宮大工の手により作られました。大きさは、台輪【だいわ】寸法2尺6寸です。総 欅【そうけやき】作りの傑作の神輿です。現在は、神田神社神輿庫【みこしこ】一番庫【いちばんこ】に収納されています。