神田祭.ch公式ブログ

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神田駅東地区連合 鍛冶町二丁目町会

2013-05-12 17:40:42 | 平成25年 神田祭 神輿宮入

神田駅東地区連合 鍛冶町二丁目町会の宮入です。

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町名の由来は一丁目と同様です。
多くの鍛冶師 、鋳物師 、釜師などが集まった土地であった事に因んで、名付けられました。

ここ、二丁目界隈は金物のなかでも、とくに刀や薙刀といった打物を扱う業者が多かったのが特徴です。

昭和8年の区画整理で、黒門町、上白壁町、下白壁町、鍛冶町二丁目等が統合され、「神田鍛冶町二丁目」となりました。昭和22年、麹町区と神田区の合併により千代田区神田鍛冶町二丁目となり、更に昭和49年に神田の文字が無くなりました。

近代科学の大先覚者、平賀源内が29才で初めて江戸に出て家を持ったのがこの町であり、生涯を通して最も長く住んだ町であると言われています。

この町会には「良薬にして口に甘し」の浅田飴があります。明治30年からずっとこの地で営業を続けています。元は江戸末期から明治初期にかけて活躍した漢方医の浅田 宗伯処方の「御薬さらし水飴」を「浅田飴」と改め、売り出したのが始まりです。

町会の該当区域は鍛冶町二丁目全域となっています。

【神輿の特徴】

鍛冶町二丁目町会の神輿は、昭和9年、神田神社の再興に伴う祭礼に併せて、宮大工の手により作られました。
大きさは、台輪【だいわ】寸法2尺6寸です。
総欅作りの傑作の神輿です。


神田駅東地区連合 鍛冶町一丁目町会

2013-05-12 17:26:36 | 平成25年 神田祭 神輿宮入

神田駅東地区連合 鍛冶町一丁目町会の宮入です。

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鍛冶町は、慶長8年(1603)の市街地造成の際につくられた町屋です。

因みに「鍛冶」という名は、町が生まれた当初、江戸幕府お抱えの鍛冶方棟梁だった高井 伊織が、この地を幕府より拝領して屋敷を構えたことに由来すると言われています。

多くの鍛冶師、鋳物師、釜師などが集まって築城用金物をはじめとし、建築用金具、鐘、鍋、釜などを製造する一大工業地帯となっていました。

鍛冶町は、江戸時代の武士や庶民にとって必要不可欠な金属製品を提供し、日常生活を支え続けた町でした。

昭和8年、震災復興の区画整理の際に町名変更が実施され、南乗物町等5つの町を一つとした「鍛冶町一丁目【」が誕生しました。

町会の該当区域は、鍛冶町一丁目全域となっています。

【神輿の特徴】

鍛冶町一丁目町会の神輿は神田明神の氏子町会の中で、数少ない入母屋造りの神輿の一つです。
総勢300名の担ぎ手により宮入を行います。
秋葉原電気街での神輿振りは必見です。


神田駅東地区連合 北乗物町町会

2013-05-12 17:18:34 | 平成25年 神田祭 神輿宮入

神田駅東地区連合 北乗物町町会の宮入です。

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北乗物町は、明治2年(1869)に、元乗物町代地、兵庫屋敷代地、神田紺屋町二丁目横町代地が合併して成立しました。

成立時、この地に多くの駕篭職人が入居しました。

町名を付けるにあたり、かつて駕篭などの乗物や馬具を作る職人が集まって居住したために生まれた地名であると言われています。

元乗物町の「元」は日本橋の「新乗物町」に対して名付けられました。
「兵庫屋敷」は兵庫殿という御女中が拝領した屋敷である、と言われています。

町会の該当区域は、北乗物町全域となっています。

【神輿の特徴】

北乗物町町会は山車にご注目ください。
戦後作られた氏子町会最大のこの山車は、電線の高さを考慮に入れて、昭和29年に作成された、「獅子頭太鼓山車」です。
神田神社の正面に建つ「随神門」をぴたりとくぐり抜け、宮入をします。
純金箔貼りの雄、雌の獅子頭を取外し、「獅子頭神輿」として担ぐこともできます。
台座は総欅作りで、丁寧な彫刻が施してあります。
その美しさをご堪能ください。


中神田十三ヶ町連合 司町二丁目町会

2013-05-12 17:03:52 | 平成25年 神田祭 神輿宮入

中神田十三ヶ町連合 司町二丁目町会の宮入です。

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司町二丁目は、「新銀町、雉子町、関口町」等が合併し、昭和10年に設立しました。

新銀町は江戸時代に銀細工を扱う者が住んでいたことに由来し、明治5年に設立しました。

このうち雉子町には、『江戸名所図会を親子三代にわたって完成させたことや、『東都歳事記』『武江年表 』などで有名な、斎藤 月岑が住んでいました。
斎藤家は代々、雉子町の名主を務めていました。

関口町は江戸時代に開かれた町屋で、関口弥太郎という人物が草創名主だったので、それに因んで名付けられました。

町会の守護神として、「真徳稲荷神社」が祀られており、五穀豊穣、悪疫鎮護、商売繁盛の神様として現在に伝えられています。

昭和22年、神田区と麹町区が合併して千代田区が成立すると、司町二丁目は神田司町二丁目となりました。
その後、「神田」が無くなり、司町二丁目となり、現在に至っています。

町会の該当区域は司町二丁目全域となっています。

【神輿の特徴】

司町二丁目町会の神輿は昭和27年、宮本重義の手により作られました。
大きさは2尺5寸で、二重台座になっています。
本塗の屋下総金箔押で彩られています。
台輪の四方には四神彫刻が入っています。
総勢400名の担ぎ手で、750キロの神輿を担ぎます。
平成13年に大補修をしました。
丈は低いですが、重厚な神輿となっています。連合の中でも一番の神輿であると自負しています。


中神田十三ヶ町連合 多町二丁目町会

2013-05-12 16:54:31 | 平成25年 神田祭 神輿宮入

中神田十三ヶ町連合 多町二丁目町会の宮入です。

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多町二丁目は神田青物市場、別名神田田町市場として有名です。

明暦の大火(1657)の前には、青物問屋の数は80軒以上にも増えたと言われています。
大火後に連雀町、佐柄木町の問屋は多町に合併され、神田多町市場と呼ばれるようになりました。

多町一、二丁目の起立時の町の形は昭和8年の住居表示変更まで約330年続きました。以前は、「田んぼ」の「田」の「田町」でしたが、いつ頃に「多い」の「多」の「多町」へ変わったのかは定かではありません。
多町市場に住む人や出入りする人が多くなったこと、また流通する品物や物資が多くなったことなど、町の繁栄とともに「多町」と呼ばれるようになったと言われています。 

町内には歴史のある神社と稲荷が祀られています。
松尾神社は江戸時代初期の頃から、この地にあり、多町市場の発展とともにその歴史を刻んできたと言われています。

もう一つの一八稲荷は徳川三代将軍家光が眼病を患ったときに、乳母の春日局が湧き水を汲みに来たと伝えられています。

町会の該当区域は多町二丁目全域になります。

【神輿の特徴】

多町二丁目町会の現在の神輿は、昭和54年に新しく作り直されました。
旧神輿は大正9年に製作したものでした。
大きさは2尺8寸になり、胴が締り、大きな作りとなっています。