(2021.07.15 Thursday by my jugemブログより転載。)
努力や才能を除外すれば、何事も普通だと言える。
学校や習い事に通えば、皆が大学教授や専門教師になれると思うなら、確かに全ての物事が、普通の域を出ず、「私だって」その学校に通っていれば、語学堪能だったわよ!と「バイリンガルの突出した者」を「普通だ」と言うかもしれない。
つまり、その環境にいれば、「君も」努力や才能が無くともバイリンガルになれるというロジックだが、じゃあ、君と同じ環境に育ったら、バイリンガルの者は、一体、何ができるようになったと思う?
君の環境を、バイリンガル(私は若干トリリンガル)の者にも与えてあげたらどうか?バイリンガルの環境に今さらいても幼い子どもの言語学習能力には勝てないのだから、既に語学能力を身に付けている者(バイリンガル)を、君らの環境に置いてみるだけで、「君らの普通」を達成するだろう。
効率的なプランだ。
私が自分の環境を最大限に活用し、バイリンガルやトリリンガルになった後、カメラの学校や性能の良いカメラを扱うなら、次は写真家の腕を磨くことになる。
そして、絵筆で絵の技法でも習えば、様々な絵を描くだろう。
合唱でも演技でも、どんなクラスにも、通うだけで誰でも合唱家や役者になれるというのが普通なら、通えば皆で、「芸術の僕」だ。いや、《通うだけで、「芸術の神様」になれる》のだろう?「君らだって」?
白痴だと笑われる理由を、詳細に書き出してあげたよ。by 努力も才能もない普通のトリリンガルな文人芸術家・東郷嘉奈元蘇かな久泉語霜月衣千波らんらん虹月日月緋てぃらかなさん雨のち苺baobabbaby月彌千明彌月(みゃむ)鷺宮紫路世詑O型台北日本人学校卒業者 筆。