神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

神田須田町二丁目町会

2007-05-13 16:18:22 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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 現在の神田須田町【かんだすだちょう】二丁目が生まれたのは、昭和8年になります。大正12年(1923)の震災復興の区画整理の際に、「元柳原町、柳町、柳原河岸、小柳町【こやなぎちょう】、平永町など」の町が合併され、いまの町の区域が定められました。

 昭和20年2月22日と3月10日の東京大空襲では、東京の東半分がほぼ焼き尽くされましたが、須田町二丁目は町の人々が一致団結して防火にあたったため、町内の一角は戦火をまぬがれることができた、といわれています。

 戦後、須田町二丁目周辺は、ラシャの切り売りなどを生業【なりわい】とする業者が集まり、一時は日本一といわれるほどの繁盛ぶりを示しました。 

 昔から祭り好きの人たちが多い土地柄ですが、この界隈には、神田神社・柳森【やなぎもり】神社・下谷【したや】神社の氏子【うじこ】が集まり住んでいます。いまでもこの須田町に住む人々は、お祭りの他、様々な町内イベントを行っており、伝統・文化を守り続ける町会です。

 町会の該当区域は、須田町二丁目全域となっています。


 当町会の神輿は、昭和13年、神田の宮惣【みやそう】で作られました。大きさは2尺3寸になります。黒漆屋根【くろうるしやね】に3つの屋根紋【やねもん】が入り、胴が絞られた美しく、バランスの良い神輿です。約500名の担ぎ手で宮入を行います。



北乗物町町会

2007-05-13 15:50:40 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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北乗物町【きたのりものちょう】は、明治2年(1869)に、元乗物町代地【もとのりものちょうだいち】 、兵庫屋敷代地【ひょうごやしきだいち】 、神田紺屋町二丁目横町代地【かんだこんやちょう2ちょうめ よこちょうだいち】が合併して成立しました。成立時、この地に多くの駕篭【かご】職人が入居しました。町名を付けるにあたり、かつて駕篭職人が多く住んだ地を乗物町と読んだことから乗物町としました。当時、今川橋の付近に南乗物町が有り、そこより北に位置する故「北乗物町」と名付けられたと云われています。明治の中頃には、酒類製造所と云う大看板が下がっている大きな居酒屋があり、多くの労働者で大変賑わっていたそうです。北乗物町は鍛冶町一丁目【かじちょう1ちょうめ】の中央を東西に走る道筋の北側にできた片側町でした。 

 元乗物町の「元」は日本橋の「新乗物町【しんのりものちょう】」に対して付けられました。「兵庫屋敷」は兵庫殿【ひょうごでん】という御女中【ごじょちゅう】が拝領【はいりょう】した屋敷である、と言われています。

 町会の該当区域は、北乗物町全域となっています。


 当町会は神輿に加え、山車【だし】にも御注目下さい。昭和29年に作成された、獅子頭【ししがしら】を戴【いただ】く太鼓山車です。雄、雌の獅子頭【ししがしら】だけを取り外し、担ぐことも出来ます。昨年は山車を修復しました。その美しさに御注目下さい。今回、「紺屋町南町会」の皆様の協力を得て宮入をします。「北乗物町」「紺屋町南」の2種類の半纏をお楽しみください!



須田町一丁目南部町会

2007-05-13 15:42:03 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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 江戸時代の須田町は、現在の神田須田町一丁目とほぼ同じ範囲でした。江戸期の町内には、菓子屋や薬屋、塩や油を扱う問屋、神具【しんぐ】や仏具【ぶつぐ】を売る店など、さまざまな商品を扱う店があった、といわれています。現在の町内にも、東京都選定の歴史的建造物に指定されるような老舗の商店が数多く営業しています。
 
 かつて、須田町交差点の一角で、銀座線の入口近くには「立花亭【たちばなてい】」という寄席【よせ】がありました。この寄席【よせ】は震災では焼けましたが、戦災はまぬがれて、昭和29年に幕をおろすまで、書物にもよく取り上げられるほどの東京でも有数の寄席【よせ】の一つでした。名人と言われた三代目、柳家 小【やなぎや こ】さんの告別式もここで執り行われました。
 
 町会の該当区域は須田町一丁目5・7番地及び16~34番地までの偶数番地となっています。


 当町会の神輿の大きさは他の町会と比べると、小ぶりですが、彫刻の手の凝りようではどこにも負けないと思います。中神田十三ケ町連合の一員として宮入りします。当町内には、老人病院があります。病院前で神輿をねるときは入院患者のご老人の方々を始め、病院スタッフにも大変喜ばれています。



多町一丁目町会

2007-05-13 15:28:01 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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 多町一丁目【たちょう1ちょうめ】は江戸時代は、神田堅大工町【かんだたてだいくちょう】とよばれ、大工職・左官職・屋根屋等の職人が多く住む町であった、といわれています。また江戸名物と言われた「纏屋治郎右衛門【まといやじろうえもん】 」の店があり、江戸でただ一軒の纏屋【まといや】でもありました。町火消【まちびけし】しの旗印たる「纏【まとい】」はいずれもこの店で造ったものであり、「いろは四十七組【よんじゅうななくみ】」はもとより、他の地方の分までも一手に手掛け、その名は広く知れ渡っていたといわれています。
 
 町会の道路下には、東京都指定史跡【しせき】である「神田下水【かんだげすい】」が埋設されています。この下水は明治17年に、一般市民の衛生や都市環境を改善する目的で、近代工学に基づいて建設された我が国初の近代下水道といわれています。その構造は現在の下水道管とは異なり、レンガで積まれ強固に築かれています。
 
 町会の該当区域は内神田三丁目7・12~14・17・18・22・23番地となっています。


 当町会の神輿は昭和25年、宮本重義【みやもと しげよし】の作品です。大きさは2尺あり、白木【しらき】づくりとなっています。明神下から大鳥居までの女性だけの巡行は必見です。熱気と興奮の宮入は当連合の十二番をつとめます。



内神田旭町町会

2007-05-13 15:23:23 | 平成19年 神田祭 神輿宮入
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 江戸時代、この辺りは出羽【でわ】秋田藩藩主佐竹 義宣【さたけ よしのぶ】及び能楽師幸若太夫【こうわかだゆう】の屋敷地でした。天和【てんな】2年(1682)の大火でこの付近一帯が焼失した後、佐竹氏は下谷三味線掘【したやしゃみせんぼり】 (現台東区)に移転し、跡地は町人地となり永富町【ながとみちょう】二~四丁目、新革屋町代地【しんかわやちょうだいち】 、元乗物町代地【もとのりものちょうだいち】の一部となりました。明治2年(1869)、これらの地域は「旭町【あさひちょう】」と改名されました。「旭町」の由来は佐竹氏の家紋「扇に日の丸」に因んでいるといわれています。

 町内にある『佐竹稲荷神社【さたけいなりじんじゃ】』は寛永【かんえい】12年(1635)に創られました。同町の鎮護【ちんご】の神として丑寅【うしとら】の一隅【いちぐう】に安置されていましたが、大震災後の区画整理の際に現在地(内神田三丁目10番地)に移されました。

 昭和41年に住居表示が実施されると、内神田二丁目と三丁目の一部となり、旭町の名前は地図から消えてしまいましたが、昔を語り継ぐように町会の名前として今でも存続しています。

 町会の該当区域は内神田二丁目8・9・13・14・16番地、内神田三丁目5・6・8~11・15・16・24番地となっています。


 旭町【あさひちょう】の旧町である、永富町【ながとみちょう】では天下祭の神田祭では竜神【りゅうじん】の山車【だし】を出していました。その故事にちなんで、旭町神輿には神田明神、竜神山車、花笠【はながさ】の町衆【ちょうしゅう】が彫刻されている、非常に珍しいものです。昭和27年、宮本重義【みやもと しげよし】作です。