神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

秋葉原東部地区連合 東神田三丁目町会

2013-05-12 19:05:47 | 平成25年 神田祭 神輿宮入

秋葉原東部地区連合 東神田三丁目町会の宮入です。

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南に神田川をのぞむ東神田三丁目は、かつて神田八名川町、神田元久右衛門町、神田餌鳥町、神田向柳原町一丁目に分かれていました。

江戸時代からのこれらの町の名前は、明治5年に正式な町名となり、向柳原町は、浅草区へ編入し、後に一部が神田区へ戻り、神田向柳原町一丁目となりました。

昭和42年、住居表示の実施により町名が大きく変わることになりました。
この時に、案として出された「秋葉原」や「秋葉」の名前に満足できなかった町の人たちは、要望書を提出して「神田」の二文字を残すことにしました。

こうして東神田三丁目という名前に変わったと言われています。

町会の該当区域は、東神田三丁目全域となっています。

【神輿の特徴】

光り輝く神輿に御注目下さい。
東神田三丁目町会の神輿は神輿師の製作ではなく、宮大工【みやだいく】により造られました。
総勢300名での宮入となります。


秋葉原東部地区連合 神田佐久二平河町会

2013-05-12 18:47:07 | 平成25年 神田祭 神輿宮入

秋葉原東部地区連合 神田佐久二平河町会の宮入です。

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この界隈は、江戸時代の早い時期から商人や職人が集まる町でした。
「佐久」という名前は、佐久間 平八という材木商が住んでいたことから生まれました。

江戸時代初期の慶長年間(1596~1615)に、江戸城築城のための材木を供給したのも佐久間町でした。
古くから幕府に仕えた町ということで、将軍家に祝い事があるときは、町人たちにも能の見学が許されていたといいます。

江戸時代から続いた神田佐久間町二丁目は、たび重なる火災で町が南北に分断されていましたが、明治2年(1869)にその間の武家地を編入し、明治44年(1911)、神田を取って佐久間町二丁目と改称しました。
しかし昭和22年には、その名を神田佐久間町二丁目に再び戻しました。

一方、神田平河町も、防災と深い関わりを持った町です。
享保12年(1727)、防火のため、麹町平河町一丁目が火除地に設けられました。

そこに住んでいた人々のための代地が神田佐久間町の隣に置かれ、麹町平河町一丁目代地と呼ばれました。

その後、明治2年に神田平河町、明治44年には平河町と名を変え、昭和22年、ふたたび神田平河町と改名しました。

昭和28年に、佐久間二丁目と神田平河町が合併、名称を佐久二平河町会として発足し、現在は神田佐久二平河町会となりました。

町会の該当区域は、佐久間二丁目、神田平河町、佐久間河岸45~55番地となっています。

【神輿の特徴】

神田佐久二平河町会の神輿は昭和27年に名工、後藤 直光により製作され、一本彫りの繊細な彫刻が特徴であり、一昨年修復されました。
是非ご注目ください。


秋葉原東部地区連合 神田佐久間町三丁目町会

2013-05-12 18:26:46 | 平成25年 神田祭 神輿宮入

秋葉原東部地区連合 神田佐久間町三丁目町会の宮入です。

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江戸時代、この界隈には町人地と武家の屋敷地とが混在していました。
「佐久間町」の名前の由来は、佐久間平八という材木商が住んでいたことに由来します。

由来版が立っている佐久間公園は、ラジオ体操の発祥の地としても知られています。

「国民保険体操のラジオ放送(のちのラジオ体操)」が開始されて間もなく、昭和5年に万世橋警察署の巡査が地域の住民を集め、全国に先がけてこの公園で早起きラジオ体操を始めました。
これを記念して同公園には由来を記した石碑が建立されました。

大正12年の関東大震災時、神田川南岸まで火の手が来ていましたが、町内の人々が力を合わせてバケツリレーをし延焼を免れました。
その功績を称え「町内協力防災守護之地」として史跡に指定されました。

町会の該当区域は、佐久間三丁目、佐久間河岸59~78号地となっています。

【神輿の特徴】

神田佐久間町三丁目町会の神輿は、昭和32年に後藤 直の手により生み落とされました。
豪快で、元気いっぱいの担ぎっぷり、ご注目ください!


神田駅東地区連合 神田須田町二丁目町会

2013-05-12 18:08:44 | 平成25年 神田祭 神輿宮入

神田駅東地区連合 神田須田町二丁目町会の宮入です。

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現在の神田須田町二丁目が生まれたのは、昭和8年になります。
大正12年(1923)の震災復興の区画整理の際に、「元柳原町、柳町、柳原河岸、小柳町、平永町など」の町が合併され、いまの町の区域が定められました。

昭和20年2月22日と3月10日の東京大空襲では、東京の東半分がほぼ焼き尽くされましたが、須田町二丁目は町の人々が一致団結して防火にあたったため、町内の大半は戦火をまぬがれることができたと言われています。

戦後、須田町二丁目周辺は、羅沙の切り売りなどを生業とする業者が集まり、一時は日本一といわれるほどの繁盛ぶりを示しました。
平成に入り、羅沙屋さんにIT企業も加わり、老若男女で活気ある町となっています。

また、昔から祭り好きの人たちがとても多い土地柄ですが、この界隈には、神田神社・柳森神社・下谷神社の氏子が集まり住んでいます。

今でもこの須田町に住む人々は、お祭り以外にも、様々な町内イベントを行っており、伝統・文化を守り続けていく町会です。

町会の該当区域は、須田町二丁目全域となっています。

【神輿の特徴】

神田須田町二丁目町会の神輿は、日本の発展、復興を願い、神田明神本社の神輿も手がける神輿師、『宮惣』の手により、約80年振りに新調しました。
大きさは二尺八寸(従前の神輿は二尺三寸)、延屋根造り、総彫】、総彩色の神田唯一の神輿です。
町内の柳囃子社中を先頭に、五百名を越える担ぎ手のより宮入します。
新調した神輿と、一致団結した担ぎ手の『技』に注目してください。


神田駅東地区連合 紺屋町南町会

2013-05-12 18:05:52 | 平成25年 神田祭 神輿宮入

神田駅東地区連合 紺屋町南町会の宮入です。

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紺屋町南町会は慶長年間(1596~1615)に徳川幕府の江戸城下に割り当てられた地域で、藍を扱う商人とそれを使用して藍染めをする職人達が多く住んでいたことから紺屋町といわれる様になりました。

全国の城下町には数多くの紺屋町があり、又、江戸にも三ヶ所ありましたが、現在の東京には神田紺屋町が残っているのみとなっています。

その後、併合や分割などを経て今日の地域になりました。
今川中学校の正門の前のブロックです。
中間に北乗物町がありその北と南に分かれているので、戦後昭和30年2月にGHQによって解散させられた町会を復活し南に当たるので紺屋南町会として新たに発足いたしました。

町会の該当区域は紺屋町1~25となっています。

【神輿の特徴】

紺屋町南町会の神輿は、平成11年、町会員の飯田昭次郎の手により作られました。
紙と木で作られた神輿です。今年が2回目の宮入です。